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ようこそ、異世界ホテル"Aequitas"へ  作者: 嘯江 新(ウソブエ シン)


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2/22

第2話「元ホテルマンの悪い癖」

「人間……ですか」


Hotel Aequitas 総支配人、ブラッドリー・シュチュワードは、もう一度その言葉を確かめるように呟いた。


アラタ・ナナサキは、妙な居心地の悪さを感じながら頷く。


「はい。人間です」


「……なるほど」


ブラッドリーは顎に手を添えた。


先ほどまで完璧だった接客用の笑顔が、ほんの少しだけ崩れている。


驚いている。


明らかに。


だが、それ以上に――考えている。


そんな顔だった。


アラタの周囲では、フロントスタッフたちも何となくこちらを気にしている。


宿泊客までちらちらと視線を送ってくる。


(……そんなに珍しいのか?)


珍しいどころの話ではない。


この世界で、アラタはまだ自分以外の人間を一人も見ていない。


だが、今はそれを深く考える余裕もなかった。


腹は減っている。


喉も乾いている。


何より、寝る場所がない。


ブラッドリーは少し考えた後、穏やかな声で言った。


「ここではお話ししにくいでしょう。場所を変えましょうか」


「え?」


「お疲れでしょう」


「まあ……それは」


死んで。


森で目覚めて。


巨大な獣に追われ。


知らない街へ来て。


無一文でホテルに飛び込み。


今に至る。


疲れていない方がおかしい。


「こちらへどうぞ」


ブラッドリーはアラタをロビーの奥へ案内した。


その歩き方を見ながら、アラタはふと思う。


(やっぱり総支配人って感じだな……)


歩幅。


姿勢。


視線。


周囲への気配り。


すれ違うスタッフへの目配せ。


宿泊客が近づけば、さりげなく身体の向きを変えて通路を空ける。


一つ一つの動きが自然だった。


長くホテルで働いていた人間だからこそ分かる。


この男は、肩書だけの総支配人ではない。


現場を知っている。



案内されたのは、ロビーから少し離れた応接室だった。


豪華ではある。


だが、客室とは違う。


落ち着いた内装。


大きな机。


二人掛けのソファ。


壁にはHotel Aequitasの紋章らしきものが掲げられていた。


ブラッドリーが向かいの席を示す。


「どうぞ、お掛けください」


「失礼します」


アラタは座った。


その瞬間。


コンコン。


扉がノックされた。


「失礼いたします」


入ってきたのは女性だった。


淡い金色の髪。


端正な制服。


頭部には人間にはない特徴があり、アラタは一瞬目を奪われる。


女性は慣れた手つきで飲み物をテーブルに置いた。


「ありがとうございます」


アラタは反射的に礼を言った。


女性が少しだけ目を丸くする。


ブラッドリーはそれを見て、わずかに笑った。


「お気遣いなく」


「いや、癖で」


「癖?」


「俺……前の世界でホテルで働いていたので」


ブラッドリーの目が変わった。


「ホテルで?」


「はい」


「ホテルマンでいらしたと」


「まあ……そうです」


言った後で、アラタは少し顔をしかめた。


“でした”。


もう過去形だ。


いや。


正確には、辞める前に死んだのだから、退職すらしていない。


何とも締まらない話だった。


ブラッドリーは興味深そうにアラタを見る。


「それは興味深い」


「そうですか?」


「ええ。非常に」


アラタはカップを手に取る。


匂いは紅茶に近い。


恐る恐る口に含む。


少し甘い。


「……美味しい」


「それは何よりです」


ブラッドリーは向かいに腰掛けた。


「では、改めてお伺いしてもよろしいでしょうか」


「はい」


「あなたは、どちらからいらしたのですか?」


アラタは少し迷った。


説明して信じてもらえるだろうか。


だが、隠しても仕方がない。


「日本です」


「ニホン」


「たぶん、この世界にはない場所です」


ブラッドリーは黙って聞いている。


「俺は、そこでホテルマンをしていました」


そこまで言って、アラタは息を吐いた。


「でも……辞めようと思ってたんです」


「なぜです?」


「接客に疲れたからです」


ブラッドリーは表情を変えなかった。


アラタは続けた。


「毎日、いろんな客が来て。怒られて、謝って、無茶なこと言われて。それでも笑ってなきゃいけない」


言いながら、少しだけ胸が重くなる。


「最初は好きだったんですけどね。ホテルの仕事」


「……」


「でも、だんだん嫌になって」


アラタは苦笑した。


「だから転職しようとしてたんです。ホテルとは全然違う仕事に」


「その途中で?」


「交通事故に遭いました」


ブラッドリーの目が細くなる。


「それで死にました」


「……」


「で、気づいたら森です」


簡潔に言うと、自分でも信じられない。


ブラッドリーはしばらく黙っていた。


「つまり」


ゆっくりと確認する。


「あなたは、別の世界で一度命を落とし」


「はい」


「この世界で目を覚ました」


「そうなります」


「そして、この世界には来たばかり」


「今日です」


「所持金もない」


「ゼロです」


「身寄りも」


「ありません」


「住む場所も」


「ありません」


ブラッドリーは数秒、沈黙した。


アラタは苦笑する。


「改めて並べると、俺かなり終わってますね」


「そのような言い方はなさらない方がよろしいかと」


「すみません」


また謝った。


アラタは内心で突っ込む。


(何ですぐ謝るんだ俺)


ホテルマン時代の癖が抜けない。


ブラッドリーは少し考えた後、立ち上がった。


「本日は当ホテルにお泊まりください」


アラタは顔を上げた。


「え?」


「費用は不要です」


「いやいやいや」


思わず身を乗り出す。


「それはさすがに」


「こちらから申し上げております」


「でもホテルですよね?」


「ええ」


「商売ですよね?」


「もちろんです」


「だったら、ただで泊まるのは」


ブラッドリーが笑った。


「不思議な方ですね」


「何がです?」


「先ほどまで無一文で困っていたのに、今度はホテルの収益を心配している」


「……」


確かに。


ブラッドリーは続ける。


「一泊分の客室で当ホテルが傾くことはございません。それより、日没後に行き場のない方を追い出したとあっては、私の方が眠れなくなります」


「……総支配人って、そういうことまで考えるんですね」


「総支配人ですので」


即答だった。


アラタは少し笑った。


この人は嫌いじゃない。


そう思った。



「では、お部屋をご用意いたします」


ブラッドリーと共にロビーへ戻る。


フロントへ近づくと、スタッフがすぐに姿勢を正した。


「こちらのお客様へ一室」


「かしこまりました」


スタッフは透明な板状の端末を操作する。


アラタは何となくその手元を見ていた。


そして。


「……あれ?」


思わず声が出た。


スタッフが顔を上げる。


「何か?」


「あ、いや」


アラタは画面らしき表示を指差した。


「その部屋……まだ清掃終わってないんじゃないですか?」


一瞬。


空気が止まった。


スタッフが端末を見る。


「え?」


ブラッドリーも画面を見る。


「なぜ分かりました?」


「表示が」


アラタは指差す。


「この記号、たぶん客室ステータスですよね」


スタッフが驚く。


「……はい」


「こっちは空室で、こっちは使用中。で、この印が清掃待ちか清掃中」


ブラッドリーの眉がわずかに上がる。


「正解です」


「やっぱり」


アラタは頷いた。


「現実世界のホテルでも似た管理をしてたので」


客室には、それぞれ現在の状態がある。


宿泊中なのか。


空室なのか。


清掃前なのか。


清掃済みなのか。


販売できる状態なのか。


それらをまとめて管理する。


ホテルでは一般に、


ルームステータス


や、


客室ステータス


と呼ばれる考え方だ。


「空室だからって、必ずしもすぐ客を入れられるわけじゃないんですよね」


アラタは何気なく言った。


「前の客がチェックアウトした直後なら、清掃と最終確認が必要ですし」


スタッフは目を丸くしている。


ブラッドリーは、何やら楽しそうだった。


「なるほど」


「何です?」


「いえ」


ブラッドリーは微笑む。


「本当にホテルマンだったのだなと」


「疑ってたんですか?」


「少し」


「ひどいな」


アラタが笑う。


だが。


その直後だった。


ロビーの奥から、


「申し訳ございません!」


という声が響いた。


アラタの笑顔が消える。


聞き慣れた声だった。


内容ではない。


声の種類。


ホテルマンが客へ謝罪する声。


しかも、かなり切迫している。


アラタは反射的にそちらを見る。


フロントカウンターの反対側。


巨大な体格の宿泊客が、スタッフに詰め寄っていた。


頭には二本の角。


身体は赤黒い鱗に覆われている。


どう見ても人間ではない。


「どういうことだ!」


低い怒鳴り声。


周囲の宿泊客が振り返る。


スタッフが必死に頭を下げている。


「大変申し訳ございません!」


「申し訳ないで済むか!」


アラタは顔をしかめた。


(コンプレインか)


ホテル業界で使われることの多い言葉。


コンプレイン。


苦情。


不満。


クレーム。


宿泊客からホテルへ寄せられる訴えだ。


程度は様々だ。


設備不良。


清掃不備。


騒音。


予約ミス。


スタッフの対応。


時にはホテル側に非がない場合もある。


だが、客が怒っている以上、まず状況を把握しなければならない。


「何があったんでしょう」


アラタが呟く。


ブラッドリーはすでに歩き出していた。


「確認しましょう」


当然だ。


総支配人だ。


アラタもつられて後を追う。


二歩。


三歩。


そして気づく。


「……って、俺は関係ないだろ」


足を止める。


もうホテルマンじゃない。


このホテルの従業員ですらない。


ただの客だ。


しかも無料宿泊させてもらう予定の。


「……」


それでも。


視線が離れない。


巨大な客が怒鳴っている。


「部屋に入ったら床が水浸しだ! 荷物まで濡れたんだぞ!」


スタッフの顔が青ざめている。


アラタの眉が動く。


水漏れ。


客室トラブル。


「別のお部屋をご用意いたします!」


「そういう問題じゃない!」


客の怒声。


周囲がざわつく。


担当スタッフは完全に動揺していた。


アラタは無意識に状況を整理する。


(水浸し)


(荷物も濡れた)


(代替室の提案だけじゃ足りない)


(まず荷物の状態確認)


(原因特定)


(補償の可能性)


(それと、客の怒りがピークの状態で解決策だけ出しても入らない)


「……」


アラタは顔をしかめた。


(やめろ)


考えるな。


もうホテルマンじゃない。


関係ない。


ブラッドリーが客へ近づく。


「お客様」


総支配人として対応に入る。


だが、その瞬間。


別のスタッフが慌てて走ってきた。


「総支配人!」


「どうしました」


「同じ階で、別のお部屋からも水が!」


ブラッドリーの表情が変わる。


「複数室?」


「はい!」


アラタの目が細くなる。


(一室だけじゃない)


(配管か?)


「該当階の上は?」


アラタが口を挟んだ。


全員が振り返る。


「……え?」


アラタ自身も固まる。


(何言ってんだ俺)


だが、もう遅い。


「いや、その」


アラタは頭を掻く。


「複数室で同時に水漏れなら、一室の設備不良じゃなくて上階か共用部分の可能性もあるかなって」


ブラッドリーはすぐにスタッフを見る。


「確認を」


「はい!」


スタッフが走る。


アラタはため息をついた。


「……悪い癖だ」


「何がです?」


ブラッドリーが聞く。


「ホテルで何か起きると、勝手に考えちゃうんですよ」


「元ホテルマンだから?」


「元ホテルマンだからです」


その間にも、怒っている宿泊客は収まらない。


アラタはその客を見た。


怒っている。


当然だ。


だが。


よく見る。


濡れた荷物を強く抱えている。


その中に、小さな箱があった。


客は何度もその箱を確認している。


(……荷物そのものより、あれが大事なのか?)


アラタは躊躇した。


だが。


身体が先に動いた。


「お客様」


ブラッドリーが少し驚いてアラタを見る。


客も睨む。


「何だ」


「申し訳ありません。私はこのホテルの従業員ではありません」


「は?」


「ただ、少し気になって」


アラタは箱を見る。


「その箱の中身、大丈夫ですか?」


客の表情が変わった。


怒りではない。


焦り。


「……これは」


「濡らしたくない物なんですよね」


客が箱を強く抱く。


「娘への贈り物だ」


アラタは黙る。


「明日、娘の成人祝いなんだ」


客は悔しそうに歯を食いしばる。


「長い旅をして、ようやく手に入れた。もし中まで水が入っていたら……」


だから怒っていた。


部屋が濡れていたからではない。


荷物が濡れたからでもない。


娘への贈り物が駄目になったかもしれないから。


アラタは静かに言う。


「まず、それを確認しましょう」


「……」


「部屋の問題はホテルが必ず確認します。でも今一番心配なのは、それですよね」


客は黙った。


さっきまでの怒鳴り声が消える。


アラタはブラッドリーを見る。


「乾いた場所と、箱を開けるための台。あと、必要なら中身を乾燥できる設備ってあります?」


ブラッドリーは即座に答えた。


「ございます」


「なら先にそっちを」


ブラッドリーがスタッフへ指示する。


「すぐに」


「かしこまりました!」


客は少し戸惑っていた。


アラタは頭を下げる。


「申し訳ありません。お部屋の件は何も解決してません。ただ」


一拍。


「まず、お客様が一番心配しているものから確認した方がいいと思いました」


客はしばらくアラタを見ていた。


やがて。


「……頼む」


小さく言った。


「娘に渡したいんだ」


「はい」


アラタは反射的に答えた。


「承知いたしました」


そして。


言った直後に固まった。


「……」


ブラッドリーが横で笑っている。


「何です?」


「いえ」


「絶対何か思ってますよね」


「別に」


「顔が笑ってますよ」


ブラッドリーは静かに言った。


「ナナサキ様」


「はい」


「接客がお嫌いなのですか?」


アラタは答えようとして。


止まった。


「……嫌いですよ」


少し間を空けて言う。


「たぶん」


ブラッドリーは何も言わなかった。


その後。


客が持っていた箱の中身は無事だった。


防水処理された布に包まれており、水は中まで届いていなかった。


客は大きく息を吐いた。


「よかった……」


その顔を見て。


アラタも、


なぜか胸を撫で下ろしていた。


水漏れの原因は、上階にある魔導式給水設備の故障だった。


複数室が一時的に使用不能となり、Hotel Aequitas側は該当客室の宿泊客へ代替室を用意。


濡れた荷物についても確認と補償対応を進めることになった。


事態が収まり始めた頃。


アラタは一人、


ロビーの端に立っていた。


「……何やってんだ、俺」


異世界に来て数時間。


ホテルを辞めようとしていた。


接客から離れようとしていた。


それなのに。


ホテルでトラブルが起きた瞬間、


考えて。


客を見て。


話しかけて。


対応までしてしまった。


「本当に悪い癖だな……」


「私は、良い癖だと思いますが」


背後から声。


ブラッドリーだった。


アラタは振り返る。


「聞いてたんですか」


「ええ」


「趣味悪いですよ、総支配人」


「申し訳ございません」


「そうやって綺麗に謝るのやめてもらえます?」


「善処いたします」


絶対楽しんでいる。


アラタはため息をついた。


ブラッドリーは少しだけ真面目な顔になる。


「先ほどはありがとうございました」


「別に」


「お客様の怒りを鎮めたのは、あなたです」


「違いますよ」


アラタはすぐに否定する。


「怒りを鎮めたんじゃない」


「では?」


「あの人は、最初から怒りたかったわけじゃない」


アラタは遠くを見る。


先ほどの客が、濡れていない箱を抱えている。


「不安だっただけです」


ブラッドリーは黙って聞く。


「大事なものが駄目になったかもしれない。それが怖くて、どうしたらいいか分からなくて、怒ってた」


アラタは肩をすくめた。


「ホテルでよくあります」


客の言葉の表面だけを見る。


すると、


“怒っている客”


に見える。


だが。


その奥には別の理由があることがある。


不安。


悲しみ。


焦り。


恥ずかしさ。


期待。


ホテルマンの仕事は、


ただ謝ることではない。


何に困っているのか。


何を求めているのか。


それを考える。


かつて。


アラタはそういう仕事が好きだった。


「……」


胸の奥に、


少しだけ昔の感覚が戻る。


すぐに振り払った。


「まあ、もう俺には関係ないですけど」


「そうですか」


「そうです」


「では、お部屋へご案内いたしましょう」


「お願いします」


ブラッドリーは歩き始める。


アラタも後を追う。


エレベーターらしき場所へ向かいながら、


ブラッドリーがふと尋ねた。


「ナナサキ様」


「はい?」


「明日のご予定は?」


「……」


アラタは止まった。


予定。


ない。


仕事。


ない。


家。


ない。


金。


ない。


知り合い。


いない。


「……ないですね」


「そうですか」


ブラッドリーが微笑んだ。


なぜだろう。


その笑顔が、


少しだけ嫌な予感をさせる。


「何ですか」


「いいえ」


「絶対何か考えてますよね」


「さて」


エレベーターの扉が開く。


ブラッドリーが一歩下がり、


アラタへ先に乗るよう促した。


そして。


「本日はどうぞ、ごゆっくりお休みください」


「ありがとうございます」


アラタが乗り込む。


扉が閉まり始める。


その直前。


ブラッドリーは、


小さく呟いた。


「明日から忙しくなりそうですね」


「え?」


扉が閉じた。


「……何て?」


返事はない。


アラタは一人、


エレベーターの中で首を傾げた。


このとき。


彼はまだ知らなかった。


Hotel Aequitas総支配人ブラッドリー・シュチュワードが、


すでに一つの決断をしていたことを。


そして翌朝。


アラタ・ナナサキが、


想像もしなかった言葉を告げられることになる。


ホテルマンから逃げようとしていた男の、


異世界での再就職。


その話は、


もうすぐ始まる。


――第2話 完

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