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ようこそ、異世界ホテル"Aequitas"へ  作者: 嘯江 新(ウソブエ シン)


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17/23

第17話「零号室の宿泊客」

 『Hotel Aequitasへようこそ。長らく、あなたを待っていました。』


 スマートフォンの画面に表示されたその文章を、私は何度読み返しただろう。


 何度見ても文字は変わらない。日本語。しかも、私の名前まで正確に表示されている。


 ここは異世界だ。


 それも、現実世界の文明とはまるで違う場所。魔法があり、獣人がいて、翼を持つ種族が空を飛び、ホテルの客室には水棲種専用の設備まである。


 そんな世界の、何百年――下手をすれば何千年も封鎖されていたHotel Aequitas旧館。その存在すら総支配人が把握していなかった零号室に、どうして現代的なスマートフォンが置かれている。


 そして何より。


 なぜ、この端末は私を知っている。


「……ナナサキ?」


 ブラッドリーの声で、ようやく私は我に返った。


「すみません」


「何と書かれているのですか?」


 答えようとして、私はスマートフォンを持つ手を見た。わずかに震えている。


「私の名前です。“ようこそ、アラタ・ナナサキ。Hotel Aequitasへようこそ。ずっと、あなたを待っていました”……そう書かれています」


 ブラッドリーの表情から、いつもの穏やかな笑みが消えた。


 警備責任者のバルガスも険しい顔で端末を見つめている。しかし、最も大きな反応を示したのはゼノだった。


「貸せ」


「分かるんですか?」


「いいから見せろ」


 私はスマートフォンを手渡した。


 ゼノは何度も角度を変えながら画面を確認する。当然だが、彼には日本語が読めない。それでも何かを探しているようだった。


「ノアさんが持っていた物では?」


「違う」


 即答だった。


「ノアが持っていた物は、もっと原始的だった」


「原始的……?」


「あいつの世界にも似た道具はあった。離れた相手と声を交わすためのものだと言っていたが、こんな形ではない」


 私は眉をひそめた。


 ノアは英語を書いた。そして通信機器らしきものを知っていた。


 だが、その文明水準は私の時代とは違う。


 つまり――。


「ノアさんと私は、同じ時代の人間じゃない?」


「少なくとも、そう考える方が自然だろう」


「待ってください」


 私は額へ手を当てた。


「じゃあ、過去にこの世界へ来た人間って……全員が同じ時代から来たわけじゃない?」


「その可能性はある」


「そんな話、聞いてないですよ!」


「お前も聞かなかった」


「そうだけど!」


 思わず声が大きくなる。


 ブラッドリーが「ナナサキ」と静かに私を呼び、私は咳払いして声量を落とした。


「すみません。でも、これかなり重要ですよね?」


「ええ」


 ブラッドリーが零号室の中を見回す。


「過去にこちらへ来た人間が異なる時代から来ていたのであれば、“門”は単に二つの世界を繋ぐものではなかった可能性があります」


「時間まで越えてるってことですか?」


「現時点では推測です」


「でも、このスマートフォンはかなり新しいです」


 私はゼノから端末を受け取った。


 少なくとも、私が元の世界で使っていたものと大きな差はない。画面操作も一般的なスマートフォンそのものだ。


 そこでふと思う。


「そうだ。これ、操作できるかも」


「危険では?」


 バルガスが一歩前へ出る。


「私の世界では普通の道具です。……普通なら、ですが」


 最後の部分は自分でも自信がない。


 何百年も封鎖された異世界の客室で、電源が入って私の名前を表示するスマートフォンを“普通”と呼ぶには無理がある。


 それでも、調べないという選択肢はなかった。


 私は画面へ触れる。


 表示が消え、見慣れたホーム画面が現れた。


「……本当にスマホだ」


「その四角い板に何ができる?」


 ゼノが隣から覗き込む。


「色々です。連絡したり、写真を撮ったり、調べ物したり」


「魔導端末の小型版か」


「まあ、近いかもしれません」


「それほど薄いのに?」


「そっちの世界観から驚かれると変な感じだな……」


 魔法がある世界にスマートフォンの性能で驚かれる。


 何とも言えない気分だ。


 私はアプリの一覧を見る。


 ほとんど何も入っていない。


 電話。


 カメラ。


 設定。


 そして。


 一つだけ、見覚えのないアプリ。


 黒地に白い天秤。


 Hotel Aequitasの紋章だった。


「……絶対これですよね」


「何がです?」


「ものすごく“押してください”って顔をしてるアプリがあります」


「アプリ?」


「説明すると長いので後で」


 私は天秤のアイコンに指を近づける。


「ちょっと待て」


 ゼノが止めた。


「何です?」


「罠の可能性は」


「あります」


「ならなぜ押す」


「でも押さないと何も分からないじゃないですか」


「人間は本当に学ばんな」


「好奇心って言ってください」


「無謀と言う」


 ブラッドリーが小さく咳払いした。


「お二人とも。押すのであれば、念のため私たちは少し離れましょう」


「総支配人まで押す前提なんですね」


「ここまで来て確認しないという選択は、あまり現実的ではありませんので」


 冷静な顔をしているが、ブラッドリーもかなり気になっているらしい。


 バルガスだけは最後まで不安そうだったが、結局全員が数歩下がった。


「では……押します」


 私は天秤のアイコンへ触れた。


 画面が暗転する。


 数秒。


 Hotel Aequitasの紋章が浮かび上がった。


 その下へ、日本語の文字が表示されていく。


 認証中――。


「認証?」


 私は思わず呟く。


 次の瞬間、端末が小さく震えた。


 宿泊者照合。


 そして。


 ARATA NANASAKI


 私の名前。


 さらに下へ。


 ROOM 0


「……零号室?」


 妙な胸騒ぎがした。


 画面が切り替わる。


 今度は、ホテルの宿泊登録画面のような表示だった。


 名前。


 アラタ・ナナサキ。


 種族。


 Human。


 出身地。


 Japan。


 そこまではまだ分かる。


 問題は、その次だった。


 Arrival Date


 到着日。


 数字が表示されている。


 私はそれを見て、息を止めた。


「ナナサキ?」


 ブラッドリーに呼ばれても、すぐには返事ができない。


「……この日付」


「何か?」


「私がこの世界へ来た日じゃありません」


 ゼノの目が細くなる。


「では何だ」


「未来です」


 画面を何度確認しても、変わらない。


「私がこの世界へ来た日の、約一年後になってます」


 部屋の空気が一気に重くなった。


     ◇


「意味が分かりません」


 私は何度目か分からない言葉を口にした。


 零号室にあったスマートフォンには、私の名前が登録されている。それだけでも十分異常なのに、到着日として記録されているのは未来の日付だった。


「表示が誤っている可能性は?」


 ブラッドリーが尋ねる。


「あります。でも、この端末は私の名前も出身国も知っている。そんな都合よく日付だけ間違うでしょうか」


「なら」


 ゼノが腕を組む。


「この“到着”は、お前がフレーレオへ来た日を指していない」


「別の到着?」


「ああ」


 嫌な予感しかしない。


 私は画面を下へスクロールした。


 予約情報らしき項目が続いている。


 Room 0。


 宿泊者一名。


 チェックイン――未完了。


 チェックアウト――未設定。


 そして備考欄。


 英語だった。


 Second Arrival.


「……Second Arrival」


「読めるのか?」


「“二度目の到着”です」


 自分で訳しながら、ますます意味が分からなくなる。


「私、一回しか来てないですけど」


「今はな」


 ゼノが淡々と言う。


「怖いこと言わないでください」


「書かれているものを説明しただけだ」


 確かにその通りだが、もう少し気遣いというものが欲しい。


 スマートフォンをさらに確認すると、画面下部に一つのボタンがあった。


 VIEW RESERVATION HISTORY


 予約履歴。


「予約履歴がある……」


 Hotel Aequitasのフロントで何度も扱ってきた言葉だからこそ、その不気味さが際立つ。


 ホテルの予約記録とは、当然ながら誰かが予約を入れなければ存在しない。


 なら誰が。


 私は恐る恐る履歴を開いた。


 一覧が表示される。


 一件ではない。


 十件。


 二十件。


 さらにスクロールできる。


「……何だ、これ」


 そこには大量の名前が記録されていた。


 英語圏らしい名。


 日本名。


 見慣れない表記の名。


 そして全員の種族欄。


 Human.


 背筋が冷える。


「人間の……予約者名簿?」


 ブラッドリーが近づく。


「どの程度ありますか」


「分かりません。少なくとも数十人……いや、もっと」


 日付もばらばらだった。


 古いものは、私の知る西暦で十九世紀に相当する数字。


 さらに古いもの。


 逆に。


「……未来もある」


 私が生きていた時代より何十年も先。


 何百年も先の日付さえある。


「過去だけじゃない」


 私は呆然と画面を見つめた。


「この世界へ来る人間は、いろんな時代から来ていた。そして……これから来る人間まで記録されてる」


「誰が記録した?」


 バルガスの問いに答えられる者はいなかった。


 ブラッドリーが静かに手を差し出した。


「一度、整理しましょう」


 私はスマートフォンを彼に渡そうとして、途中で止めた。


「待って」


 一番下。


 最後の予約。


 そこに見覚えのある名前があった。


 NOAH WINSLET


「ノアさん」


 ゼノが即座に画面を見る。


「本当か」


「はい」


 ノアの予約情報。


 到着日は、ゼノが語った時代とは正確に比較できないが、明らかに他の古い記録と並んでいる。


 部屋番号。


 0。


 ステータス。


 Checked Out.


「……チェックアウト済み」


「何だ」


「宿泊を終えて、ホテルを出た扱いになってます」


 ゼノの表情が固まる。


「ノアは、この部屋を使ったことはない」


「本当に?」


「ああ。そもそもこんな部屋は知らない」


 ますます分からない。


 さらに、ノアのチェックアウト記録の横には小さな記号があった。


 私はそこへ触れる。


 詳細。


 最後の一文。


 DEPARTURE COMPLETED — DESTINATION UNKNOWN.


 私はゆっくり訳した。


「“出発完了。行き先、不明”」


 ノアは門を閉じた時、消えた。


 死体はなかった。


 Hotel Aequitasの謎の記録上では。


 死亡でも。


 消失でもない。


 チェックアウト。


 出発。


「ゼノさん」


 私が振り返る。


「ノアさん、本当に死んだんですか?」


 ゼノはすぐには答えなかった。


 長い年月、その事実を受け入れて生きてきた者にとって、簡単に答えられる質問ではない。


「……分からん」


 やがて彼はそう言った。


「門が閉じた時、ノアはいなくなった。それを私は死んだのだと思っていた」


「でも、この記録が正しいなら」


「どこかへ出た」


 胸が大きく脈打つ。


「もしかして、元の世界に帰った?」


「なら、なぜ手紙に“今度こそ帰れるといい”などと残す」


「じゃあ別の世界?」


「分からん」


 答えが一つ増えるたび、疑問が三つくらい増えていく。


 零号室。


 人間専用らしい予約記録。


 未来を含む到着予定。


 そしてノアの“チェックアウト”。


 まるでこの部屋そのものが。


「……ホテルの客室じゃない」


 無意識に私は呟いていた。


「何です?」


 ブラッドリーが聞く。


「いや、客室なんですけど……普通の客室じゃない」


 私は周囲を見る。


 ベッド。


 机。


 椅子。


 棚。


 確かに客室の形をしている。


 けれど。


「この部屋、人間がこの世界へ来た記録を管理してるんじゃないですか?」


 誰も答えない。


「到着日。チェックイン。チェックアウト。行き先。それって全部、ホテルの言葉ですよね。でも実際に管理してるのは宿泊じゃない」


 頭の中で少しずつ形になる。


「世界への到着と、世界からの出発……?」


 ブラッドリーの目が鋭くなった。


「つまりHotel Aequitasの“客”という概念が」


「この世界に来た人間そのものにも適用されてる?」


 自分で言って、ぞっとした。


 私が森で目覚め。


 フレーレオへ辿り着き。


 Hotel Aequitasを見つけた。


 偶然だと思っていた。


 でも。


 もし。


 最初から私は“宿泊客”としてこのホテルに登録されていたのだとしたら?


「そんな馬鹿な……」


 私は頭を抱えた。


 ホテルから逃げようとして死んだ人間が、異世界へ飛ばされたと思ったら、世界そのものにチェックインさせられていた。


 冗談にしても出来が悪い。


     ◇


 零号室の調査はさらに続いた。


 棚には古い書籍が並んでいたが、その多くはこの世界の文字だった。ブラッドリーによれば、Hotel Aequitasの過去の宿泊台帳に近いものらしい。ただしページをめくると、ところどころに英語、日本語、さらに私には読めない文字が混ざっている。


 おそらく過去に来た人間たちが残したものだ。


 机の引き出しからは小さな鍵が見つかった。ベッドの下には古びた旅行鞄。そして壁には、Hotel Aequitasの歴代紋章が描かれていた。


 その中で、私は奇妙なものを見つけた。


「ブラッドリーさん」


「はい?」


「これ」


 壁の最下部。


 現在使われている天秤の紋章よりさらに古いもの。


 天秤の下に、小さな文字が刻まれている。


 英語。


 NO GUEST STAYS FOREVER.


「“永遠に滞在する客はいない”」


「どういう意味でしょう」


「ホテルなら普通のことですけどね」


 どんな宿泊客にも、いつかチェックアウトの日が来る。


 一泊。


 一週間。


 一か月。


 長期滞在だとしても。


 ホテルは家とは違う。


 いつか客は出発する。


 けれど、この零号室で見ると意味が違って思える。


 世界へチェックインした人間。


 そして。


 いつかチェックアウトする。


 では。


 どこへ?


 その時、背後で小さな音がした。


 カチッ。


 全員が振り返る。


 スマートフォン。


 誰も触っていない。


 机の上に置いてあった端末が、自動的に点灯していた。


「また……?」


 私は近づく。


 通知が一件。


 天秤のアプリ。


 表示された文章を読んだ瞬間、身体が固まった。


「何です?」


 ブラッドリー。


「……予約変更」


「予約?」


 私は画面を見せる。


 もちろん、彼には文字は読めない。


 私自身も理解したくなかった。


 RESERVATION UPDATED.


 予約情報が更新されました。


 宿泊者。


 ARATA NANASAKI


 部屋。


 ROOM 0


 到着予定日。


 先ほどまで約一年後だった日付が――。


「今日になってる」


 ゼノが眉をひそめる。


「何?」


「私の二度目の到着日が」


 画面。


 今日の日付。


 さらに。


 チェックイン予定時刻。


 そこには。


 あと数分後の時間が表示されていた。


「……これ」


 喉が乾く。


「何か来ます」


「何を根拠に」


「ホテルの予約と同じですよ」


 私は画面を指差した。


「到着予定時間が設定されてる」


 バルガスが即座に扉へ向かい、外を確認する。ブラッドリーも周囲へ視線を巡らせた。ゼノは魔力を探るように片手を上げる。


 しかし。


 何もない。


 零号室は静かなままだった。


 時間だけが進む。


 予定時刻まで。


 三十秒。


 二十秒。


 私はスマートフォンを握ったまま、意味もなく時計を見つめていた。


 十。


 九。


 八。


「アラタ」


 ゼノが私の前へ出る。


「後ろへ下がれ」


「でも」


「いいから」


 私は数歩下がる。


 三。


 二。


 一。


 予定時刻。


 その瞬間だった。


 零号室の扉が。


 閉まった。


「――っ!」


 バルガスがすぐに取っ手を掴む。


「開きません!」


「全員こちらへ!」


 ブラッドリーが声を上げる。


 部屋の照明が一斉に消えた。


 真っ暗。


 次の瞬間。


 私は。


 聞いた。


 車のクラクション。


「……え?」


 ありえない。


 この世界にはない音。


 聞き覚えのある。


 あの日の音。


 けたたましいクラクション。


 誰かの悲鳴。


 タイヤが路面を擦る音。


「ナナサキ!」


 ブラッドリーの声が遠くなる。


 目の前に。


 光。


 強い。


 眩しい。


 ヘッドライト。


 大型車。


 交差点。


「待って……」


 あの日。


 私が死んだ。


 あの瞬間。


 世界が。


 零号室の中に。


 再現されている。


 そして。


 道路の向こう。


 信号の下。


 一人の男が立っていた。


 黒いスーツ。


 人間。


 間違いない。


 この世界で。


 初めて見る。


 私以外の。


 人間。


「……誰」


 男が。


 こちらを向いた。


 顔は。


 見えない。


 でも。


 声は。


 はっきり聞こえた。


「やっとチェックインできましたね」


 私は息を止めた。


 男は。


 ゆっくり。


 Hotel Aequitasの従業員がするような。


 美しい一礼をした。


「お待ちしておりました」


 そして。


 私の名前を呼ぶ。


「アラタ・ナナサキ様」


 光が。


 消えた。


 零号室へ。


 明かりが戻る。


 ブラッドリー。


 バルガス。


 ゼノ。


 全員。


 いる。


 だが。


 もう一人。


 増えていた。


 部屋の中央。


 先ほど見えた。


 黒いスーツ姿の男。


 人間。


 その男は。


 ゆっくり顔を上げた。


「初めまして」


 穏やかな笑顔。


 ホテルマンのような口調。


「零号室専属コンシェルジュを務めております」


 一礼。


「――私を、“キーパー”とお呼びください」


 私は。


 何も言えなかった。


 この異世界へ来てから。


 初めて。


 自分以外の人間が。


 目の前に立っていた。


――第17話 完

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