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ようこそ、異世界ホテル"Aequitas"へ  作者: 嘯江 新(ウソブエ シン)


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第14話「消えた人間と残された罪」

「人間がこの世界から消えた理由と、あなたが聖騎士団に追われている理由が同じ?」


 私は思わず聞き返した。


 黒衣の客は、窓辺に腰掛けたまま小さく頷いた。手元の月蜜はまだ半分ほど残っている。いつもなら少しずつ口に運ぶのに、今夜は一度もカップへ触れていなかった。


 それだけで、これから話す内容が彼にとって軽いものではないと分かる。


「正確には、同じ出来事から始まっている」


「……その出来事って?」


 私が尋ねると、彼はしばらく黙った。やがて二つの月が浮かぶ窓の外へ視線を向け、遠い記憶を探るように言葉を続けた。


「ノアがこの世界へ来た頃、人間はまだ少なかった」


「少なかった?」


「ああ。お前のように突然現れる者が、稀に存在した」


 私は思わず身を乗り出した。


「じゃあ、ノアさんだけじゃなかったんですね」


「違う。数年に一人。数十年に一人。時にはもっと長く間が空くこともあったが、人間はこの世界へ流れ着いていた」


「流れ着く……」


 妙な表現だった。


 転生でも召喚でもない。もっと自然現象のような響きがある。


「理由は?」


「誰にも分からなかった。人間自身もな」


「私みたいに?」


「おそらく」


 胸の奥がざわついた。


 私だけではない。


 過去にも、知らない世界で目を覚まして途方に暮れた人間がいた。帰る場所も分からず、この世界の常識も知らず、自分以外の人間がいない場所を歩いた者が。


 急に、ノアという人物が遠い伝説上の人ではなく感じられた。


「人間たちは、この世界で暮らしていたんですか?」


「多くはな。元の世界へ帰ろうとした者もいたが、成功した者を私は知らない」


「……やっぱり」


 ノアだけではなかった。


 帰る方法を探し、見つけられず、この世界で生きることになった人間たちがいた。


「でも、そういう人たちが少しずつ来ていたなら、どうして今は一人もいないんです?」


 私の問いに、黒衣の客はすぐには答えなかった。


「人間が増えたからだ」


「……え?」


 予想していなかった答えだった。


「最初は珍しい異種族だった。魔力もなく、身体能力も低く、寿命も短い。脅威だと考える者など、ほとんどいなかった」


「それが?」


「数が増えた」


「そんなに?」


「何百年も経てばな」


 確かに。


 数年、数十年単位で一人ずつでも、この世界に定着して家庭を持てば増えていく可能性はある。


 私の考えを読んだように、彼は続けた。


「人間は他種族との間に子を残すこともあった」


「……できるんですね」


「できる組み合わせもある」


「異世界、そこ結構柔軟なんだ……」


「今そこが気になるのか」


「すみません。続けてください」


 一瞬だけいつもの空気が戻った。


 だが、すぐに彼の声は重くなる。


「人間は集落を作り、商売を始め、技術を残した。魔力が弱いからこそ、魔術に頼らない仕組みを生み出した。数百年もすれば、この世界の各地に人間の血を引く者が現れていた」


「だったら……」


 私は眉をひそめた。


「それだけ聞くと、別に悪いことには思えません」


「問題は、人間そのものではない」


「じゃあ?」


「恐れだ」


 短い答えだった。


「恐れ……」


「人間は適応する。前にも言ったな」


「はい」


「魔術が使えなくても道具を作る。身体が弱くても集団で補う。知識を残し、次の世代へ渡す。百年程度しか生きないくせに、百年後のために仕組みを作る」


「それ、褒めてます?」


「事実を言っているだけだ」


 たぶん半分は褒めている。


「その性質を、危険だと考える者が現れた」


「誰が?」


 そこで彼は、はっきりとした嫌悪を声に滲ませた。


「聖法院だ」


 昨日、聖騎士団が口にしていた名。


「聖騎士団を動かしている組織?」


「その上にある宗教司法組織だ。少なくとも現在はな」


「現在は?」


「当時は違った。始まりは神殿を中心とした学術機関だった」


 私は意外に思った。


「学術機関?」


「ああ。古代魔術、世界構造、種族の起源。そうしたものを研究していた」


 話が嫌な方向へ繋がり始めている。


「まさか、人間についても?」


「そうだ」


 やっぱり。


 黒衣の客は静かに続けた。


「人間がなぜこの世界へ流れ着くのか。どこから来るのか。なぜ魔力を持たないのか。聖法院の前身となる組織は、それを研究し始めた」


「研究するだけなら」


「最初はな」


「……最初は」


 嫌な言葉だ。


 物語で“最初は”という言葉が出てきて、ろくな方向へ進んだ試しがない。


「やがて、一つの仮説が生まれた」


「どんな?」


「人間は、この世界の存在ではない」


「それは……合ってますよね」


「少なくともノアやお前を見る限りではな。だが、彼らはそこから別の結論を導いた」


 黒衣の客は私を見た。


「この世界に属さない存在が増え続ければ、世界そのものが壊れる、と」


「……は?」


 あまりにも大きな話になった。


「根拠は?」


「ない」


「ないんですか!?」


「正確には、証明されていなかった」


「それで人間を危険視した?」


「恐怖には、証明など必要ない」


 その言葉に、私は黙った。


 確かに。


 分からないもの。


 自分たちとは違うもの。


 いつか脅威になるかもしれないもの。


 それだけで人は――いや、人だけではない。この世界の種族も、恐れる。


「最初は監視だった」


 彼の声は淡々としていた。


「次に登録。移動制限。特定地域への立ち入り禁止。そして、人間同士の婚姻や他種族との間に子を持つことへの制限」


「……それ、もう」


「迫害だ」


 はっきり言った。


 胸の奥が重くなる。


 人間だから。


 ただ、それだけで。


「ノアさんは?」


「怒った」


「でしょうね」


 なんとなく想像できる。


 口が達者で、余計なことをして、頼まれてもいないのに誰かを助けるような人間。


「Hotel Aequitasはその頃には、すでに多くの種族が利用する宿になっていた。ノアは人間も受け入れた」


「当たり前ですよね。このホテルなら」


「聖法院は、それを問題視した」


 私は思わず目を細めた。


「……まさか」


「人間を宿泊させるな、と要求した」


 今のHotel Aequitasなら、答えは一つだ。


「断った」


「ああ」


「でしょうね」


 黒衣の客の口元がわずかに動いた。


「ノアも、お前と同じ顔をした」


「どんな顔です?」


「“何を馬鹿なことを言っているんだ”という顔だ」


「失礼ですね」


「実際に言った」


「やっぱり言ったんだ……」


 少しだけ笑った。


 でも、その笑いはすぐに消えた。


「そこから、対立が?」


「ああ。聖法院はHotel Aequitasへ圧力をかけた。人間の宿泊を拒め。人間の滞在情報を提出しろ。人間を見つけた場合は報告しろ」


「ホテル側は?」


「全て拒否した」


 即答だった。


「“客の種族を理由に、泊めるかどうかを決めるつもりはない”」


 ノアの声を代弁するように彼は言った。


 それは、今のブラッドリーとほとんど同じだった。


「変わってないんですね」


「何がだ」


「このホテル」


 私は少し笑った。


「総支配人が変わっても、やってること同じです」


「そうだな」


 彼も否定しなかった。


     ◇


「でも、それだけで人間が消えるとは思えません」


 私は話を戻した。


「迫害があったとしても、全員が一度にいなくなるわけじゃない」


「その通りだ」


 黒衣の客はゆっくりとカップへ手を伸ばした。月蜜を一口だけ飲み、しばらくその甘さを確かめるように沈黙する。


「決定的な事件が起きた」


「……何が?」


「門が、再び開いた」


 私は固まった。


「ノアさんが帰ろうとして失敗した、あの門?」


「同じ場所だ」


「誰が開いたんです?」


「聖法院」


 また。


「どうして?」


「人間を元の世界へ送り返すためだ」


 一瞬、良い話のようにも聞こえた。


 でも。


 この流れで、そんなはずがない。


「……強制的に?」


「そうだ」


 やっぱり。


「聖法院は、人間をこの世界から排除する方法を研究していた。殺せば問題になる。ならば、元いた場所へ戻せばいい。そう考えた」


「本当に帰れるなら」


 私は言いかけた。


「それを望む人もいたはずです」


「ああ」


 黒衣の客は頷く。


「最初は自ら望む者もいた」


「結果は?」


「誰一人、帰らなかった」


 背筋に寒気が走った。


「門を通ったら?」


「消えた」


「消えたって」


「誰にも分からない」


 帰ったのか。


 死んだのか。


 世界と世界の狭間に消えたのか。


 何も。


「それでも続けたんですか」


「続けた」


「どうして!」


 思わず声が大きくなった。


 黒衣の客は何も言わない。


 答えは簡単だからだ。


 もう、帰還が目的ではなかった。


 人間を、この世界からいなくすること。


 それ自体が目的になった。


「反対した者はいなかったんですか」


「いた」


「ノアさん」


「そして私だ」


 部屋の空気が変わった。


 ようやく。


 ここへ繋がった。


「あなたは、その時……」


「聖法院側にいた」


 私は目を見開いた。


「え?」


 完全に予想外だった。


「待ってください。あなた、聖法院の人だったんですか?」


「かつてはな」


「じゃあ、聖騎士団に追われてるのって」


「裏切り者だからだ」


 黒衣の客は、自嘲するように言った。


 私はしばらく言葉を失った。


 人間を排除しようとした組織。


 そこに。


 この人がいた。


「あなたは……人間排除に賛成してたんですか」


 聞くのが少し怖かった。


 彼はすぐに答えなかった。


「最初は」


 その言葉だけで、胸が冷えた。


「危険性を調べるべきだと思っていた」


「……」


「世界の外から来る存在が、何の影響も与えないとは限らない。だから研究そのものには賛成した」


「でも」


「排除するとは思っていなかった」


 黒衣の客は、自分の手を見る。


「気づいた時には遅かった」


 声に、今まで聞いたことのない重さがあった。


「登録された人間は集められ、門へ送られ始めた。拒否する者は拘束された。匿う者も罪人とされた」


 Hotel Aequitas。


 人間を泊め続けたホテル。


「このホテルも?」


「ああ」


「襲われた?」


「何度も」


 私は無意識に周囲を見た。


 今いるのは客室。


 美しい壁。


 整えられた家具。


 静かな照明。


 何度も。


 この場所が。


「ノアさんは?」


「最後まで拒んだ」


 やっぱり。


「人間を渡さなかった?」


「ああ。人間だけではない。追われた人間を助けた他種族も、この宿へ逃げ込んだ」


「……それで」


「Aequitasは、避難場所になった」


 ホテル。


 宿泊施設。


 そして。


 避難場所。


 この扉をくぐった者に敵はいない。


 その言葉が、急に重くなる。


「あなたは、その時どっちにいたんです?」


 黒衣の客は静かに私を見る。


「最初は、聖法院だ」


 私は胸の奥がざわつくのを感じた。


「じゃあ……Hotel Aequitasを攻撃した?」


「ああ」


 否定しなかった。


「ここに?」


「来た」


「ノアさんと戦った?」


「戦った」


「……」


 月蜜の湯気だけが、二人の間をゆっくりと上っていた。


 私は、何を聞けばいいのか分からなくなった。


 この人は。


 Hotel Aequitasの歴史を知っている。


 ノアの友人だった。


 人間を知っている。


 でも同時に。


 人間を追い詰めた側にいた。


「何で……」


 ようやく声が出た。


「どうしてです?」


「私にも守るものがあった」


 黒衣の客は静かに答えた。


「聖法院は、この世界を守っていると信じていた。門の研究も、人間の監視も、全て世界のためだと」


「でも」


「信じていたものを疑うのは、簡単ではない」


 私は何も言えなかった。


 正しいと思っていた。


 組織。


 仲間。


 使命。


 そこから外れることは。


 簡単じゃない。


「じゃあ、いつ変わったんです?」


「ノアが死んだ日だ」


 空気が止まった。


「……え?」


 彼は顔を上げた。


「ノア・ウィンスレットは、Hotel Aequitasを守る戦いで死んだ」


 私は息をするのを忘れた。


 今まで。


 ノアがもういないことは分かっていた。


 黒衣の客も、昔に死んだと言っていた。


 でも。


「まさか」


 喉が乾く。


「あなたが?」


 問いかけると、黒衣の客は長く沈黙した。


 私は目を逸らせなかった。


 やがて。


 彼は静かに答えた。


「直接ではない」


 ほんの少しだけ、息が戻る。


 でも。


 次の言葉で。


 それは消えた。


「だが、私のせいだ」


     ◇


 それ以上、その夜に聞くことはできなかった。


 正確には、黒衣の客が話を終えたわけではない。私の方が、一度整理する時間を必要としていた。


 Hotel Aequitasを生み出した人間、ノア・ウィンスレット。彼はこの世界へ迷い込み、帰る方法を探しながら旅を続け、その過程で敵同士を一夜だけ同じ屋根の下へ迎え入れた。壊れた屋根を直した小さな行為から始まった宿は、やがて種族を問わず客を迎える場所になった。


 そして人間が迫害され始めた時、その理念を曲げなかった。


 一方で、目の前にいる黒衣の客は、かつて人間を危険視した聖法院に所属していた。Hotel Aequitasを攻撃する側に立ち、ノアと戦い、その結果としてノアは死んだ。


「……あなたの名前」


 立ち上がりかけた私は、ふと足を止めた。


 そういえば。


 私はこの人のことを何も知らない。


 聖騎士団が呼んだ名前は聞いた。


 でも。


 あの時は状況が混乱しすぎていて、頭に入っていなかった。


「もう一度、聞いてもいいですか」


「何を」


「名前です」


 黒衣の客はしばらく黙った。


 やがて、ゆっくりと立ち上がる。


 そして初めて。


 彼は自らローブの頭部を外した。


「――え」


 私は言葉を失った。


 長い銀灰色の髪。額から後方へ伸びた、黒曜石のような二本の角。耳は人間より細く長く、肌はわずかに青白い。何より目を引いたのは、左右で色の違う瞳だった。


 右は深い金。


 左は暗い赤。


 長い時間を生きていると言われても信じられないほど若々しい顔立ちをしていたが、その目だけは違った。何百年、何千年という時間を見続けてきた者の疲労が、そこに刻まれているように見える。


「私は」


 彼は、今まで隠していた名を告げた。


「ゼノ・アルヴァリス」


 私は静かに、その名を覚えた。


「かつて聖法院で、“門”の研究に関わっていた者だ」


「ゼノ……」


「ああ」


「ノアさんの友人で」


「友人ではない」


「まだ言うんですか」


「腐れ縁だ」


 こんな場面なのに。


 少しだけ。


 私は笑ってしまった。


 ゼノも、ほんの一瞬だけ口元を緩めた。


 けれど、その表情はすぐに消える。


「アラタ」


「はい」


「明日」


 聖騎士団が来るまで、あと一日。


 ゼノは私を真っ直ぐ見た。


「ノアが死んだ日を話す」


 私は黙って頷いた。


「そして、なぜ聖法院が今でも人間の存在を恐れているのかも」


「……今でも?」


 その言葉に引っかかった。


 人間は。


 昔に消えた。


 なら。


 今さら。


 何を恐れる?


 ゼノの視線が、私へ向く。


「お前だ」


 静かな声だった。


「今の聖法院が最も恐れているのは、おそらく」


 私は自分の胸元を見た。


「私?」


「ああ」


 ゼノは頷く。


「この世界に再び現れた」


 そして、はっきりと言った。


「人間そのものだ」


 胸の奥が冷える。


 聖騎士団は。


 ゼノを追っている。


 私はずっと、そう思っていた。


 でも。


 もし。


 それだけではないとしたら。


 昨日、Hotel Aequitasの玄関に現れた彼らは。


 もう。


 私の存在を知っているのだろうか。


 その答えを考えた瞬間。


 廊下の遠くから、慌ただしい足音が聞こえた。


 次いで、Hotel Aequitasの夜を切り裂くように、館内警報の鐘が鳴り響く。


 私は反射的に扉へ向き直った。


 ゼノも表情を変える。


 扉の外から聞こえてきたのは、ナナリーの声だった。


「ナナサキ!」


 私は急いで扉を開ける。


 廊下の向こうから走ってきたナナリーは、普段の冷静さを失いかけていた。


「何があったんです?」


「正面玄関ではありません」


「え?」


 息を整えながら、ナナリーは言った。


「ホテルの宿泊者名簿に、不正な閲覧痕跡が見つかりました」


 意味を理解するまで、数秒かかった。


「宿泊者名簿って……」


「あなたの登録情報を含みます」


 全身から血の気が引く。


 ゼノが、低い声で呟いた。


「遅かったか」


 Hotel Aequitasの外だけではない。


 すでに誰かが。


 このホテルの中へ。


 手を伸ばしていた。


――第14話 完

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