第20話「ホテルは客を売らない」
翌朝。
目が覚めた瞬間から、胃の辺りが重かった。
別に昨夜の食事が悪かったわけではない。Hotel Aequitasの料理についてそんなことを言えば、ガンゼフに厨房の寸胴鍋へ放り込まれかねないし、そもそも彼の料理は今日も文句なく美味しかった。
原因は分かっている。
今日、聖騎士団が来る。
そして零号室には、もう一人の「到着者」が現れる予定になっている。
私は従業員宿舎のベッドに腰掛けたまま、昨夜から何度目になるか分からない確認をした。手元のスマートフォンには、相変わらず零号室からの通知が表示されている。
NEXT ARRIVAL:TODAY
次の到着――本日。
ただし、到着時刻は表示されていない。名前も種族も不明。ノックスの時と同じく、こちらが欲しい情報だけ綺麗に抜け落ちている。
「せめてETAくらい出してくださいよ……」
ETA――Estimated Time of Arrival。
ホテル業界でも、送迎車や団体客、VIPなどの到着予定時刻を共有する際によく使う言葉だ。到着時刻が分かれば、フロントの人員配置も、ベルスタッフの準備も、客室の最終確認もできる。
しかし、世界の境界を越えてくる正体不明の客に対して、そんな常識を求めるのは間違っているらしい。
昨日までは普通にホテルで働いていたはずなのに、今では「異世界から来る客のETAが分からない」と悩んでいる。
人間、環境には慣れるものだ。
慣れたくはなかったが。
◇
宿舎を出て本館へ向かうと、Hotel Aequitasはすでに一日の営業を始めていた。
朝食会場へ向かう宿泊客たちがロビーを行き交い、チェックアウトの早い客がフロントカウンターへ並んでいる。翼を持つ客のために天井近くを飛び回るベルスタッフが荷物を運び、水棲種族用の移動槽を押すスタッフが通路を横切る。
いつものHotel Aequitasだ。
少なくとも、客から見れば。
昨日、旧館の零号室で何が起きたのかを知っているスタッフは、ごく一部に限定されていた。ブラッドリーの判断で情報共有範囲を絞っているためだ。
ホテルでは、スタッフ間の情報共有は重要だ。しかし、何でも全員に知らせればいいわけではない。宿泊客の個人情報やVIP情報、警備案件などは、業務上必要な者だけが共有する。
いわゆるNeed to Know――知る必要のある者だけに情報を与える考え方だ。
現実世界のホテルでも、著名人や政府関係者が宿泊しているという情報を面白半分でスタッフ同士が共有するなど、あってはならない。
今回の案件は、その究極版だろう。
何しろ「旧館の秘密の部屋から世界の境界を越えて正体不明の生命体がチェックインしました」なのだから、共有されたところで普通のスタッフは困るだけだ。
「おはようございます、ナナサキさん」
「あ、おはようございます」
声をかけてきたフロントスタッフへ挨拶を返す。
「今日は早いですね」
「まあ……いろいろありまして」
「?」
「気にしないでください」
一般スタッフには何も知らせない。
普段通り働いてもらう。
それも今日の方針だった。
「ナナサキ」
フロント奥からナナリーが出てきた。
「おはようございます」
「おはようございます。朝食は?」
「まだです」
「食べてください」
「でも今日は――」
「だからこそです」
有無を言わせない口調だった。
「何が起きるか分からない日に食事を抜く者が、一番先に使い物にならなくなります」
「……ごもっともで」
「十五分で済ませてください。その後、総支配人室へ」
「分かりました」
「それと」
ナナリーは私の服装を一瞥する。
「ネクタイが曲がっています」
「え?」
慌てて直そうとすると、ナナリーが小さくため息をついた。
「じっとして」
「はい」
手早くネクタイを直される。
「聖騎士団が来るからといって、ホテル側まで物々しい格好をする必要はありません。いつも通りにしてください」
「いつも通り……ですか」
「ホテルにとっては、それも防御です」
私は少し驚いた。
「防御?」
「相手がどのような意図で来ようと、こちらはホテルとして応対する。それを崩さないことです」
言い終えると、ナナリーはいつものようにフロントへ戻っていった。
私はその背中を見送りながら、曲がっていたネクタイに触れる。
「……強いなあ」
剣も魔法も使わない。
でも、あの人は間違いなく強い。
◇
朝食を急いで済ませ、総支配人室へ向かう。
中にはすでにブラッドリー、サンディー、ナナリー、バルガス、ゼノが揃っていた。
昨日チェックインしたノックスの姿はない。
「おはようございます」
「おはようございます、ナナサキ」
ブラッドリーが椅子を勧める。
「ノックスさんは?」
「旧館の客室にいらっしゃいます。今朝、バルガスが確認しました」
バルガスが頷いた。
「問題行動はありません。室内から出た形跡もなし。ただし、食事も睡眠も必要ないとのことですので、通常の宿泊客と同じ感覚で状態を判断するのは難しいでしょう」
「ですよね……」
ホテルマンとしては、客室へ入った後に一度も出ず、食事も頼まず、ベッドも使わない客というのは少々気になる。
もっとも、相手は黒い霧のような身体をしている。通常のホテル常識を当てはめる方が間違っているのだろう。
「本題に入りましょう」
ブラッドリーが机上の書類へ視線を落とした。
「昨日の時点で聖騎士団から提示された回答期限は本日。先方の要求は変わっていません」
私は無意識に背筋を伸ばした。
要求。
つまり。
「私の身柄を引き渡せ、ですよね」
「正確には、“人間アラタ・ナナサキを聖法院の保護下へ移送すること”です」
サンディーが鼻で笑う。
「言い方を綺麗にしただけだろ」
「そうとも言えます」
ブラッドリーは否定しなかった。
「先方は、ナナサキの存在がフレーレオおよび周辺地域の安全保障上の脅威となる可能性を理由にしています」
「私、フロントと荷物運びくらいしかしてませんけど」
「世界を滅ぼすベルスタッフだな」
「サンディーさん、笑えません」
「悪い」
絶対悪いと思っていない。
しかし、ブラッドリーの表情は真剣だった。
「ナナサキ。改めて確認します」
「はい」
「あなた自身は、聖法院の保護下へ移ることを希望しますか?」
予想していなかった質問だった。
「私が決めていいんですか?」
「当然です」
「でも、ホテルに迷惑が――」
「それは今聞いていません」
静かな声だった。
けれど、強い。
「あなた自身がどうしたいかを聞いています」
私は黙った。
聖法院。
人間。
門。
ノア。
零号室。
まだ分からないことばかりだ。
聖法院へ行けば、私の知らない情報を得られるかもしれない。元の世界へ帰る手がかりだってある可能性はある。
でも。
私は昨日、ノックスを受け入れた。
Hotel Aequitasの零号室仮管理者になった。
そして何より。
このホテルで。
ようやく。
もう一度働いてみようと思い始めている。
私は膝の上で手を握った。
「行きたくありません」
自分でも驚くほど、すんなり言葉が出た。
「私はここにいたいです」
ブラッドリーが頷く。
「分かりました」
「……それだけ?」
「はい」
「もっと理由とか聞かないんですか?」
「必要ありません」
ブラッドリーは書類を閉じた。
「ならば、Hotel Aequitasとしての回答は決まりです」
サンディーが笑う。
「最初から決まってたようなもんだけどな」
「本人の意思確認は必要です」
「分かってるよ」
私は二人を交互に見る。
「えっと……」
聞くのが少し怖い。
「何て答えるんです?」
ブラッドリーは穏やかに言った。
「お断りします」
「シンプル!」
「ホテルですから」
「その理由、便利に使ってません?」
「そうでしょうか」
またこの顔だ。
絶対分かってやっている。
◇
午前十時を過ぎた頃。
Hotel Aequitas正面玄関前に、聖騎士団が現れた。
前回より人数が多い。
白銀の鎧。
青と金の紋章。
ホテル正面の大通りに整然と並んだ騎士たちの姿は、どう見ても「話し合いに来ました」という雰囲気ではなかった。
だが、Hotel Aequitas側は通常営業を続けている。
玄関ではドアスタッフが客を迎え、ベルスタッフが荷物を運び、フロントではチェックアウトが続いている。警備担当だけは目立たない位置へ増員されているが、それ以外はいつもと同じだ。
これがナナリーの言っていた「防御」なのだろう。
相手が武装して来ても。
こちらはホテルとして迎える。
玄関前に立っていたドアスタッフが、聖騎士団の先頭に立つ男へ声をかけた。
「ようこそ、Hotel Aequitasへ」
すごい。
本当に言った。
「総支配人ブラッドリー・シュチュワードとの面会を求める」
「お約束はございますでしょうか」
「……昨日通告している」
「確認いたしますので、少々お待ちくださいませ」
聖騎士が一瞬言葉に詰まった。
私はロビー奥からその光景を見ていた。
「強いな、ドアスタッフ……」
「何を感心してる」
隣にいたサンディーが呆れる。
「いや、あの状況で普通にアポイント確認するのすごくないです?」
「仕事だからな」
「ホテルマンって強いですね」
「今さらか?」
やがてブラッドリーがロビーへ現れた。
ナナリー、バルガスも同行している。
私も後ろにいる。
ゼノは姿を見せていない。聖法院と彼の過去を考慮し、最初から刺激する必要はないという判断だった。
聖騎士団の代表者がロビーへ入ってくる。
客たちの視線が集まった。
それでもブラッドリーは普段と何一つ変わらない。
「お待ちしておりました」
「ブラッドリー・シュチュワード」
「はい」
「昨日の回答を聞きに来た」
「承知しております」
「人間を引き渡していただこう」
ロビーの空気が変わった。
近くにいた宿泊客たちがこちらを見る。
人間。
その言葉だけで。
この世界では十分すぎるほど目立つ。
ブラッドリーは表情を変えなかった。
「恐れ入りますが」
一拍置き。
「そのご要望はお受けいたしかねます」
聖騎士の目が細くなる。
「理由を聞こう」
「ナナサキ本人が、聖法院への移動を希望しておりません」
「本人の意思は問題ではない」
「当ホテルでは問題です」
「何?」
「Hotel Aequitasへ滞在されている方の意思を無視し、第三者へ引き渡すことはできません」
騎士の声が低くなる。
「相手は人間だ」
「存じております」
「この世界に存在してはならない者だ」
「その判断をHotel Aequitasが行う立場にはありません」
「聖法院にはある」
「それは聖法院の見解でしょう」
穏やかだ。
穏やかなのに、一歩も引いていない。
私はブラッドリーの背中を見ながら、少しだけ息を呑んだ。
「我々はこの世界の秩序を守っている」
騎士が続ける。
「人間が過去に何を引き起こしたか、知らぬわけではあるまい」
「存じております」
「ならば――」
「ですが」
ブラッドリーが言葉を遮った。
「過去の人間が何をしたかと、ナナサキが何をするかは別の問題です」
騎士が黙る。
「当ホテルでは、種族を理由に宿泊者を排除いたしません。天使族であろうと、魔族であろうと、獣人族であろうと、竜族であろうと――人間であろうと同じです」
「綺麗事だ」
「ホテルとは、そういう綺麗事を本気で守る場所だと考えております」
私は思わずブラッドリーを見る。
その言葉は。
妙に。
胸に残った。
Hotel Aequitas。
公平。
公正。
誰であっても。
扉を叩けば。
まず客として迎える。
「では」
聖騎士が剣の柄へ手を置いた。
「実力をもって移送すると言ったら?」
バルガスがわずかに動いた。
ロビーの空気が張り詰める。
しかし。
「その前に、一点確認してもよろしいでしょうか」
ブラッドリーは変わらない。
「何だ」
「現在、皆様はHotel Aequitasの館内にいらっしゃいます」
「それが?」
「館内での武器の使用および他者への暴力行為は禁止しております」
騎士の眉が動いた。
「我々に規則を守れと?」
「はい」
「聖法院の騎士団に?」
「当ホテルをご利用になるすべての方にお願いしております」
私は口元が緩みそうになるのを必死に抑えた。
昨日。
ノックスに言ったことと。
ほぼ同じだ。
「従わない場合は?」
「ご退館をお願いします」
「拒否したら?」
ブラッドリーはそこで初めて。
ほんの少し。
笑った。
「当ホテルの警備部門が対応いたします」
バルガスが静かに一礼する。
怖い。
めちゃくちゃ怖い。
私が聖騎士なら帰る。
しかし騎士は退かなかった。
「我々と敵対するつもりか」
「いいえ」
ブラッドリーは即答した。
「Hotel Aequitasは、どなたとも敵対いたしません」
「ならば人間を渡せ」
「それもできません」
「矛盾している」
「しておりません」
ブラッドリーは静かに騎士を見た。
「私どもは、あなた方の敵ではない。ただし――」
その声には、これまで以上にはっきりとした意志があった。
「お客様を売ることもしません」
その瞬間。
私は何も言えなくなった。
客を売らない。
それは当たり前のようで。
この状況では。
とてつもなく重い言葉だった。
Hotel Aequitasにとって、私は従業員であり、同時にこの世界へ迷い込んだ者でもある。
身分もない。
後ろ盾もない。
この世界の常識からすれば、存在自体が異常。
それでも。
ホテルは。
私を。
渡さないと言った。
騎士は長い間、ブラッドリーを睨んでいた。
やがて剣から手を離す。
「……後悔するぞ」
「ご忠告、ありがとうございます」
「聖法院はこれを正式な拒絶と判断する」
「承知しました」
「次は交渉では済まない」
「その際も」
ブラッドリーは一礼した。
「まずはご来館の目的をお伺いいたします」
「……」
騎士の顔が引きつった。
サンディーが私の隣で小さく吹き出した。
「総支配人、強いですね」
「昔からああだ」
「怒らせたくないなあ」
「今さら気づいたか」
聖騎士団が踵を返す。
その時だった。
私の懐で。
スマートフォンが震えた。
嫌なタイミングだった。
画面を見る。
零号室。
通知。
ARRIVAL PROCEDURE STARTED
「……嘘でしょ」
私は思わず声を漏らした。
「ナナサキ?」
ナナリーがこちらを見る。
「始まりました」
「何がです?」
「次の到着者です」
ブラッドリーが聖騎士団を見る。
まだ彼らはロビーを出ていない。
「場所は?」
「昨日の表示ではHotel Aequitas。でも、具体的には――」
画面が更新される。
ARRIVAL POINT CONFIRMED
その下。
到着地点。
私は目を疑った。
「……正面玄関?」
「何?」
サンディーが聞き返した、その直後だった。
ホテル正面の大扉の向こう。
聖騎士団が並ぶ石畳の中央で、空間が歪んだ。
最初は陽炎のような小さな揺らぎだった。それが徐々に広がり、周囲の景色を引き伸ばすようにねじ曲げていく。通行人が異変に気づき、悲鳴を上げながら離れていった。聖騎士たちも一斉に振り返り、剣へ手をかける。
私は正面玄関へ駆け寄った。
バルガスが制止しようとしたが、その前にブラッドリーが「ここから出ないように」と告げる。私は玄関の内側で立ち止まり、ガラス越しに外の様子を見た。
歪んだ空間の中心に、細い亀裂が生まれていた。
昨日、ノックスが現れた時とは違う。
黒い霧ではない。
亀裂の向こうから漏れてくるのは、白い光だった。
「キーパーの言っていた門か……」
ゼノの声が背後から聞こえた。
いつの間にかロビーへ来ていたらしい。
「ゼノさん」
「あれは昨日のものとは違う」
「分かるんですか?」
「ああ。ノックスが通った境界は不安定な裂け目だ。だが、あれは――」
ゼノの言葉が止まった。
聖騎士団の代表者も、亀裂を見て顔色を変えている。
「まさか……」
その反応を私は見逃さなかった。
「知ってるんですか?」
問いかけても騎士は答えない。
代わりに、部下へ叫んだ。
「全員、門から離れろ!」
明らかに知っている。
空間の亀裂がさらに大きくなる。
白い光が石畳を照らし、Hotel Aequitasの正面玄関からロビーの奥まで差し込んできた。宿泊客たちがざわめき始め、スタッフがすぐに誘導へ動く。
ここでパニックを起こしてはいけない。
私は反射的に仕事へ頭を切り替えた。
「ナナリーさん、ロビーのお客様を奥へ!」
「すでに動かしています」
「サンディーさん、玄関封鎖できます?」
「やる。バルガス!」
「承知!」
スタッフが一斉に動き始める。
誰かが細かく命令したわけでもない。
それぞれが自分の役割を理解している。
ホテルで緊急事態が起きた時、最優先されるのは宿泊客の安全だ。原因究明より先に避難導線を確保し、危険区域への立ち入りを制限する。現実世界であれば火災や地震、不審物などを想定するところだが、まさか異世界で「次元の亀裂」を想定することになるとは思わなかった。
それでも基本は同じだ。
客を危険から遠ざける。
スタッフが混乱しない。
情報を一か所へ集める。
その三つだけは変わらない。
「ナナサキ!」
ブラッドリーの声に振り返る。
「あなたも下がってください」
「でも零号室の管理者は私です!」
「だからこそです。何が出てくるか分からない以上、到着地点の真正面に立つ必要はありません」
正論だった。
私は数歩下がる。
同時に、手元のスマートフォンが再び震えた。
画面には新しい表示が出ている。
GUEST DATA ACQUIRED
「情報が出ました!」
「読んでください」
「種族……」
私は表示を見る。
そこに記された文字を読み上げようとして、止まった。
SPECIES:HUMAN
人間。
「……え?」
喉が乾いた。
もう一度見る。
間違いない。
「ナナサキ?」
ブラッドリーに呼ばれる。
私は顔を上げた。
「人間です」
周囲の空気が止まった。
「次に来るのは……人間です」
ゼノが目を見開く。
聖騎士団の代表者も聞こえたらしく、こちらを振り返った。
そして何より。
私自身が。
信じられなかった。
この世界で。
たった一人だと思っていた。
同じ人間。
門の亀裂が大きく開く。
眩しい光の中。
影が見えた。
人型。
こちらへ向かって歩いてくる。
私は無意識に一歩前へ出そうとしたが、ブラッドリーの腕に止められた。
「まだです」
「でも――」
「到着を確認してからです」
その言葉で、私は我に返った。
そうだ。
人間だからといって安全とは限らない。
私と同じ世界から来たとも限らない。
ノアのような過去の人間かもしれないし、まったく別の世界の存在かもしれない。
今の私は零号室の仮管理者だ。
同族を見つけて喜ぶ前に、Hotel Aequitasの宿泊客とスタッフを守らなければならない。
門の光が最高潮に達した。
次の瞬間、一人の人物が亀裂から石畳へ転がり出る。
同時に空間の裂け目が急速に縮み、白い光も消えていった。
あとに残ったのは、一人の人間だった。
若い。
おそらく二十代。
服装は――。
「……スーツ?」
私は目を凝らした。
黒いジャケット。
白いシャツ。
革靴。
そして首から下げているもの。
社員証らしきカード。
見覚えがある。
いや。
この世界でではない。
現実世界で。
毎日のように見ていた。
男がゆっくり顔を上げる。
周囲には剣を構えた聖騎士団。
目の前には巨大なHotel Aequitas。
当然、何が起きているのか理解できていない。
「……ここ」
声。
日本語。
「どこだ……?」
私は息を呑んだ。
翻訳ではない。
零号室の中ではない。
この男は。
本当に日本語を話した。
「日本人……?」
私が呟くと。
男の視線がこちらへ向いた。
目が合う。
彼も驚いた。
「……日本人?」
同じ言葉。
その瞬間。
聖騎士団の代表者が叫んだ。
「人間を確保しろ!」
騎士たちが動き出す。
「待って!」
私は叫んだ。
同時にHotel Aequitasの警備スタッフも動く。
正面玄関。
聖騎士団。
ホテル。
そして、突然現れたもう一人の人間。
ほんの数分前まで。
私一人を引き渡すかどうかで交渉していたはずだった。
それが今。
状況は完全に変わった。
私は呆然とする男を見ながら、昨日ノックスから聞いた言葉を思い出していた。
――何者か分からなくても、扉を開けた。
なら。
今度は。
私の番なのかもしれない。
私はHotel Aequitasの正面玄関を越えない位置で立ち止まり、混乱する男へ向かって声を張った。
「こっちへ来てください!」
男が私を見る。
「あなた、誰――」
「説明はあとでします! でも、そこにいたら危ない!」
聖騎士が迫る。
男は何も分からないまま、それでも同じ日本語を話す私を信じたのか、Hotel Aequitasへ向かって走り出した。
ブラッドリーは止めなかった。
むしろドアスタッフへ目配せする。
大扉が開く。
ホテルは。
また一人。
正体の分からない者へ。
その扉を開いた。
男が玄関をくぐる。
聖騎士が追おうとした瞬間、バルガスがその前へ立った。
「ここから先はHotel Aequitasの館内です」
「退け!」
「お断りいたします」
その背後で、男は息を切らしながら私を見ていた。
「……あんた」
「はい」
「日本人……なんだよな?」
その問いに、私は少しだけ笑った。
「はい」
この世界へ来てから。
初めて。
その質問に。
何の説明もなく答えられた。
「私も日本人です」
男の顔から緊張が少しだけ抜ける。
けれど私は、次に何を言えばいいのか迷った。
ようこそ異世界へ。
ここはHotel Aequitasです。
あなたは世界の境界を越えてきました。
どれも初対面の人間へ伝える言葉としてはどうかしている。
結局。
私の口から出たのは。
一番慣れている言葉だった。
「とりあえず――」
私は男へ向き直り、いつものように頭を下げた。
「ようこそ、Hotel Aequitasへ」
男は目を丸くした。
まあ。
そうなるだろう。
私だって同じ立場ならそうなる。
ただ、一つだけ確かなことがある。
今日のHotel Aequitasは。
どうやらまだ。
チェックイン一件では終わってくれそうになかった。
――第20話 完




