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ようこそ、異世界ホテル"Aequitas"へ  作者: 嘯江 新(ウソブエ シン)


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15/17

第15話「ホテルが守るもの」

 館内警報の鐘が鳴り響いていた。


 普段のHotel Aequitasで耳にする柔らかなチャイムとはまるで違う。低く、重く、腹の底に響くような音が一定の間隔で繰り返されている。廊下の照明も通常より落とされ、壁際に埋め込まれている魔導灯だけが淡い青色に変わっていた。


「宿泊者名簿に、不正な閲覧痕跡が見つかりました。あなたの登録情報を含みます」


 ナナリーからそう告げられた瞬間、私は言葉を失った。


 宿泊者名簿――現実世界のホテルでいうところの宿泊者情報に近いものだ。宿泊客の氏名や種族、滞在期間、部屋番号など、業務上必要な情報が記録されている。


 当然ながら、誰でも好き勝手に見られるものではない。


 ましてやHotel Aequitasには、敵対する種族や政治的に複雑な事情を抱えた客も訪れる。宿泊しているという事実そのものが命に関わる場合だってある以上、情報管理は客室の鍵と同じくらい重要だ。


「私の登録情報を見られたって……具体的に、どこまでです?」


「まだ分かりません。閲覧された項目を調査しています。ただし、少なくともあなたの名前と種族欄にはアクセスされています」


「種族欄……」


 そこには当然、こう書かれている。


 ――人間。


 私は思わずゼノを見る。


 彼はすでに窓辺から離れ、こちらへ歩いてきていた。先ほどまでノアの過去を語っていた時とは違う。金と赤、左右で色の異なる瞳には明らかな警戒が浮かんでいる。


「聖法院ですか?」


「断定はできん。だが、可能性は高い」


「だったら私がここにいることも……」


「あちらに伝わったと考えるべきだろう」


 背中を冷たいものが走った。


 昨日まで聖騎士団が狙っているのはゼノだと思っていた。しかし実際には、その背後にいる聖法院は人間という存在そのものを恐れている。そして今、Hotel Aequitasには何百年ぶりかも分からないほど久しぶりに人間が現れた。


 私だ。


「ナナサキ、総支配人がお呼びです。ゼノ様にも同席していただきます」


「分かりました」


 私は頷き、客室を出ようとして足を止めた。


「あの、ナナリーさん」


「何でしょう」


「この警報、宿泊客には?」


「詳細は伏せています。現在は館内設備に異常が確認されたため、安全確認を行っているとご案内しています」


「なるほど……」


 それなら余計な混乱は避けられる。


 ホテルでトラブルが発生した時、内部事情をそのまま客へ伝えることが最善とは限らない。もちろん安全に関わる情報を隠してはいけないが、確定していない情報まで伝えれば、かえって不安や混乱を広げることになる。


 まず事実確認。そして必要な情報を、必要な範囲で案内する。


 この辺りは、異世界でも同じらしい。


「では行きましょう。すでにサンディー支配人と警備責任者が待っています」


 ナナリーが歩き始める。


 その後ろについていきながら、私は小さく息を吐いた。


 今日はもう仕事が終わったはずだった。


 どうして私は異世界に来てから、勤務時間外の方が事件に遭遇しているのだろう。


     ◇


 総支配人執務室に入ると、空気は張り詰めていた。


 ブラッドリーが執務机の前に立ち、その横にはサンディー。そして初めて見る大柄な男性スタッフが腕を組んでいる。灰色の肌に二本の太い角を持ち、制服の上からでも分かるほど体格がいい。


「ナナサキ、ゼノ様。お待ちしておりました」


「状況は?」


 ゼノが尋ねる。


「現在調査中です。ただし、外部から直接記録庫へ侵入された形跡はありません」


「外部じゃない?」


 私は眉をひそめた。


 ブラッドリーが頷く。


「当ホテルの宿泊者情報は、地下の記録庫に保管されている原本と、フロント業務で使用する魔導記録端末によって管理されています。今回アクセスされたのは後者です」


「つまり、フロントの端末から見られた?」


「正確には、フロントを含む複数の業務端末から接続可能な管理領域です」


 なるほど。


 こちらの世界にパソコンはないが、仕組みとしてはホテルのPMSに近いのかもしれない。


 PMS――Property Management System。現実世界のホテルでは予約、客室、宿泊者情報、会計などを一元管理するために使われるシステムだ。当然、扱う情報が多い分、アクセス権限の管理も重要になる。


 Hotel Aequitasの魔導記録も、それに近い役割を持っているようだ。


「それなら、誰がアクセスしたか履歴は残ってないんですか?」


 私が聞くと、サンディーがこちらを見る。


「残るよ」


「じゃあ――」


「それが問題なんだ」


 サンディーは机の上に置かれた一枚の紙を指差した。


 そこには何人かの名前と時刻が記されている。その中で、赤い印が付けられた箇所が一つだけあった。


 私はその名前を見る。


「……ブラッドリー・シュチュワード?」


「私の権限が使用されています」


 ブラッドリー本人が淡々と答えた。


「えっ?」


「ですが、その時刻、私は総支配人室におりました。ナナリー副支配人と会議中でしたので、証明も可能です」


 ナナリーが頷く。


「間違いありません」


「じゃあ誰かが、ブラッドリーさんの権限を勝手に使った?」


「その可能性が最も高いでしょう」


 厄介だ。


 最高責任者の権限が盗まれている。


「それって私以外の宿泊客の情報も全部見られるんじゃ……」


「理論上は」


 ブラッドリーの声がわずかに低くなった。


「可能です」


 その瞬間、問題の大きさが変わった。


 これは私だけの話ではない。


 Hotel Aequitasに泊まっている全員の問題だ。


「だから警報を?」


「はい。現在、全ての管理端末を一時的に停止し、情報管理を手作業へ切り替えています」


「全部?」


「全部です」


 私は思わずサンディーを見る。


「……フロント、地獄になりません?」


「なるだろうな」


「予約確認は?」


「紙」


「客室状況は?」


「紙」


「会計は?」


「紙」


「ルームチェンジは?」


「紙」


「……地獄ですね」


「だから言っただろ」


 この世界へ来てから魔法に驚かされてばかりだったが、結局システムが止まれば紙へ戻るらしい。そこだけ妙に現実世界のホテルと同じなのが悲しい。


「ナナサキ」


 ブラッドリーに呼ばれ、私は姿勢を正した。


「はい」


「明日の勤務ですが、変更します」


「変更?」


「フロント補助へ入ってください」


「やっぱり!」


 事件の中心人物だから隔離されるのかと思ったら、普通に人手として数えられていた。


「私、情報を狙われてるんですよね?」


「はい」


「聖法院に目をつけられたかもしれないんですよね?」


「可能性はあります」


「それでもフロント?」


「人手が足りませんので」


「ホテルって怖い!」


 サンディーが笑いを堪えている。


 私は思わず睨んだ。


「笑い事じゃないですよ!」


「悪い悪い。でも安心しろ。勤務中は警備を増やす」


「そういう問題かなあ……」


「それと」


 ブラッドリーが続ける。


「あなたを隠すつもりはありません」


 私は表情を変えた。


「……どういう意味です?」


「あなたはHotel Aequitasの従業員です。人間であることを理由に、業務から外すことはいたしません」


「でも危険が」


「もちろん、安全確保は行います。しかし」


 ブラッドリーは私を真っ直ぐ見た。


「あなたが何者であるかを理由に、働く権利を奪うことは、当ホテルの理念に反します」


 何も言えなくなった。


 外で何者であっても、ここでは客。


 それは宿泊客だけの話だと思っていた。


 でも、違う。


 Hotel Aequitasの公平は。


 働く者にも向けられている。


「……ありがとうございます」


「ただし」


「はい?」


「寝不足で接客品質が落ちた場合は別です」


「そこは普通に怒られるんですね」


「当然です」


 私は思わず笑ってしまった。


 やっぱり、この人は総支配人だ。


     ◇


 会議では、その後も情報漏洩への対応が続いた。


 管理端末の停止。アクセス権限の再設定。宿泊者情報を扱えるスタッフの限定。そして各部署へ必要最低限の情報だけを共有する。


 ブラッドリーによれば、こうした対応はインシデント対応に近い考え方だという。問題が発生した際、まず被害の拡大を止め、原因を調査し、影響範囲を特定した上で復旧する。言葉そのものはこちらの世界にはないが、考え方は同じだった。


 問題は、侵入方法だった。


「総支配人の権限を複製するには、認証印へ直接触れる必要があります」


 警備責任者の男が低い声で説明した。


 彼の名はバルガスというらしい。


「認証印?」


 私が聞く。


「これです」


 ブラッドリーが胸元から小さな金属板を取り出した。表面にはHotel Aequitasの天秤の紋章と、複雑な魔法陣が刻まれている。


「これがないと管理情報を見られない?」


「通常は」


「でも複製された」


「はい」


 私は考える。


「ブラッドリーさん、最近これを誰かに渡しました?」


「いいえ」


「置き忘れたり」


「ありません」


「寝ている間とか?」


「総支配人室には専用の結界があります」


 つまり。


 簡単には盗めない。


「……内部の人間?」


 私が口にした瞬間、室内が静かになった。


 誰も否定しない。


 嫌な沈黙だった。


「その可能性も含めて調査します」


 ブラッドリーが静かに言う。


「ですが、現段階でスタッフを疑うことはいたしません」


「どうして?」


「証拠がないからです」


 迷いのない答えだった。


「疑いだけでスタッフを扱えば、ホテルそのものが崩れます。まず事実を確認する。それから判断する。それが私の役目です」


 私は小さく頷いた。


 総支配人。


 ホテルの最高責任者。


 客を守るだけじゃない。


 スタッフも守る。


 簡単そうに見えて。


 たぶん、一番難しい仕事だ。


「では本日の対応はここまでとします。バルガス、引き続き警備強化を。ナナリー、明日の勤務体制を再編してください。サンディーはフロント部門の運用確認をお願いします」


「了解」


「承知しました」


「分かりました」


 指示が次々と出る。


 私は。


「ナナサキ」


「はい」


「休んでください」


「……それだけ?」


「明日は早番です」


「はい」


 普通だ。


 ものすごい事件が起きているのに。


 明日のシフトを気にされている。


 でも。


 少し安心した。


     ◇


 会議が終わり、私は執務室を出た。


 ゼノも一緒だった。


 しばらく二人で廊下を歩く。


「ゼノさん」


「何だ」


「さん付け嫌です?」


「好きにしろ」


「じゃあゼノさんで」


 昨日まで“黒衣の客”だった人に名前がある。それだけなのに、少し距離が縮まったような気がする。


「私の情報、聖法院に渡ったと思います?」


「おそらくな」


「やっぱり」


「怖いか」


 私は少し考えた。


「怖いです」


「そうか」


「でも」


 廊下の窓から、夜のフレーレオが見える。


 大きな街。


 無数の光。


 そこに。


 人間は。


 私しかいない。


「逃げる場所もないので」


「Hotel Aequitasにいればいい」


 意外な言葉だった。


「あなた、明日出るんですよね」


「ああ」


「自分は出るのに?」


「私は追われる理由がある」


「私にもできたみたいですけど」


「違う」


 ゼノが足を止めた。


「お前は何もしていない」


「……」


「人間として生まれたことは、罪ではない」


 その言葉は。


 妙に。


 重かった。


 たぶん。


 昔。


 同じことを。


 言えなかったから。


「ゼノさん」


「何だ」


「ノアさんにも、それ言いました?」


 ゼノは答えなかった。


 それだけで分かった。


「……言えなかったんですね」


「ああ」


 静かな返事だった。


 私はそれ以上聞かなかった。


 明日。


 ノアが死んだ日の話をする。


 約束は。


 まだ残っている。


     ◇


 翌朝。


 Hotel Aequitasのフロントは、予想通り地獄だった。


「712号室、チェックアウトです!」


「会計票は!?」


「今持ってきます!」


「306号室のお客様、延泊希望!」


「空室確認!」


「紙台帳、どこ!?」


「そっち!」


「そっちってどっちですか!」


 私は久しぶりに、懐かしい感覚を味わっていた。


 システム障害。


 現実世界のホテルでも最悪のイベントの一つだ。


 予約情報、客室状況、会計。普段システムに頼っているものが一斉に手作業へ戻ると、業務効率は一気に落ちる。


「アラタ!」


 アシュリーがフロントバックから顔を出す。


「はい!」


「505、レイトチェックアウト!」


「何時まで!?」


「午後二時!」


「追加料金は!?」


「免除! 昨日の警報で眠れなかったって!」


「了解!」


 レイトチェックアウト。


 通常のチェックアウト時刻より遅くまで客室を利用することだ。ホテルによっては追加料金が発生するが、今回は昨日の騒ぎに対するサービス対応らしい。


「次!」


「ナナサキ!」


「はい!」


「901号室、ルームチェンジ!」


「理由!」


「隣室のいびき!」


「異世界でもあるんだ、それ!」


「急いで!」


「はい!」


 忙しい。


 とにかく忙しい。


 でも。


 私は動けていた。


 紙台帳を確認し、空室を探し、清掃状況を確認する。分からない部分はすぐにナナリーへ聞く。


 気づけば。


 私は。


 笑っていた。


「……何笑ってるんだ、アラタ」


 サンディーが横を通る。


「いや」


「?」


「なんか」


 私は台帳をめくりながら答えた。


「懐かしくて」


「地獄が?」


「ホテルがです!」


 忙しい。


 大変。


 客から無理も言われる。


 予想外のことも起こる。


 それが嫌で。


 私はホテルを辞めようとしていた。


 なのに。


 今。


 少し。


 楽しい。


「……おかしいな」


「何が?」


「私」


 自分でも。


 驚く。


「ホテルの仕事、嫌いだったはずなんですけど」


 サンディーが。


 少し笑った。


「仕事が嫌いだったのか」


「え?」


「それとも」


 彼は。


 フロントを見る。


「疲れてただけなのか」


 私は。


 答えられなかった。


 その違いを。


 考えたことがなかった。


 ホテルが嫌だった。


 接客が嫌だった。


 そう思っていた。


 でも。


 本当は。


 ただ。


 疲れていただけ?


 考える暇もなく。


「ナナサキ!」


 ナナリー。


「はい!」


「考え事は後です!」


「ですよね!」


 私は。


 再び。


 仕事へ戻った。


     ◇


 正午を過ぎる頃には、チェックアウトの波もようやく落ち着いた。


 私はフロントバックの椅子へ座り込み、深く息を吐いた。魔導端末はまだ停止したままだが、紙台帳による運用にも少しずつ慣れてきた。


「疲れた……」


「お疲れ」


 アシュリーが冷たい飲み物を置いてくれた。


「ありがとうございます」


「どう? 久しぶりのホテルマン」


「異世界に来てからずっとホテルマンですよ」


「そうじゃなくて」


 アシュリーは笑う。


「元の世界の時みたいな仕事」


「……まあ」


 私は飲み物を一口。


「悪くないです」


「へえ」


「何です?」


「最初と全然違うなって」


「自分でも思います」


 Hotel Aequitasへ来た夜。


 私は。


 もうホテルなんて。


 絶対に働きたくないと思っていた。


 なのに。


 不思議だ。


 その時。


 フロントから。


 声が聞こえた。


「すみません」


 客。


 私は反射的に立つ。


「はい」


 フロントへ。


 そこにいたのは。


 小さな少女だった。


 見たことのない種族。


 白い髪。


 尖った耳。


 大きな帽子。


 宿泊客?


「どうされました?」


「これ」


 少女が。


 何かを差し出す。


 封筒。


「あなたに」


「私?」


「うん」


 受け取る。


「誰から?」


「知らない人」


 嫌な予感。


「どこで?」


「ホテルの前」


 私は。


 封筒を見る。


 名前。


 書かれている。


 アラタ・ナナサキ。


 そして。


 その下。


 文字。


「……嘘」


 読める。


 この世界の文字ではない。


 英語。


 私が。


 知っている文字。


 封筒には。


 こう書かれていた。


 To the Human.


 ――人間へ。


 心臓が。


 強く。


 鳴る。


「アラタ?」


 アシュリーが。


 近づく。


「どうしたの?」


「……これ」


 私は。


 封筒を見たまま。


 答える。


「私の世界の文字です」


 アシュリーの表情が変わった。


 私は。


 ゆっくり。


 封を開けた。


 中には。


 一枚の紙。


 文章は。


 たった数行。


 でも。


 読み終えた瞬間。


 背中に。


 冷たい汗が流れた。


「何て書いてあるの?」


 私は。


 答えられない。


 もう一度。


 読む。


 間違いじゃない。


 そこには。


 こう書かれていた。


 ――Welcome back.


 おかえり。


 そして。


 その下。


 もう一文。


 ――The door was never meant to send us home.


 私は。


 ゆっくり。


 日本語へ。


 訳した。


「……“あの門は”」


 声が。


 震える。


「“私たちを元の世界へ帰すためのものじゃなかった”」


 アシュリーが息を呑む。


 さらに。


 最後の一行。


 私は。


 それを見た。


 英語。


 でも。


 意味は。


 はっきり。


 分かる。


 ――Ask Zeno what came through instead.


「……ゼノさんに聞け」


「何を?」


 私は。


 紙を握る。


「あの門から」


 喉が。


 乾く。


「代わりに」


 一拍。


「何が出てきたのか」


 昨日。


 ゼノは言った。


 門を通った人間は。


 誰一人。


 帰らなかった。


 消えた。


 でも。


 もし。


 消えただけではないのなら。


 人間を送り込んだ。


 その向こう側から。


 何かが。


 こちらへ来ていたのだとしたら。


 そして。


 この手紙を書いた者は。


 なぜ。


 英語を知っている?


 私は。


 手紙を見つめた。


 聖騎士団が戻ってくるまで。


 あと一日。


 だが。


 どうやら。


 待っているだけでは。


 済まなくなったらしい。


――第15話 完

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