第19話「名前のない宿泊客」
零号室の扉の隙間から流れ込んできた黒い霧は、床を這うようにしてゆっくりと室内へ広がっていった。
煙とは違う。風に揺らぐこともなければ、天井へ昇っていく様子もない。まるで自らの意思で進む場所を選んでいるかのように、黒い霧は私たちの足元を避けながら部屋の中央へ集まっていく。
その異様な光景を前に、誰もすぐには動けなかった。
いや、正確には違う。
動けなかったのは、私だけだ。
バルガスはすでに私と黒い霧の間へ入り、いつでも武器を抜けるよう腰を落としている。ブラッドリーも私を庇える位置へさりげなく移動し、ゼノに至っては先ほどまでとは明らかに違う顔で霧を睨みつけていた。
そして、零号室の案内人を名乗ったキーパーだけが、何事も起きていないかのように平然としている。
「管理者」
そのキーパーが私を呼んだ。
「新規到着者を確認しました。受け入れ手続きを開始してください」
「……ちょっと待ってください」
「はい」
「この状況で?」
「この状況だからこそ、です」
私は思わず黒い霧を見る。
つい先ほど、霧の中から確かに声が聞こえた。
――やっと、見つけた。
しかも日本語で。
この世界へ来てから、私以外の口から日本語を聞いたのは初めてだった。
ノア・ウィンスレットが英語を使っていたことは分かっている。過去には他にも人間がいたらしい。けれど、それはあくまで過去の話だ。今、この世界にいる人間は私一人。それがこれまで聞かされてきた事実だった。
「キーパーさん」
「何でしょう」
「今の声、聞こえました?」
「はい」
「日本語でした」
「あなたには、そのように聞こえています」
妙な言い方だった。
「……私には?」
「到着者の発話は、零号室を介して管理者が理解可能な言語へ変換されています」
「じゃあ、日本語を話しているわけじゃない?」
「その可能性が高いでしょう」
少しだけ安心した。
同時に、別の意味で怖くなった。
つまり、あの霧の中にいる何かは人間とは限らない。それどころか、私たちと同じ言語体系を持っている保証すらないということだ。
「アラタ、下がれ」
ゼノの声が飛んできた。
「でも――」
「こいつは客ではない」
その言葉に、キーパーが初めてゼノへ視線を向けた。
「訂正します」
「何?」
「現時点では、到着者です」
「同じことだろう」
「異なります」
キーパーは淡々と答えた。
「到着者がHotel Aequitasの宿泊客となるには、受け入れ手続きが必要です。それを判断するのが零号室の管理者です」
全員の視線が私へ集まった。
「……私ですよね」
「はい」
「まだ仮管理者なんですけど」
「権限上の差異はありません」
「そこは差をつけてほしかったなあ……」
冗談を言ってみたものの、笑える状況ではない。
私は改めて霧を見る。
受け入れるか、拒否するか。
それを私が決める。
けれど、判断材料が何もない。
「情報は?」
「現在取得中です」
キーパーが片手を上げると、空中に淡い光が浮かび上がった。
見た目はホテルの予約管理画面によく似ている。宿泊者名、出身、種族、滞在目的――そういった項目が縦に並んでいる。
ただし、そのほとんどが空欄だった。
名前、不明。
種族、不明。
出身世界、不明。
滞在目的、不明。
安全性――判定不能。
「……これで何を判断しろと?」
「管理者判断です」
「その管理者に情報を渡すのも仕事でしょう!」
「取得できないものは提示できません」
「正論で返された……」
思わず額を押さえる。
ホテルマンとして最も困るのは、客の要望が難しいことではない。何を求めているのかすら分からないことだ。
情報が足りない。
なら、どうする。
現実世界で働いていた頃なら――。
「ナナサキ」
ブラッドリーに呼ばれ、私は顔を上げた。
「ホテル業務として考えてください」
「これをですか?」
「ええ」
ブラッドリーは黒い霧から視線を逸らさないまま、静かに続けた。
「予約情報が確認できないお客様がフロントへいらっしゃった。お名前も、予約経路も、ご希望も分からない。そういう場合、あなたならどうしますか?」
「……まず、話を聞きます」
「そうですね」
「名前を確認して、予約があるのか調べる。なければ宿泊希望なのか、誰かとの待ち合わせなのか、レストラン利用なのか……目的を確認します」
「では、そうしてください」
「簡単に言いますね」
「ホテルの基本ですから」
言われてしまえば、その通りだった。
目の前にいるものがあまりにも異質だから、私は勝手に難しく考えていた。
分からないなら聞く。
それでも分からなければ、分かるところから確認する。
ホテルマンが普段やっていることだ。
私は小さく息を吸った。
「……分かりました」
バルガスの横を抜けようとすると、腕を出して止められた。
「ナナサキ殿。私より前へ出ないでください」
「でも、話さないと」
「ここからでも話せます」
「……確かに」
何も正体不明の霧へ近づく必要はない。
ホテルマンとしての責任感と無謀は別物だ。
私はバルガスの後ろに立ったまま、姿勢を整えた。
こんな時でも、長年染みついた癖は抜けないらしい。背筋を伸ばし、相手へ身体を向ける。口元には自然な笑みを――作ろうとしたが、さすがに今回は少し引きつった。
「いらっしゃいませ」
自分で言っておいて、凄まじい違和感があった。
黒い霧に向かって「いらっしゃいませ」と言う日が来るとは、現実世界でホテルマンをしていた頃には想像すらしなかった。
「Hotel Aequitasへようこそ。恐れ入りますが、ご利用目的をお伺いしてもよろしいでしょうか」
返事はなかった。
霧だけが静かに揺れている。
数秒待つ。
ホテルでは、客が言葉を探している時に焦って質問を重ねるべきではない。まして相手が、こちらとはまるで異なる存在ならなおさらだ。
やがて、霧の奥から声がした。
「……ホテル」
「はい」
「ここが……Aequitas?」
先ほどよりもはっきり聞こえた。
「はい。こちらはHotel Aequitasです」
そう答えた瞬間、霧の動きが止まった。
「……まだ、あったのか」
その言葉に、ゼノが反応した。
「お前はAequitasを知っているのか」
霧がゆっくりと動いた。
こちらを向いた。
そう感じた。
顔などないのに、確かに視線を向けられたような感覚がある。
「ゼノさん」
「分かっている」
私が制止する前に、彼はそれ以上近づくのをやめた。
ただ、その表情は険しいままだ。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
私は質問を続けた。
長い沈黙の後、返ってきた答えは意外なものだった。
「……名前?」
「はい。お客様のお名前です」
「ない」
「ない?」
「忘れた」
その声からは感情らしいものがほとんど読み取れなかった。
「長く……呼ばれていない」
胸の奥に引っかかるものがあった。
名前を持っていないのではない。
忘れた。
呼ばれなくなってから、名前を覚えていられないほど長い時間が経った。
そういう意味に聞こえた。
ゼノも同じことを考えたのか、低い声で問いかける。
「お前はどこから来た」
霧の中の存在は答えなかった。
「門の向こうか」
その瞬間。
黒い霧が大きく波打った。
室内の空気が急激に冷え、バルガスが剣の柄へ手をかける。ブラッドリーもすぐに私の肩へ手を置き、一歩後ろへ下がらせた。
「ゼノ様」
「……分かっている」
ゼノは手を上げ、敵意がないことを示した。
それから先ほどより静かな声で尋ねる。
「境界の向こうにいたのか」
「境界……」
霧の中の存在が、その言葉を確かめるように繰り返した。
「そう……呼んでいたな」
「誰が?」
「たくさん」
「人間か?」
再び、長い沈黙。
「……人間」
霧が少しだけ揺れる。
「いた」
私の心臓が大きく鳴った。
「人間を知ってるんですか?」
思わずホテルマンとしての口調が崩れた。
相手はゆっくりこちらを向く。
「お前も……人間」
「はい」
「まだ……いたのか」
その言葉は奇妙だった。
まるで、この世界から人間がいなくなったことを知っているかのような言い方だ。
「過去に会った人間の名前を覚えていますか?」
「名前……」
私は迷った。
聞くべきか。
だが、隣を見るとゼノが何も言わず霧を見つめている。その横顔だけで、彼が誰の名前を待っているのか分かってしまった。
「ノア・ウィンスレットという人を、知っていますか?」
黒い霧が止まった。
完全に。
今まで絶えず揺らいでいた輪郭が、まるで時間ごと止まったかのように静止する。
そして。
「……ノア」
ゼノが息を呑んだ。
私も無意識に拳を握っていた。
「知ってるんですか?」
「知っている」
「どこで会ったんです?」
「向こう」
短い答えだった。
だが、それだけで十分だった。
ゼノが一歩踏み出す。
「いつだ」
声が震えている。
「いつノアに会った」
「ゼノさん」
「アラタ、今は黙っていろ」
「でも――」
「ノアはどこにいる!」
怒鳴り声が零号室に響いた。
黒い霧が激しく揺れた。
バルガスが剣を抜く。
同時にゼノの周囲にも魔力が膨れ上がり、室内の古い家具がびりびりと震え始める。
私は反射的にゼノの腕を掴んだ。
「ゼノさん!」
「離せ!」
「駄目です!」
「ノアが生きているかもしれないんだぞ!」
「だからですよ!」
自分でも驚くほど強い声が出た。
ゼノがこちらを見る。
怒っている。
いや。
違う。
焦っているのだ。
何百年、あるいは何千年もの間、死んだと思っていた相手の名前が突然出てきた。しかも、目の前の存在はその相手を知っているという。
冷静でいろという方が無理なのかもしれない。
それでも。
「今ここでこの方を怯えさせて、何も話してくれなくなったらどうするんです」
「……」
「ノアさんのことを知りたいのは分かります。でも、だからこそちゃんと話を聞きましょう」
ゼノの腕から少しずつ力が抜けていった。
周囲を満たしていた魔力も薄れていく。
しばらくして、彼は私の手を振りほどくのではなく、自分から一歩後ろへ下がった。
「……悪かった」
短い言葉だった。
けれど、ゼノが自分から謝ったことに私は少し驚いた。
黒い霧もまた、徐々に落ち着きを取り戻していく。
「こちらも申し訳ありません」
なぜか私まで頭を下げる。
「当ホテルの関係者が大きな声を出してしまいました」
「おい」
「今はホテル側の人間みたいなものじゃないですか」
「私は客だ」
「だったら他のお客様を怒鳴らないでください」
「……」
ゼノが黙った。
勝った。
いや、別に勝負ではない。
ブラッドリーが口元をわずかに緩めていたので、見なかったことにした。
◇
黒い霧の存在から話を聞くためには、まず彼――彼と呼んでいいのかも分からないが――を落ち着かせる必要があった。
そこで私たちは、零号室の中に残されていた椅子を使うことにした。
もっとも、相手は霧のような身体なので座れるかどうかも分からない。
「こちらへどうぞ」
試しに勧めてみると、黒い霧は椅子の前まで移動し、そこへ形を合わせるように留まった。
座っている。
たぶん。
「……座れるんだ」
「ナナサキ」
「すみません」
ナナリーがいたら絶対に注意されていただろう。
キーパーが用意した宿泊者情報は、相変わらずほとんど埋まっていない。名前がない以上、登録処理そのものが進められないらしい。
「呼び名が必要ですね」
私が言うと、霧の存在がこちらを向いた。
「呼び名?」
「はい。ずっと“お客様”でもいいんですが、長くお話しするなら何かお名前があった方が便利です。昔のお名前を思い出せないなら、仮のお名前でも構いません」
「名前……」
しばらく考えているようだったが、やがて返ってきたのは「何でもいい」という答えだった。
これが困る。
現実世界でも「部屋はどこでもいい」「食事は何でもいい」と言われた時ほど判断に迷うことがある。本当に何でもいい人もいるが、実際には本人の中に言語化されていない希望が存在する場合も多い。
「では……ノックス、というのはどうでしょう」
「ノックス?」
「夜、という意味を持つ言葉から取りました。見た目だけで決めるのも失礼かもしれませんが」
黒い霧を見て“黒いからノックス”というのも我ながら単純だ。
「もちろん嫌なら別のものを考えます」
「ノックス」
相手は自分で確かめるようにその音を繰り返した。
やがて、白い目がわずかに細くなる。
「それでいい」
「ありがとうございます」
キーパーを見ると、空中の表示が更新された。
Guest Name:NOX
仮登録。
それでも、先ほどまでUNKNOWNだった欄へ名前が入っただけで、目の前の存在が少しだけ理解可能なものになったような気がした。
「では、ノックス様」
「……様?」
「ホテルですから」
「妙だな」
「よく言われます」
実際はそんなに言われていない。
「改めてお伺いします。Hotel Aequitasへ来られた目的は何でしょうか」
ノックスはしばらく答えなかった。
白い目が私を見ている。
その視線には敵意よりも、何かを確かめようとする色があるように感じられた。
「会いに来た」
「どなたに?」
「お前」
「……私?」
「アラタ・ナナサキ」
背筋が冷えた。
名前を教えていない。
「どうして私の名前を?」
「聞いた」
「誰からです?」
ノックスの答えを聞く前から、予感はあった。
「ノア」
やはり。
ゼノが再び反応したが、今度は前へ出なかった。
私は質問を続ける。
「ノアさんから、私の名前を聞いた?」
「そうだ」
「いつです?」
「分からない」
「どれくらい前かも?」
「向こうでは、時間が違う」
私はゼノを見る。
彼も眉を寄せていた。
「境界の向こうでは、こちらと同じように時間が流れないということか」
「流れる」
ノックスは答えた。
「だが、同じではない」
それだけでは意味を完全には理解できない。
けれど、ノアがこの世界から消えてから途方もない時間が経っている一方で、向こうではそれほど経っていない可能性もあるということだろうか。
「ノアさんは……今も生きてるんですか?」
私が尋ねると、ノックスは迷わなかった。
「生きている」
今度は誰も声を出さなかった。
ゼノも。
ブラッドリーも。
バルガスも。
キーパーでさえ沈黙している。
私はゆっくりゼノを見た。
彼はノックスを見たまま動かなかった。
その横顔から何を考えているのか読み取ることはできない。ただ、固く握られていた拳がわずかに震えている。
「……本当に?」
ゼノの声は、先ほどの怒鳴り声とはまるで違っていた。
「ああ」
「ノアが」
「ああ」
「生きているのか」
「生きている」
同じ問い。
同じ答え。
それでもゼノには、何度でも確認する必要があったのだろう。
長い間、死者として記憶してきた人間が生きている。
そんな事実を、一度聞いただけで受け入れられるはずがない。
ゼノは目を閉じた。
「……そうか」
たった三文字。
けれど、その言葉にどれほどの時間が詰まっているのか、私には想像することしかできなかった。
しばらく誰も話さなかった。
この沈黙だけは、急いで埋めてはいけないような気がした。
◇
「それで」
最初に沈黙を破ったのはノックスだった。
「ノアから伝言がある」
「伝言?」
私は身を乗り出す。
「私にですか?」
「ああ」
「何て?」
ノックスは少し間を置いた。
重大なことを言われるのだと思った。
門を閉じろ。
聖法院を信用するな。
元の世界へ帰る方法を探せ。
あるいは、Hotel Aequitasに関わる何か。
身構えた私に、ノックスは淡々と告げた。
「――ホテルを辞めるな」
「…………」
私は瞬きをした。
「はい?」
「ホテルを辞めるな」
「聞こえてます」
聞こえている。
意味も分かる。
だからこそ意味が分からない。
「……それだけ?」
「それだけだ」
「ノアさん、私が元の世界でホテル辞めようとしてたの知ってるんですか!?」
「知らない」
「じゃあ何でそんなピンポイントな伝言なんですか!」
「私に聞くな」
「そりゃそうですけど!」
思わず頭を抱えた。
私は確かにホテルマンを辞めようとしていた。
接客に疲れた。
ホテルという仕事そのものが嫌になりかけていた。
だから違う業種へ転職しようとして、その面接へ向かう途中で事故に遭った。
それが異世界へ来る直前の私だ。
そんな私に。
何百年も前にこの世界へ来たはずの人間から。
――ホテルを辞めるな。
あまりにも出来すぎている。
「……何なんだ、あの人」
会ったことすらない相手なのに、妙に腹が立つ。
「ナナサキ」
ブラッドリーが呼ぶ。
「何です?」
「私は非常に良い伝言だと思います」
「総支配人はそうでしょうね!」
「ええ」
「即答しないでください!」
ブラッドリーが珍しく笑った。
ゼノも口元を僅かに緩めている。
「ノアらしい」
「どこがです?」
「必要な説明を省いて、余計な一言だけ残すところだ」
「ものすごく迷惑な人じゃないですか」
「そう言っている」
「腐れ縁になる理由がちょっと分かってきましたよ」
そう言うと、ゼノは鼻で笑った。
ほんの少し前まで張り詰めていた零号室の空気が、わずかに和らいだ。
目の前にいるノックスは依然として正体不明だ。ノアが生きているという話も、まだ彼の証言しかない。何も解決していない。
それでも、ゼノにとっては大きな変化だったのだと思う。
死んだと信じるしかなかった相手が、どこかで生きているかもしれない。
その可能性が生まれただけでも。
「ノックス様」
私は改めて彼へ向き直った。
「ノアさんのことは、あとで詳しく聞かせてください」
「ああ」
「その前に、一つ確認させてください」
「何だ」
「あなたはHotel Aequitasに宿泊する意思がありますか?」
ノックスが黙った。
ここは大事なところだ。
零号室へ到着したからといって、本人が宿泊を希望しているとは限らない。誰かに会うためだけにホテルを訪れる客もいる。届け物だけして帰る者もいる。
そして何より。
「宿泊されるのであれば、守っていただきたいことがあります」
「規則か」
「はい」
理解が早い。
「Hotel Aequitasには現在、多くのお客様が滞在されています。種族も、文化も、立場も様々です。当ホテルでは、他のお客様や従業員へ危害を加える行為は認められていません」
私はそこで一度言葉を区切った。
ノックスはゼノを知っていた。
聖法院にも何らかの因縁がある可能性が高い。
だが、Hotel Aequitasの中でその因縁を理由に争われては困る。
「ゼノさんに対しても同じです。過去に何があったとしても、館内で争うことはお断りします」
「私にも言っているのか」
ゼノが不満そうに口を挟む。
「もちろんです」
「私は何もしていない」
「さっき怒鳴ったでしょう」
「あれは――」
「お客様同士のトラブルは困ります」
「……分かった」
渋々といった様子ではあるが、了承は取れた。
私はノックスを見る。
「いかがでしょう」
「守れば」
「はい」
「ここにいていいのか」
その質問に、私は少しだけ戸惑った。
言葉そのものは単純だ。
けれど。
“泊まれるのか”ではなく。
“ここにいていいのか”。
ノックスがどれほど長く境界の向こうにいたのかは分からない。名前を忘れるほど長い間、誰からも呼ばれずにいた存在だ。
そんな彼が今、Hotel Aequitasで尋ねている。
ここにいていいのか、と。
私はブラッドリーを見た。
最終的に現在のHotel Aequitasへ宿泊させるなら、総支配人の判断も必要だと思ったからだ。
ブラッドリーは私の視線の意味を理解し、静かに頷いた。
それで十分だった。
「もちろんです」
私はノックスへ向き直る。
「規則を守っていただけるのであれば、種族や出身を理由に宿泊をお断りすることはありません」
「私が何者か分からなくても?」
「分からないことは、これから確認します」
言いながら、私は自分でも不思議な気持ちになった。
この世界へ来た初日。
私も何者か分からない存在だった。
人間。
この世界にはもう存在しない種族。
身分証明書もない。
この世界の金もない。
行く場所もない。
それでもHotel Aequitasは、私を中へ入れた。
なら。
「少なくとも、このホテルはそういう場所みたいなので」
ノックスはしばらく私を見ていた。
やがて、黒い霧で形作られた身体がほんの少し揺れる。
「……泊まる」
「承知いたしました」
その言葉を聞いた瞬間、不思議なくらい身体が仕事へ切り替わった。
「それでは、ご宿泊のお手続きを進めます。滞在期間はお決まりでしょうか?」
「分からない」
「ですよね」
予想はしていた。
「では一泊で登録し、必要に応じて延泊を承ります。よろしいですか?」
「ああ」
「お食事は必要ですか?」
「食べない」
「室温や湿度にご希望は?」
「ない」
「寝具は?」
「使わない」
「……客室、必要です?」
思わず聞いてしまった。
ノックスが首らしき部分を傾ける。
「宿泊するなら、部屋が必要なのではないのか」
「おっしゃる通りです」
そこは律儀なんだ。
ブラッドリーが口元を押さえていた。絶対に笑っている。
キーパーの表示にも情報が追加されていく。
食事不要。
温度指定なし。
寝具不要。
身体形状――可変。
最後の項目だけ、私は二度見した。
「身体形状、可変?」
「今の姿が本来の姿とは限らないということです」
キーパーが説明する。
「客室設備への影響は?」
「現状では確認されません」
「魔力反応は?」
「極めて特殊ですが、館内設備へ直接的な干渉は確認されていません」
「なら、一般客室でも?」
「ナナサキ」
ブラッドリーが口を挟んだ。
「念のため、旧館側の客室を使用しましょう」
「やっぱりその方がいいですよね」
安全性が完全に確認できていない以上、いきなり一般宿泊客の隣室へ入れるわけにはいかない。これは差別ではなく、安全管理の問題だ。
ホテルでは、客本人だけではなく、周囲の宿泊客への影響まで考える必要がある。
「バルガス。使用可能な部屋を確認できますか?」
「すでに調査した区画であれば、一室あります。ただし再点検が必要です」
「お願いします」
「承知しました」
バルガスが一礼し、零号室を出ていった。
私はその背中を見送りながら、ふと妙な感覚を覚えた。
ついさっきまで、目の前の存在を“何か”としか認識できなかった。
黒い霧。
正体不明。
門の向こうから来た存在。
それが今は。
ノックス様。
一泊。
食事なし。
客室準備中。
ホテルという仕組みは、恐ろしいほど強引に未知を日常へ引きずり込むらしい。
◇
それから十分ほどして、バルガスから客室の安全確認が取れた。
旧館二階の一室。
零号室ほど古い区画ではなく、比較的後年まで使用されていた客室らしい。設備自体は古いものの、魔導灯や施錠機構は問題なく使用できるという。
「それでは、お部屋までご案内いたします」
私はノックスへ声をかけた。
すると、黒い霧の身体が椅子から立ち上がるように形を変えた。
「アラタ」
ゼノが私を呼び止める。
「一人で行くな」
「もちろんです」
私だってそこまで無謀ではない。
結局、ノックスの客室案内には私とバルガスが同行することになった。ブラッドリーとゼノは零号室へ残り、キーパーから門やノアについてさらに情報を聞く。
零号室を出る直前、私は振り返った。
ゼノはキーパーと話していた。
その表情はまだ険しい。
それでも、以前とは少し違う。
今までは過去を振り返るたび、そこにあるのは後悔だった。
だが今は。
その先に、まだ続きがあるかもしれない。
「ナナサキ殿?」
「あ、すみません」
バルガスに呼ばれ、私は廊下へ出た。
ノックスが静かについてくる。
旧館の廊下を三人で歩く。
魔導灯の淡い光が古い壁を照らし、長く使われていなかった絨毯の上へ私たちの影を落としている。
「ノックス様」
「何だ」
「一つ聞いても?」
「ああ」
「ノアさんって、どんな人でした?」
しばらく返事がない。
質問が曖昧すぎただろうか。
やがて。
「うるさい」
「……はい?」
「よく喋る」
私は思わず笑ってしまった。
「やっぱり?」
「黙れと言っても喋る」
「ゼノさんと同じこと言ってる」
「よく怒る」
「ノアさんが?」
「ゼノが」
「ああ、そっち」
少し想像できた。
「二人、仲良かったんですね」
「仲が悪かった」
「本人たちもそう言うんですよ」
「だが」
ノックスはそこで言葉を止めた。
「ノアは、ゼノの話をよくした」
私は足を少し緩めた。
「何て?」
「頑固で、面倒で、頭が固くて、口が悪い」
「悪口しかないな」
「そして」
ノックスの白い目が、わずかに細くなる。
「信用できる、と」
私は何も言わなかった。
その言葉は。
今、本人に伝えるべきではない気がした。
いつか。
もっといいタイミングで。
「分かりました」
「何がだ」
「いえ。何でもありません」
やがて客室へ到着した。
バルガスが先に中を確認し、安全を確かめてから私たちを通す。
古いが、悪い部屋ではなかった。
窓。
ベッド。
小さな机。
椅子。
そして壁には、現在とは少し違うHotel Aequitasの天秤の紋章。
「こちらのお部屋をご用意いたしました」
ノックスは室内をゆっくり見回した。
「何か不都合がございましたら、お申し付けください。旧館には通常スタッフがおりませんので、しばらくは警備担当を近くに配置します」
「監視か」
鋭い。
「……安全確認も兼ねています」
「正直だな」
「嘘ついても仕方ないので」
「嫌いではない」
「ありがとうございます」
褒められた……のだろうか。
私は部屋の鍵を机へ置いた。
「それでは、ノックス様」
改めて姿勢を整える。
目の前にいるのは、正体不明の存在。
門の向こうから来たもの。
ノアを知る者。
もしかすると、この世界の歴史そのものを変える情報を持っているかもしれない。
けれど。
今は。
Hotel Aequitasに泊まる、一人の客だ。
「改めまして、ようこそHotel Aequitasへ。どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
頭を下げる。
顔を上げると、ノックスはしばらくこちらを見ていた。
「……変わらないな」
「何がです?」
「ここは」
ノックスは壁の天秤を見た。
「昔も、そうだった」
「昔?」
「何者か分からなくても、扉を開けた」
その言葉に。
私はHotel Aequitasの始まりを思い出した。
雨の夜。
敵同士だった者たち。
小さな宿。
そして。
壊れた屋根を直した、一人の人間。
「それが」
ノックスは静かに続けた。
「ノアが、この場所を好きだった理由だ」
私は何も答えられなかった。
ただ。
少しだけ。
嬉しかった。
「では」
私は扉の前で、もう一度頭を下げた。
「おやすみなさいませ」
ノックスが頷く。
扉を閉める。
カチリと鍵がかかった。
廊下へ出た私は、ようやく大きく息を吐いた。
「……疲れた」
「お疲れ様でした」
バルガスが真面目に労ってくれる。
「チェックイン一件でこんなに疲れたの、初めてですよ」
「特殊なお客様でしたから」
「特殊で片づけていいんですかね……」
それでも。
終わった。
一件。
たった一件。
私は異世界へ来てから、いろいろな種族の客を見てきた。
翼を持つ者。
水の中で暮らす者。
巨大な身体を持つ者。
魔法を使う者。
それでも今日ほど、「客とは何なのか」を考えた日はなかった。
名前すらない。
種族も分からない。
姿すら定まらない。
そんな存在でも。
扉を叩き。
泊まりたいと言い。
規則を守ると言った。
だから。
Hotel Aequitasは受け入れた。
「Aequitas……か」
公平。
公正。
このホテルの名前が。
今までより少しだけ。
重く感じられた。
その時だった。
懐に入れていたスマートフォンが、小さく震えた。
「……また?」
嫌な予感を覚えながら画面を確認する。
零号室のアプリ。
新着通知。
私は開いた。
CHECK-IN COMPLETE
宿泊者名。
NOX
「ちゃんと登録されてる……」
その下には滞在状況。
STAYING
滞在中。
ここまではいい。
問題は。
さらに下。
新しい項目が追加されていた。
MESSAGE FROM ROOM 0
零号室からのメッセージ。
私は画面へ触れた。
表示された文章は短かった。
FIRST ARRIVAL ACCEPTED.
――最初の到着者を受け入れました。
「……最初?」
嫌な言葉だった。
最初ということは。
次がある。
画面が更新される。
NEXT ARRIVAL:CALCULATING
次の到着。
算出中。
私は廊下で立ち止まった。
「ナナサキ殿?」
「ちょっと待ってください」
数秒後。
表示が変わった。
到着予定者数。
1
私は少しだけ安心した。
さすがに前回のように、いきなり何十人も押し寄せるような展開ではないらしい。
だが。
その安心は。
次に表示された項目を見た瞬間、消えた。
ARRIVAL LOCATION:HOTEL AEQUITAS
到着場所。
Hotel Aequitas。
そして。
ESTIMATED ARRIVAL:TOMORROW
「……明日」
私は顔を上げた。
明日。
何かあった。
思い出すのに時間はかからない。
聖騎士団。
Hotel Aequitasへ通告された期限。
人間である私を引き渡すか。
ホテルとして拒絶するか。
その回答を求めて、彼らが再びやって来る日。
その同じ日に。
零号室にも。
次の“客”が到着する。
「……勘弁してくださいよ」
静かな旧館の廊下で、私は思わず天井を見上げた。
もちろん。
誰も答えてくれない。
Hotel Aequitasにとって。
明日は。
どうやら。
かなり忙しい一日になりそうだった。
――第19話 完




