第18話「零号室のコンシェルジュ」
零号室の中央に立っていた男は、あまりにも自然にそこへ存在していた。
黒いスーツ。白いシャツ。無駄のない身なり。そしてHotel Aequitasのスタッフと同じように、客を迎える者として完成された所作。
何より異様だったのは、その姿がどう見ても人間だったことだ。
この世界に人間は私しかいない。
そう聞いてきた。そう信じてきた。だからこそ私は、フレーレオへ来た初日から散々珍しがられ、Hotel Aequitasでも“人間”というだけで周囲の目を引いた。
なのに。
「初めまして」
男は穏やかな笑みを浮かべ、もう一度美しく一礼した。
「零号室専属コンシェルジュを務めております。私を――“キーパー”とお呼びください」
私は数秒、言葉を失っていた。
「……いや」
ようやく声が出た。
「待ってください」
「はい」
「あなた、人間ですよね?」
キーパーは少しだけ首を傾げた。
「人間に見えますか?」
「見えます」
「それは何よりです」
「質問に答えてませんよね?」
「よくお気づきで」
「接客で煙に巻かないでください!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
後ろではバルガスが明らかに警戒している。ブラッドリーもいつもの穏やかな表情こそ崩していないが、視線は完全に“客を見る目”ではなく、状況を分析する総支配人のものだった。
そしてゼノだけは、目の前の存在を見た瞬間から一言も発していない。
「ゼノさん?」
呼びかける。
返事はない。
彼の顔には、驚愕と警戒、そしてほんのわずかな恐怖が入り混じっていた。
「……知ってるんですか」
私が聞くと、ゼノはようやく口を開いた。
「似ている」
「何に?」
「門から聞こえた声に」
空気が一気に冷えた。
私は反射的にキーパーを見る。
彼は否定もしなければ、肯定もしない。ただ穏やかな笑みを浮かべたまま立っている。
「キーパーさん」
「はい」
「あなたは何者なんですか」
「コンシェルジュです」
「そういうことじゃない!」
「では、質問をもう少し具体的にしていただけますか?」
私は額を押さえた。
この人、ものすごく面倒だ。
いや、人と呼んでいいのかすら分からない。
「種族は?」
「ありません」
「出身地は?」
「ありません」
「年齢」
「定義できません」
「……ホテルマン歴」
聞いてから自分でも何を聞いているのか分からなくなった。
キーパーは少し考える。
「零号室が存在してから、ずっと」
「一番怖い回答きたな……」
私は思わず呟いた。
ブラッドリーが一歩前へ出る。
「失礼ですが、当ホテルの従業員名簿にあなたの登録はありません」
「承知しております」
「では、Hotel Aequitasとの関係を説明していただけますか」
総支配人の声は柔らかい。
だが、逃げ道はない。
キーパーもそれを理解したのか、少しだけ表情を変えた。
「私が所属しているのは、現在のHotel Aequitasではありません」
「現在の?」
「はい」
彼は部屋を見回した。
「私は“零号室”に付随する案内機能です」
「案内……機能?」
「人間ではない?」
私が聞く。
「人間ではありません」
即答だった。
その瞬間。
なぜか私は少しだけ安心した。
この世界で人間は私だけ。
そのルールが破られたわけではない。
でも。
「じゃあ何で人間の姿を?」
「宿泊者に最も警戒されにくい姿を選択しています」
「……私に合わせた?」
「はい」
キーパーは微笑む。
「アラタ・ナナサキ様にとって、最も理解しやすい形です」
つまり。
この姿は本物ではない。
人間に見えるだけ。
私はキーパーをじっと見る。
「声も?」
「調整されています」
「日本語も?」
「宿泊者の言語へ自動変換されています」
「便利ですね」
「コンシェルジュですので」
「ブラッドリーさんみたいなこと言わないでください」
横を見る。
ブラッドリーが少しだけ眉を上げた。
「私はそのような言い方を?」
「します」
「そうでしたか」
「そこ、とぼけないでください」
こんな状況なのに、少しだけ空気が緩む。
ただしゼノだけは笑わなかった。
「キーパー」
彼が低い声で呼ぶ。
「お前は門と何の関係がある」
「密接な関係があります」
「説明しろ」
「承知しました」
キーパーは机の横へ移動し、古い天秤の紋章へ手を触れた。
すると床に淡い光が走り、部屋中央に半透明の図が浮かび上がる。
複数の円。
それぞれが細い線で繋がっている。
「これは?」
私は近づく。
「世界です」
「……世界?」
「正確には、零号室が観測可能な世界層」
以前、あの声が言っていた。
――第七世界層。
「世界って、一つじゃないんですか?」
「一つではありません」
キーパーは淡々と説明する。
「世界は互いに独立しています。本来、接触することはありません。しかし、ごく稀に境界が薄くなり、異なる世界の存在が別の世界へ落下する現象が発生します」
「それが私?」
「はい」
私は交通事故の日を思い出す。
大型車。
クラクション。
そして空間の歪み。
「私は死んで転生したわけじゃない?」
「死亡判定は確認できませんでした」
「……え」
今度こそ声が止まった。
「待ってください」
私はキーパーを見る。
「“死亡判定は確認できない”ってことは」
「あなたが元の世界で死亡したかどうかを、零号室は確認できていません」
「じゃあ……生きてた可能性が?」
「あります」
胸の奥が大きく脈打った。
これまで私は、自分は死んだと思っていた。
もう戻れない。
そう受け入れ始めていた。
でも。
もし。
「元の世界に戻れる?」
思わず口から出た。
キーパーは数秒黙った。
「可能性はあります」
頭が真っ白になる。
ブラッドリーもこちらを見る。
ゼノの表情も変わった。
「方法は?」
「現時点では不明です」
「……そこまで都合よくないか」
期待した分、少しだけ力が抜ける。
それでも。
ゼロではない。
「ノアさんは?」
私はすぐに聞いた。
「ノア・ウィンスレット」
キーパーの顔から笑みが消えた。
「登録されています」
ゼノが前へ出る。
「どこにいる」
「現在位置は不明です」
「死んだのか」
「死亡記録はありません」
ゼノの目が大きく開いた。
「何?」
「ノア・ウィンスレットは零号室の記録上、“チェックアウト済み”です」
私は息を呑む。
「チェックアウト……?」
「はい」
「行き先は?」
「不明」
「元の世界へ帰った可能性は?」
「否定できません」
ゼノは何も言わなくなった。
何百年。
いや、もっと長い時間。
ノアは死んだ。
そう思って生きてきた。
でも。
死んだ記録はない。
「……生きてる可能性がある」
私が呟く。
ゼノは答えない。
ただ、握り締めた拳が小さく震えていた。
◇
「キーパーさん」
少し時間を置いて、私は質問を変えた。
「零号室って何なんです?」
「人間を含む、世界間移動者のための受付です」
「受付?」
「はい」
またホテル用語だ。
「世界へ迷い込んだ存在を、宿泊客として記録し、安全な滞在先へ誘導する。それが零号室の基本機能です」
「安全な滞在先って」
「Hotel Aequitas」
私は周囲を見る。
「つまり……ここに来た異世界人を、このホテルが受け入れる?」
「厳密には、Hotel Aequitasが現在の形になる以前から存在した仕組みです」
「じゃあノアさんが作ったわけじゃない?」
「違います」
衝撃だった。
「でもHotel Aequitasの始まりはノアさんなんですよね?」
「現在の“ホテル”としての理念は、ノア・ウィンスレットとその仲間たちによって形成されました。ただし零号室は、それ以前から存在します」
「どれくらい前?」
「記録不能」
「またそれ」
「申し訳ございません」
丁寧に謝られる。
何となく腹立つ。
「じゃあノアさんは、零号室を知ってた?」
「途中から」
「途中?」
「彼がこの世界へ迷い込んだ時、零号室は休眠状態でした」
「何で?」
「機能不全」
「それで?」
「ノア・ウィンスレットがHotel Aequitasの前身となる宿を作ったことで、一部機能が再起動しました」
私は眉をひそめる。
「宿を作ったから?」
「正確には」
キーパーは古い天秤の紋章を見る。
「“迷い込んだ者を受け入れる場所”が成立したからです」
胸の奥が妙に熱くなる。
ノアは。
世界の仕組みを知らなかった。
零号室のことも知らなかった。
ただ。
雨の夜。
敵同士を泊めた。
次に来る誰かのために屋根を直した。
それだけ。
でも。
零号室は。
それを。
“宿”と認めた?
「すごいな……」
私は小さく笑う。
「ノアさん、知らないうちに世界規模のホテル作ってたんですね」
「本人が聞いたら怒るだろう」
ゼノが久しぶりに口を開いた。
「“大袈裟に言うな”とな」
「言いそう」
二人で少し笑った。
今までより。
少しだけ。
ゼノの顔が軽くなっていた。
ノアが。
完全に死んだとは限らない。
それだけで。
彼にとっては。
大きいのだろう。
◇
だが。
まだ一番大きな問題が残っている。
「キーパーさん」
「はい」
「あなた、どうして今まで出てこなかったんです?」
「零号室が完全に再起動していなかったためです」
「今回、何で起動した?」
「条件が満たされたため」
「条件?」
「新規宿泊者」
キーパーは私を見る。
「アラタ・ナナサキ様」
「私?」
「はい」
「ノアさんの時は?」
「不完全でした」
「今回は完全?」
「現時点では」
嫌な言い方だ。
「何が違うんです?」
「あなたは、正式なHotel Aequitas従業員として登録されました」
私は固まった。
「……は?」
ブラッドリーも眉をひそめる。
「従業員登録が関係している?」
「はい」
キーパーは淡々と続ける。
「零号室は長期間、管理者不在の状態でした」
「管理者?」
「キーパー権限保持者」
ゼノが低く言う。
「お前のことではないのか」
「私は案内機能です。管理者ではありません」
「じゃあ管理者は誰?」
キーパーは。
私を見る。
ものすごく。
嫌な予感。
「……いや」
私は一歩下がる。
「待って」
「アラタ・ナナサキ様」
「待ってください」
「現在」
「聞きたくない」
「零号室の」
「聞きたくない!」
「仮管理者として」
「やめて!」
キーパーは微笑んだ。
「登録されています」
「なんでだよ!」
旧館に私の声が響いた。
「新人ですよ!? 私、まだ研修中ですよね!?」
ブラッドリーへ振り返る。
「ブラッドリーさん!」
「はい」
「何とかなりません!?」
「私にも初耳です」
「総支配人でしょ!?」
「零号室については管轄外のようです」
「そんな!」
世界規模のホテル機能。
その管理者。
新人ホテルマン。
人選がおかしい。
「拒否します!」
「拒否可能です」
「できるんですか!?」
「はい」
「じゃあ拒否します!」
「ただし」
「絶対あると思った!」
「次の管理者候補が現れるまで、零号室は再度休眠します」
「それでいいです!」
「その場合」
キーパーは。
淡々と。
「現在開き始めている門への対応機能も停止します」
「…………」
私は。
固まった。
「今」
ゆっくり。
「何て?」
「門が開き始めています」
ゼノの表情が変わる。
「どこだ」
キーパーは空中に地図を表示する。
フレーレオ。
北方。
赤い光。
「旧聖法院研究施設跡」
ゼノが吐き捨てる。
「やはり……」
「いつ開く?」
ブラッドリーが聞く。
「推定不能。ただし活性化は継続中」
「原因は?」
「外部干渉」
「聖法院?」
「判定不能」
しかし。
タイミング。
聖騎士団。
人間。
情報漏洩。
全てが、嫌なくらい重なっている。
「零号室なら閉じられる?」
私が聞く。
「管理者権限があれば、門の安定化および閉鎖処理を補助できます」
「補助?」
「最終処理には現地対応が必要です」
「……結局行くんですね」
「はい」
私は頭を抱えた。
「異世界ホテルの研修内容じゃない……」
「私もそう思います」
ブラッドリーが静かに答えた。
「でも」
私は彼を見る。
Hotel Aequitas。
ロビー。
スタッフ。
宿泊客。
ガンゼフの料理。
アシュリー。
ナナリー。
サンディー。
従業員宿舎。
少しずつ。
自分の居場所になってきた。
門が開けば。
どうなる?
昔。
黒い霧。
人間の消失。
ノア。
このホテルも。
危険に晒された。
「……管理者になったら」
「はい」
「私、辞められます?」
「いつでも」
「本当です?」
「はい」
「絶対?」
「契約上は」
「嫌な言い方!」
息を吐いた。
「分かりました」
「ナナサキ」
ブラッドリーが止める。
「無理に引き受ける必要はありません」
「分かってます」
「危険性も不明です」
「はい」
「それでも?」
私は、少しだけ笑った。
「Hotel Aequitasで」
自分の制服を見る。
「今」
ようやく。
自然に言えた。
「ホテルマンしてますから」
ブラッドリーの表情が。
少しだけ。
柔らかくなった。
「……そうですか」
「仮管理者」
私はキーパーを見る。
「やります」
「承知いたしました」
キーパーが一礼。
「では、正式に登録します」
「何か契約書とか?」
「ありません」
「説明書は?」
「ありません」
「研修?」
「ありません」
「ブラック企業!」
思わず叫ぶ。
ゼノが小さく笑った。
「お前には向いている」
「何がです!?」
「面倒事に巻き込まれるのが」
「嬉しくない!」
その時。
零号室の天井から低い鐘の音。
ゴォン――。
一度。
キーパーの表情が変わる。
「何です?」
「到着予告」
「到着?」
「はい」
空中の地図。
赤い光。
さらに。
新しい表示。
ARRIVAL DETECTED
私は、画面を見る。
「誰か来る?」
「“誰か”とは限りません」
「怖い言い方しないでください」
「門を越える存在を検知しました」
ゼノが。
立ち上がる。
「人間か」
「判定中」
数秒。
SPECIES:UNKNOWN
嫌な沈黙。
「到着先」
空中地図。
光点。
「Hotel Aequitas」
「……は?」
「正確には」
キーパーは、零号室の扉を見る。
「この部屋です」
全員が扉を見る。
何もない。
だが、空気が冷たく変わる。
歪む扉の向こう。
廊下に黒い霧。
「ゼノさん……」
小さく呼ぶ。
彼の顔。
完全に変わっている。
「あれだ」
「何が」
「昔」
低い声。
「門から出てきた」
黒い霧が扉の隙間からゆっくりと侵入してくる。
バルガスが武器を構える。
「ナナサキ、後ろへ」
「でも」
「今は従ってください」
「はい!」
下がる。
キーパーの微笑みが消える。
「管理者」
「私!?」
「最初の業務です」
「いきなり!?」
「到着者対応」
「こんなのチェックイン対応じゃない!」
黒い霧が部屋中に広がる。
そして霧の中から日本語で声がする。
「――やっと」
息を止めた。
ゼノも。
目を見開く。
「見つけた」
声。
確かに日本語である。
しかし人間ではない。
キーパーが静かに告げる。
「管理者」
「何」
「新規到着者です」
「……」
「受け入れ可否を」
黒い霧を見る。
その向こうから、何かがこちらを見ている。
「今決めるんですか!?」
「ホテルですので」
「そこまで似なくていい!」
零号室。
Hotel Aequitas。
そして、異世界から異世界へ。
新たな“客”が。
今、到着しようとしていた。
――第18話 完




