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ようこそ、異世界ホテル"Aequitas"へ  作者: 嘯江 新(ウソブエ シン)


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16/22

第16話「来訪者」

 ――Ask Zeno what came through instead.


 ゼノに聞け。あの門から、代わりに何が出てきたのか。


 何度読み返しても、書かれている文章は変わらなかった。


 Hotel Aequitasのフロントバック。私は差出人不明の手紙を手にしたまま、しばらく動くことができなかった。


 手紙そのものは何の変哲もない紙だ。封筒にも特別な装飾はなく、魔法陣らしきものも見当たらない。それなのに、そこに並んでいる文字だけが明らかに異質だった。


 英語。


 ノア・ウィンスレットが残した手紙と同じ、私が元いた世界で使われていた言語だ。


「アラタ、本当に読めるの?」


 隣にいたアシュリーが、不安そうに手紙を覗き込む。


「はい。間違いありません。“おかえり。あの門は、私たちを元の世界へ帰すためのものじゃなかった。代わりに何が出てきたのか、ゼノに聞け”……そう書いてあります」


「“私たち”って誰?」


「それが分からないんです」


 私が気になっているのも、そこだった。


 Welcome back.


 おかえり。


 そして、us――私たち。


 この手紙を書いた人物は、まるで自分も人間であるかのような書き方をしている。


 けれど、この世界に人間はいない。


 少なくとも、私はそう聞かされてきた。


「これ、総支配人に見せた方がいいわね」


「ですよね」


「あと、その子」


 アシュリーがフロントの方を見る。


 手紙を持ってきた白髪の少女は、まだロビーにいた。大きな帽子を両手で押さえながら、所在なさそうに周囲を見回している。


「誰から受け取ったのか、もう少し詳しく聞きましょう」


「分かりました」


 私たちは少女のところへ戻った。


 近くで見ると、十歳くらいだろうか。もちろん人間ではない。尖った耳の先端に薄い羽毛のようなものが生えていて、時折そこがぴくぴくと動いている。


 この世界へ来たばかりの私なら、たぶん五秒くらい凝視していただろう。


 今では、「珍しい種族だな」で済む。


 順応って怖い。


「お待たせして申し訳ありません」


 私は少女の目線に合わせて少し腰を落とした。


「この手紙を渡してくれた人について、もう少し教えてもらってもいいですか?」


「いいよ」


「どんな人でした?」


「黒い服」


 嫌な予感がした。


「……黒いローブ?」


「ううん」


 違った。


 少し安心する。


「男の人? 女の人?」


「分かんない」


「顔は?」


「見てない」


「声は?」


「聞いてない」


「……どうやって手紙渡されたの?」


「気づいたら持ってた」


「怖っ」


 思わず素が出た。


 アシュリーが私の脇腹を軽く小突く。


「アラタ」


「すみません」


 ホテルマン。


 ホテルマン。


 私は咳払いして、接客用の表情へ戻した。


「どこで手紙を持っていることに気づきました?」


「お外。噴水のところ」


 Hotel Aequitasの正面には大きな噴水広場がある。昨日、聖騎士団が陣取っていた場所からも近い。


「その時、周りに誰かいました?」


「いっぱい」


「ですよね……」


 フレーレオでも有数の大通りだ。昼間なら通行人などいくらでもいる。


 これ以上、少女から得られる情報はなさそうだった。


「ありがとうございます。助かりました」


「うん!」


「ところで、今日はご宿泊ですか?」


「お母さんと泊まってる!」


「お部屋は分かります?」


「八〇三!」


 即答。


 元気だ。


「では、お母様のところまでご案内しますね」


「一人で帰れるよ?」


「そう言わずに。ちょうど私もそちらへ用事がありますので」


 嘘である。


 でも、差出人不明の人物に利用された子どもを、そのまま一人で帰す気にはなれなかった。


 アシュリーも意図を理解したらしく、何も言わずに頷いた。


 私は少女を八〇三号室まで送り届け、母親へ事情を伏せたまま「ロビーで少し迷われていたので」と説明した。余計な不安を与えないためでもあるが、そもそも現段階では何が起きているのか私たちにも分からない。


 客へ案内する情報は、正確でなければならない。


 分からないことを推測で話さない。


 これは異世界でも、現実世界でも変わらない。


     ◇


「――この手紙を、誰から受け取った?」


 総支配人執務室。


 手紙を見たゼノの第一声は、それだった。


「八〇三号室に泊まっている女の子です。ただ、その子も誰から渡されたのか分かっていません」


「姿は?」


「黒い服を着ていたことしか」


 ゼノの表情が険しくなる。


 ブラッドリー、サンディー、ナナリーも同席していた。昨日の不正アクセスに続いて、今度は差出人不明の手紙。しかも私にしか読めない文字で書かれている。


 偶然で済ませられる段階ではない。


「ゼノ様」


 ブラッドリーが静かに尋ねる。


「この文章に心当たりが?」


「……ある」


 私はゼノを見る。


「じゃあ、本当に何か出てきたんですね」


「ああ」


 ゼノは否定しなかった。


「昨日話すつもりだった。ノアが死んだ日のことと一緒にな」


「それなら、今教えてください」


「ナナサキ」


 ナナリーが私を制する。


「すみません。でも……」


「構わん」


 ゼノが言った。


 彼は手紙を机へ戻すと、しばらくその英語を見つめた。


「お前たちは、門を人間の世界へ繋がるものだと思っているな」


「違うんですか?」


「ノアも最初はそう考えていた。だが、後に違うと気づいた」


「じゃあ、あれは何なんです?」


「穴だ」


 私は眉をひそめた。


「穴?」


「世界と世界を繋ぐために作られた扉ではない。世界そのものに生じた裂け目。ノアはそう考えていた」


 部屋が静かになる。


 ゼノは説明を続けた。


「本来、世界は互いに交わらない。それぞれが独立して存在している。だが、何らかの理由で境界が薄くなる場所が生じることがある。そこへ偶発的に裂け目が開けば、本来そこに存在しないものが別の世界へ落ちる」


「……人間みたいに?」


「そうだ」


 私は森で目覚めた日のことを思い出した。


 交通事故。


 途切れた意識。


 次に目を覚ました時には、知らない森の中。


 私は死んで転生したのだと思っていた。


「じゃあ、私……」


 思わず口にする。


「転生したんじゃない可能性がある?」


「ある」


「でも私は事故に遭って……」


「元の世界でお前の身体がどうなったのか、私には分からん。死んだ後にこちらへ来た可能性も、死ぬ直前に境界を越えた可能性もある」


 私は椅子の背へ身体を預けた。


 今まで当然のように「私は死んだ」と思っていた。


 だが。


 もし違ったら?


 もし私は、死んだのではなく――消えたのだとしたら。


「ナナサキ」


 ブラッドリーの声で我に返る。


「大丈夫ですか」


「……はい。ちょっと、頭が追いついてないだけです」


「無理に続ける必要は」


「聞きます」


 そこだけは即答した。


「ここまで来て止められた方が眠れなくなります」


「すでに寝不足でしょう」


「それは言わないでください」


 サンディーが小さく笑った。


 少しだけ空気が和らぐ。


「ゼノさん、続けてください」


「ああ」


 ゼノは頷いた。


「聖法院は、その裂け目を人為的に開こうとした」


「人間を送り返すために?」


「表向きはな」


「表向き?」


「研究者の一部は別の目的を持っていた。異なる世界の知識、物質、生命。裂け目を制御できれば、それらを手に入れられると考えた」


 嫌な話だ。


 人間を排除するための研究と、未知の世界へ手を伸ばす研究。


 いつの間にか目的が混ざっていた。


「ノアさんは反対した?」


「当然だ。あいつは一度、自分自身で門を開こうとして失敗している。その時に理解した。向こう側が自分の世界とは限らないとな」


「でも聖法院は続けた」


「ああ。そして、門を完成させた」


 ゼノの声が低くなった。


「大量の魔力を使い、世界の境界を無理やり引き裂いた。最初は何も起こらなかった。そこで彼らは人間を門へ通した。人間という異世界の存在を“鍵”にすれば、元の世界へ繋がると考えたからだ」


 私は手を握り締めた。


「その人たちは?」


「消えた。以前話した通りだ」


「それで……代わりに?」


「来た」


 ゼノは一度目を閉じ、記憶を振り払うように小さく息を吐いた。


「最初は、光だった。門の向こうに星空のようなものが見えたと記録されている。だが星ではなかった。無数の何かが、こちらを見ていた」


 背筋に寒気が走る。


「見ていた?」


「ああ。そして次の瞬間、門から黒い霧のようなものが溢れ出した。触れた者は身体ではなく、存在そのものが変質した。魔力が暴走し、人格が崩れ、やがて自分が何者だったのかさえ失った」


 サンディーの表情から、いつもの軽さが消えていた。


「それが……出てきたもの?」


「最初はな」


「最初は?」


 ゼノは私を見る。


「霧の後に、“それ”が来た」


「何が?」


「分からない」


「分からない?」


「姿を認識できなかった。見た者によって証言が違った。巨大な獣だったと言う者もいれば、無数の腕を持つ影だったと言う者もいた。死んだ家族の姿を見た者もいる。何も見えなかったと言った者もいた」


「そんなものが、この世界に……」


「完全には出てきていない。ノアが門を閉じた」


 私は息を呑んだ。


「ノアさんが?」


「ああ。私と一緒にな」


 そこまで言って、ゼノは黙った。


 昨日の話と繋がった。


 ゼノは当時、聖法院側にいた。


 Hotel Aequitasを攻撃し、ノアと戦った。


 なのに最後には、ノアと一緒に門を閉じている。


「何があったんです?」


「……聖法院がAequitasへ来た」


 ゼノは静かに話し始めた。


「門を安定させるには、さらに多くの人間が必要だった。残っていた人間の多くは、すでにこのホテルへ避難していた。聖法院は引き渡しを要求し、ノアは拒否した」


「今と同じ……」


 ナナリーが小さく呟いた。


 まさにそうだった。


 聖法院。


 Hotel Aequitas。


 人間。


 引き渡し要求。


 そして拒否。


 何百年、あるいは何千年という時間を経て、同じ構図が再び作られようとしている。


「当時の総支配人は?」


 私が尋ねる。


「ノアではない。あいつは正式な総支配人になったことは一度もない」


「えっ?」


 思わず声が出た。


「Hotel Aequitasを作った人なのに?」


「だから言っただろう。本人は自分をホテルマンだと思っていなかった」


「じゃあ誰が?」


「当時の総支配人は、ノアと共に宿を大きくした獣人だった。名はアルベルト・グランツ」


 新しい名前。


 Hotel Aequitas初期の総支配人。


「アルベルトも拒否した。人間を客として受け入れた以上、外部へ引き渡すことはできないとな」


「……本当に変わってないな、このホテル」


 サンディーが苦笑する。


「ええ」


 ブラッドリーも静かに頷いた。


「誇るべきことです」


 その声には、総支配人としての強い意志があった。


 ゼノは続ける。


「交渉は決裂した。聖法院は実力行使に出た。当時、私はその部隊の指揮官だった」


 私はゼノを見る。


「あなたが……」


「ああ。私がAequitasへの突入を命じた」


 彼は言い訳をしなかった。


「戦闘になった。聖法院は人間を確保しようとし、ホテル側はそれを阻止した。私はノアと戦った。あいつに戦闘能力などほとんどなかったが、逃げるのだけは妙に上手かった」


「なんか想像できます」


「口も止まらなかった」


「それも想像できます」


「戦っている最中に説教された」


「何て?」


 ゼノは露骨に嫌そうな顔をした。


「“お前、頭いいくせに馬鹿だな”」


 サンディーが吹き出した。


 ナナリーは口元を押さえ、ブラッドリーまでわずかに視線を逸らしている。


「……ノアさん、すごいですね」


「腹が立った」


「でしょうね」


「だから壁へ投げた」


「物理的に返したんですか!」


 ほんの一瞬、昔の二人が目の前に浮かんだような気がした。


 だが、ゼノの表情はすぐに曇る。


「その時だった。門が暴走した」


 室内の空気が再び引き締まった。


「聖法院の研究施設はAequitasから遠くない場所にあった。門から溢れた黒い霧が施設を飲み込み、周辺地域へ広がり始めた。人間を連行するどころではなくなった。聖法院側にも大量の犠牲者が出た」


「そこで戦闘が止まった?」


「いや」


「……止めなかったんですか?」


「上層部は人間を連れて門へ向かえと命じた。門を安定させるには、まだ人間が必要だとな」


 私は耳を疑った。


「暴走してるのに?」


「ああ」


「そんなの……」


「狂っている」


 ゼノ自身が言った。


「その時、ようやく私も理解した。私が守っていたものは、世界ではなかった」


 彼の声には、長い時間を経ても消えない後悔が滲んでいた。


「私は命令を拒否した。聖法院の兵を止め、ノアたちと共に門へ向かった。それが私が聖法院を裏切った日だ」


 昨日まで断片的だった話が、ようやく一本に繋がった。


 ゼノは最初からHotel Aequitasの味方だったわけではない。人間を警戒し、聖法院の研究に協力し、最後にはこのホテルへの突入部隊まで率いた。


 それでも、越えてはいけない一線を目の前にして、彼は自分が信じてきた組織へ背を向けた。


「門を閉じる方法は?」


「ノアが知っていた。正確には、門を開いた術式を逆転させる方法を見つけた」


「じゃあ、それを使って……」


「代償が必要だった」


 ゼノの言葉に、私は黙った。


 この先は聞かなくても、何となく分かってしまった。


「ノアさん?」


「ああ」


 ゼノは静かに頷いた。


「門を閉じるには、向こう側とこちら側を繋いでいる“鍵”を切り離す必要があった。そして当時、最も強く門と繋がっていた存在がノアだった」


「どうしてノアさんが?」


「最初に自力で門へ接触した人間だったからだ。あいつは一度、帰るために境界へ触れている。その痕跡が残っていた」


 つまり。


 帰ろうとしたことそのものが、最後には彼を門へ縛りつけた。


「ノアは最初から分かっていたんですか?」


「門へ向かう途中で気づいたらしい。だが私には言わなかった」


「何で……」


「言えば止めると思ったのだろう」


「止めたんですか?」


「当たり前だ!」


 突然の怒声に、私は身体を強張らせた。


 ゼノ自身も声を荒らげたことに気づいたのだろう。目を閉じ、ゆっくり息を整える。ブラッドリーたちは何も言わなかった。


「……止めた」


 今度の声は小さかった。


「門の前で、初めて聞かされた。あいつが鍵になれば門を閉じられると。私は別の方法を探すと言った。だが時間がなかった。霧は広がり続けていた」


「ノアさんは、何て?」


 ゼノは答えるまでに少し時間を置いた。


「“ホテルを頼む”」


 私は息を呑んだ。


「それだけ?」


「それだけだった」


「元の世界に帰りたかったんですよね」


「ああ」


「ずっと探してたのに」


「ああ」


「それなのに……」


「最後まで帰りたがっていた」


 ゼノは机の上の手紙へ視線を落とした。


「勘違いするな。あいつは故郷を捨てたわけではない。家族に会いたいと言っていた。食べたいものがあるとも、もう一度見たい景色があるとも言っていた。帰りたくて、帰りたくて仕方がなかった。それでも最後に選んだのが、この世界だった」


 胸が苦しくなる。


 私はまだ、この世界へ来てそれほど長くない。


 帰れるなら帰りたいのか。


 そう聞かれたら、たぶん迷う。


 Hotel Aequitasで過ごす時間は嫌いではない。ブラッドリーも、サンディーも、ナナリーも、ガンゼフも、アシュリーもいる。仕事だって、もう一度好きになれるかもしれないと思い始めている。


 それでも、元の世界には私が生きてきた時間がある。


 簡単に捨てられるものではない。


 ノアも同じだったのだ。


「……それで、ノアさんは?」


 私は尋ねた。


「門を閉じた。私が術式を起動し、ノアが鍵を切断した。門は崩壊し、向こうから来たものも境界の向こうへ押し戻された。黒い霧も消えた」


「でも、ノアさんも……」


「ああ。消えた」


 死体は残らなかったという。


 光に包まれたわけでも、劇的な別れの言葉を残したわけでもない。門が閉じる瞬間、そこにいたはずのノア・ウィンスレットという人間は、まるで最初から存在しなかったかのように姿を消した。


 ゼノはその場に残された。


 聖法院を裏切った者として。


 友人を――本人は今でも腐れ縁と言い張るのだろうが――失った者として。


 そして、ノアからHotel Aequitasを託された者として。


「手紙は?」


 私はふと思い出した。


「昨日読んだ、ノアさんの手紙。“次にこの宿を守る者へ”って……」


「門へ向かう前に書いたものだ」


「じゃあ、最初から」


「死ぬ可能性を考えていた」


 あの文章が急に違って見えた。


 冗談交じりの書き出しも。


 ホテルを守るな、ここへ人が入れる理由を守れという言葉も。


 そして最後の――今度こそ、帰れるといいな――という一文も。


 全部。


 帰れなかった人間が、未来に現れるかもしれない次の人間へ残したものだった。


「ゼノさん」


「何だ」


「ノアさんとの約束、守ったんですね」


 ゼノは眉をひそめる。


「何の話だ」


「ホテルを頼むって」


「私はホテルマンではない」


「でもHotel Aequitasが今まで残ってる」


「私が残したわけではない」


「それでも、ずっと見てたんでしょう?」


 答えはない。


 でも、それで十分だった。


 何百年、何千年経ったのか分からない。


 それでもゼノはHotel Aequitasへ戻ってくる。


 月蜜を飲み。


 昔の話を知り。


 ホテルが変わっていないことを確認する。


 もしかすると、それが彼なりの約束の守り方だったのかもしれない。


 私は少しだけ笑った。


「やっぱり友達じゃないですか」


「違う」


「そこだけ頑固ですね」


「腐れ縁だ」


「はいはい」


 サンディーが堪えきれず笑い、ナナリーから睨まれていた。


 ほんの少しだけ、部屋の空気が軽くなった。


 しかし、ブラッドリーは机の上に置かれたもう一通の手紙を見つめたままだった。


「一つ、よろしいでしょうか」


 その声で全員の意識が戻る。


「この手紙についてです」


 ブラッドリーが指したのは、今日私へ届いた方だった。


「ノア様が門を閉じた後、英語を理解できる者は残っていたのでしょうか」


 私はゼノを見る。


「……いたのでは?」


「いや」


 ゼノの返答は即座だった。


「人間以外で、ノアの文字を完全に読み書きできた者は私の知る限りいない。私もいくつかの単語を覚えただけだ」


「では」


 ナナリーの表情が険しくなる。


「この手紙を書いた者は?」


 誰も答えられなかった。


 当然だ。


 英語を知る人間は消えた。


 ノアもいない。


 私はこの世界へ来たばかりで、こんな手紙を書いていない。


 ならば、誰が書いた?


 私は改めて文章を見る。


 Welcome back.


 ――おかえり。


 まるで。


 私が来ることを知っていたような言葉。


「ゼノさん」


「何だ」


「門から出てきた“何か”は、本当に全部向こうへ戻ったんですか?」


 ゼノは答えなかった。


 その沈黙に、私は嫌な予感を覚えた。


「……ゼノさん?」


「分からない」


「え?」


「門を閉じた後、黒い霧は消えた。“あれ”の気配もなくなった。だから戻ったと思われていた」


「思われていた?」


「ああ」


 ゼノは手紙を見つめた。


「だが、もし一部でもこちら側に残っていたとしたら――」


 その時だった。


 執務室の扉が強く叩かれた。


「総支配人!」


「入ってください」


 扉が開き、警備責任者のバルガスが入ってくる。普段なら落ち着いているはずの彼が、明らかに険しい表情をしていた。


「昨日の宿泊者情報への不正アクセスについて、侵入元を特定しました」


 ブラッドリーが立ち上がる。


「どこです?」


「館内です」


「やはり内部から?」


「はい。ただし、スタッフ用端末ではありません」


 バルガスは一瞬言葉を詰まらせた。


「アクセスが行われた場所は、現在使用されていない客室です」


「客室番号は?」


「零号室」


 サンディーとナナリーの表情が同時に変わった。


 私はその反応を見逃さなかった。


「……零号室って何です?」


 誰もすぐには答えなかった。


「そんな部屋、客室一覧にありました?」


「ない」


 答えたのはサンディーだった。


「現在のHotel Aequitasには、零号室なんて存在しない」


「じゃあ、どうしてアクセス記録が?」


 バルガスが低い声で続ける。


「正確には、存在しないのではありません。封鎖されています」


 ブラッドリーが目を細める。


「場所は?」


「旧館です」


 旧館。


 初めて聞く言葉だった。


「Hotel Aequitasに旧館なんてあるんですか?」


「あります」


 ブラッドリーが答えた。


「現在の本館が建設される以前に使用されていた建物の一部が、地下区画と接続された状態で残されています。ただし老朽化と安全上の理由から、通常は完全に封鎖されています」


「そこに零号室が?」


「……私も知りませんでした」


 総支配人が知らない部屋。


 それだけで普通ではない。


 ゼノが突然立ち上がった。


「場所を見せろ」


「心当たりが?」


 ブラッドリーが尋ねる。


「零号室という名前にはない」


 ゼノの表情が、これまでにないほど険しくなっている。


「だが、旧館には心当たりがある」


「何があるんです?」


 私が聞くと、ゼノはしばらく黙っていた。


「Hotel Aequitasの始まりだ」


「……始まり?」


「ノアが最初に屋根を直した宿。それが現在の旧館の一部だ」


 私は息を呑んだ。


 Hotel Aequitasの原点。


 敵同士だった者たちが一晩だけ同じ屋根の下で眠り、ノアが翌朝、次に来る誰かのために壊れた屋根を直した場所。


 それが、まだ残っている。


「行きます」


 気づけば私はそう言っていた。


 ナナリーがすぐにこちらを見る。


「ナナサキ。あなたは待機です」


「でも私の情報を見た場所なんですよね?」


「だからです。危険性が確認できません」


「それでも――」


「ナナサキ」


 ブラッドリーの声だった。


 私は口を閉じる。


「あなたは当事者です。だからこそ、安全が確認されるまで待機していただきます」


 正論だ。


 ホテルでは、異常が発生した場所へ関係者全員で突撃するようなことはしない。危険区域を限定し、必要な人員だけで確認する。客やスタッフを守る立場なら当然の判断だ。


「……分かりました」


 私は渋々頷いた。


 ところが。


「いや」


 ゼノが言った。


「アラタも連れていく」


「ゼノ様」


「もし私の考えが正しければ、零号室を開けられるのは」


 ゼノは私を見る。


「人間だけだ」


     ◇


 旧館へ向かうことが決まったのは、それから十分後だった。


 同行するのはブラッドリー、ゼノ、警備責任者のバルガス、そして私。ナナリーとサンディーは本館へ残り、通常営業と緊急時の指揮を担当することになった。


 Hotel Aequitasは何があっても営業を止めないらしい。


「アラタ」


 旧館へ向かう前、アシュリーが私を呼び止めた。


「はい?」


「これ」


 渡されたのは、小さな袋だった。


「何です?」


「軽食」


「……今から旧館に行くんですけど」


「だからよ」


「いや、遠足じゃないですよ?」


「何時間かかるか分からないでしょう。空腹で倒れたら迷惑よ」


 正論だった。


「ありがとうございます」


「ちゃんと帰ってきなさいよ」


 その言葉だけ、少し声が違った。


 私は袋を受け取り、笑った。


「もちろんです。まだ勤務残ってますし」


「そこ?」


「ホテルマンなので」


 自分で言ってから、少し可笑しくなった。


 昔なら絶対に言わなかった言葉だ。


 アシュリーも笑う。


「行ってらっしゃい」


「行ってきます」


 従業員宿舎へ帰る時とは違う。


 今日はHotel Aequitasの中にある、誰も知らない場所へ向かう。


 地下へ続く従業員用階段を降り、さらに倉庫区画を抜ける。その先にあった巨大な鉄扉を、バルガスが認証印で解錠した。


 扉の向こうから、冷たい空気が流れてくる。


 照明のない通路。


 古い石壁。


 現在のHotel Aequitasとはまるで違う。


「ここから先が旧館です」


 ブラッドリーが魔導灯を掲げた。


 私たちはゆっくりと中へ入った。


 長い年月、誰にも使われていないはずの通路には埃が積もっていた。壁には現在とは違う古い天秤の紋章が残り、崩れた案内板や朽ちかけた家具がところどころに置かれている。それでも不思議なことに、完全な廃墟には見えなかった。ここがかつて客を迎え、食事を出し、誰かが眠り、朝になれば旅立っていった場所だったことが、空気のどこかに残っている。


「……ここがHotel Aequitasだったんですね」


「最初期の一部だ」


 ゼノは壁を見ながら歩いていた。


「もっと小さかった。部屋も十あるかどうかだった」


「あなたも泊まったことが?」


「ある」


「お客様だったんですね」


「ノアに無理やり泊められた」


「どういう状況ですか、それ」


「戦場へ戻ろうとしたら、“今日は客なんだから寝ろ”と言われた」


 思わず笑ってしまった。


「本当にノアさんらしい」


「お前は会ったことがないだろう」


「話聞いてたら、なんとなく分かってきました」


 ゼノは呆れたように息を吐いた。


 しばらく進むと、通路の先に一枚の扉が現れた。


 他の客室とは違う。


 黒い木製の扉。


 プレートには。


 数字が一つ。


 0


「……零号室」


 私たちは足を止めた。


 埃だらけの旧館で、その扉だけが異様に綺麗だった。


 まるで。


 今も誰かが使っているように。


 バルガスが前へ出る。


「私が確認します」


 認証印を扉へ近づける。


 反応なし。


 ブラッドリーも試す。


 同じ。


「開きません」


 ゼノが扉を見る。


「アラタ」


「……やっぱり私?」


「ああ」


「こういう時だけ人間代表になるの、嫌なんですけど」


 冗談を言ったものの、喉は乾いていた。


 私は扉の前へ立つ。


 取っ手へ手を伸ばす。


 触れた。


 その瞬間。


 カチリ。


 小さな音がした。


「……開いた」


 鍵が。


 勝手に。


 外れた。


 私はブラッドリーを見る。


「開けます?」


「待ってください」


 バルガスが前へ出ようとする。


 しかし。


 扉が。


 ひとりでに開き始めた。


 ゆっくり。


 音もなく。


 内部は暗い。


 ブラッドリーが魔導灯を向ける。


 部屋が照らされる。


 ベッド。


 机。


 椅子。


 古い棚。


 客室だ。


 ただし。


 机の上に。


 一つだけ。


 明らかに。


 この世界に存在するはずのない物が置かれていた。


「……嘘だろ」


 私は思わず日本語で呟いた。


 ゼノが私を見る。


「知っているのか」


「知ってるも何も……」


 私はゆっくり部屋へ入った。


 机の上。


 埃一つない。


 黒い。


 薄い。


 長方形。


 画面。


 側面には。


 見慣れたボタン。


「これ……」


 手が震える。


 間違えるはずがない。


「スマートフォンです」


「すまーと……?」


「私の世界の道具です」


 私は机へ近づいた。


 スマートフォン。


 しかも。


 古代の遺物なんかじゃない。


 私がいた時代と。


 ほとんど変わらない形。


「どうして」


 この世界に。


 こんなものが。


 私は画面へ触れた。


 当然。


 電池なんて。


 残っているはずがない。


 そう思った。


 だが。


 画面が点灯した。


「――っ!」


 思わず手を引く。


 黒い画面。


 白い文字。


 英語。


 そして。


 その下。


 日本語。


 私は息を止めた。


 表示されていた文章は。


 短かった。


 WELCOME, ARATA NANASAKI.


 ――ようこそ、アラタ・ナナサキ。


 私の名前。


 なぜ。


「アラタ?」


 ブラッドリーの声。


 私は答えられない。


 画面が切り替わる。


 次の文章。


 今度は。


 日本語だけ。


 そこには。


 こう表示されていた。


 『Hotel Aequitasへようこそ。』


 そして。


 もう一行。


 『ずっと、あなたを待っていました。』


 誰も。


 声を出さなかった。


 私はスマートフォンを見つめたまま、動けなかった。


 ノアの時代に存在するはずのない物。


 私の時代と変わらないスマートフォン。


 私の名前を知る何者か。


 そして。


 存在しないはずの零号室。


 ここまで来て。


 ようやく。


 一つだけ分かった。


 私がHotel Aequitasへ辿り着いたのは。


 偶然ではない。


 このホテルは。


 私が来ることを。


 知っていた。


――第16話 完

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