第1話「ようこそ、異世界ホテルへ」
「はぁ……辞めよう」
その言葉を口にした瞬間。
七崎新は、自分でも驚くほど肩の力が抜けた。
東京の、とあるホテル。
バックヤードにある従業員用休憩室。
時計の針は、日付が変わる少し前を指していた。
制服のネクタイを緩めながら、アラタは椅子にもたれかかる。
今日も長い一日だった。
チェックインのピークタイム。
予定より早く到着した客。
予約内容が違うと怒鳴る客。
部屋からの問い合わせ。
追加のタオル。
レストランの営業時間。
Wi-Fiの接続方法。
タクシーの手配。
周辺観光の案内。
そして最後には、
「責任者を出せ」
だった。
もちろん、ホテルマンとして客の要望には可能な限り応える。
それが仕事だ。
分かっている。
分かっているのだが――。
「……疲れたな」
誰に聞かせるでもなく、アラタは呟いた。
ホテルで働き始めた頃は違った。
宿泊客から、
『ありがとう』
と言われるだけで嬉しかった。
自分の案内で客が笑顔になる。
記念日の旅行を手伝う。
知らない土地で不安そうにしていた客が、安心した顔で部屋へ向かう。
そういう瞬間が好きだった。
ホテルマンという仕事が好きだった。
――はずだった。
だが、いつの頃からだろう。
客の顔を見るたび、
今度は何を言われるのだろう。
そんなことばかり考えるようになった。
制服を着るだけで気が重くなる。
電話が鳴れば身構える。
フロントへ向かう前に、大きく息を吐く。
それでも笑顔を作る。
ホテルマンだから。
「ありがとうございました」
「かしこまりました」
「申し訳ございません」
「少々お待ちくださいませ」
いつしか、自分が何のために笑っているのかも分からなくなった。
だから決めた。
ホテルを辞める。
次はまったく違う仕事をしよう。
接客から離れよう。
人と関わらない仕事だって世の中にはいくらでもある。
そして数週間後。
アラタは転職候補先の面接へ向かっていた。
ホテルとはまったく関係のない業種だった。
久しぶりにスーツを着て、駅から面接会場へ歩く。
夏の日差しがアスファルトを照らしている。
「志望動機……志望動機……」
歩きながら、何度も頭の中で文章を繰り返す。
別に夢の仕事というわけではない。
ただ。
今とは違う場所へ行きたかった。
ホテルではない場所へ。
もう客に頭を下げなくていい場所へ。
交差点に差しかかった。
信号が青になる。
アラタは歩き出した。
そのときだった。
けたたましいクラクション。
誰かの悲鳴。
横を見る。
大型車。
近い。
あまりにも。
「え――」
そこで。
俺の人生は終わった。
◇
鳥の声が聞こえた。
チチチ――。
どこか遠くで、水の流れる音がする。
頬に冷たい感触。
草の匂い。
アラタはゆっくり目を開けた。
「…………」
最初に見えたのは、
空だった。
青い。
雲が流れている。
木々の枝が、その空を縁取っていた。
「…………は?」
身体を起こす。
周囲を見回す。
森。
右を見ても木。
左を見ても木。
正面にも木。
後ろにも木。
「…………」
もう一度寝る。
目を閉じる。
三秒。
目を開く。
「……森だな」
当然、森だった。
「いやいやいやいや」
勢いよく身体を起こす。
「ちょっと待て!」
誰も答えない。
「俺……面接……」
記憶を辿る。
駅。
スーツ。
交差点。
青信号。
クラクション。
大型車。
そして――。
「…………俺」
胸を触る。
鼓動がある。
腕もある。
脚もある。
痛みもない。
服装を見る。
面接へ行くために着ていたスーツのままだ。
鞄だけがない。
スマートフォンもポケットにない。
財布もない。
「……死んだ、よな?」
あれで生きているとは思えない。
ましてや事故に遭った直後、なぜ森の中で昼寝しているのか。
意味が分からない。
「病院……じゃないよな」
少なくとも日本の病院ではない。
それ以前に病院ですらない。
アラタは立ち上がった。
身体に異常はない。
傷もない。
スーツも、不自然なほど綺麗だった。
「……夢?」
自分の頬をつねる。
「痛っ」
夢ではなさそうだ。
「じゃあ……何だよ、これ」
返事はない。
聞こえるのは鳥の声だけ。
いや。
鳥――なのだろうか。
木の上を見上げる。
一羽の生き物が枝から飛び立った。
羽が四枚あった。
「…………」
アラタは無言でその姿を見送った。
数秒後。
「鳥じゃねえな」
少なくとも、自分の知っている鳥ではない。
嫌な予感がした。
周囲を改めて見る。
木の葉には、薄い青色のものが混じっている。
遠くでは、拳ほどの大きさの光が宙を漂っている。
植物の中には淡く発光しているものさえある。
「……まさか」
言葉にすると馬鹿馬鹿しい。
ゲーム。
漫画。
小説。
アニメ。
そういう世界でなら、何度も聞いたことがある。
死んだ後。
知らない世界。
見たこともない生き物。
「……異世界?」
言った。
言ってしまった。
「いや、まさかな」
笑う。
乾いた笑いだった。
だが、そのとき。
ガサッ。
背後の茂みが揺れた。
アラタの身体が固まる。
「…………」
もう一度。
ガサッ。
「誰か……います?」
返事はない。
代わりに。
茂みの間から、黄色い二つの光が見えた。
目。
明らかに何かの目だ。
「…………」
ゆっくり後退する。
姿を現した。
狼に似ていた。
ただし。
大きさが違う。
普通の大型犬より、さらに一回り大きい。
額から角のようなものが生えている。
口元からは鋭い牙。
そして背中には、硬質な鱗のようなものが並んでいた。
「……犬じゃねえ」
唸り声。
「グルルルル……」
「ですよね」
アラタは後ずさる。
「野良犬です、って感じじゃないですよね」
獣が一歩進む。
「…………」
もう一歩。
「…………」
さらに一歩。
「いや待って待って待って」
獣が身を低くした。
ホテルマン時代、アラタは何度も危機対応研修を受けた。
火災。
地震。
不審者。
急病人。
だが。
――異世界の謎の大型獣に襲われた場合。
そんな項目は当然なかった。
「これは……」
獣が跳んだ。
「走るしかないだろ!」
アラタは全力で逃げ出した。
◇
「なんで転生初日から命懸けなんだよ!」
森を走る。
枝が顔に当たる。
革靴では走りにくい。
後ろから獣の足音。
近い。
非常に近い。
「異世界ってもっとこう!」
息を切らしながら叫ぶ。
「女神とか! 能力とか! 説明があるんじゃないのか!?」
ない。
説明担当は現れない。
特別な力も感じない。
剣もない。
魔法も使えない。
ただの元ホテルマン。
「くそっ!」
木々の隙間に光が見えた。
「出口……!」
アラタは最後の力を振り絞って走った。
森を抜ける。
視界が一気に開けた。
そこには――。
「…………」
アラタは足を止めた。
追ってきた獣も、なぜか森の手前で立ち止まった。
だが、もうそんなことは気にならなかった。
目の前に。
巨大な街が広がっていた。
高い城壁。
石造りの建築物。
巨大な尖塔。
空中には、船のような乗り物が浮かんでいる。
遠くには城らしき建造物。
煙突から色とりどりの煙。
道路の上を走っているのは馬車――だけではない。
巨大なトカゲのような生き物が車を引いている。
空を飛ぶ者までいる。
「…………マジか」
異世界。
もう否定できなかった。
アラタは恐る恐る街へ向かった。
門の上に、大きな文字が刻まれている。
知らない文字。
――のはずだった。
なのに。
読める。
『flōreō』
その下には、
『フレーレオ』
と理解できた。
「……フレーレオ」
なぜ読めるのかは分からない。
だが意味が頭に入ってくる。
アラタは門をくぐった。
そして。
さらに言葉を失った。
「…………」
人がいない。
いや。
正確には。
人間がいない。
街には大勢の住人がいる。
だが。
誰一人、自分と同じ姿をしていなかった。
尖った長い耳を持つ者。
頭に獣の耳を持つ者。
全身が毛に覆われた者。
角の生えた者。
羽を持つ者。
小さな身体で宙を飛ぶ者。
二本足で歩く爬虫類のような者。
尾を持つ者。
どう見ても人間ではない者たち。
そんな者たちが、
買い物をしている。
会話をしている。
荷物を運んでいる。
子どもが走り回っている。
店員が客を呼び込んでいる。
つまり。
この場所ではこれが普通なのだ。
「…………」
アラタは自分を見る。
手。
脚。
身体。
どこからどう見ても人間。
周囲を見る。
角。
耳。
翼。
尻尾。
鱗。
そしてまた自分を見る。
「……俺」
額を押さえた。
「めちゃくちゃ浮いてない?」
浮いていた。
通行人たちがアラタを見る。
一度通り過ぎてから振り返る者までいる。
ひそひそ声も聞こえる。
「何族だ?」
「耳が丸いぞ」
「尻尾もない」
「角もない」
「翼も……」
「珍しいな」
アラタは顔を引きつらせた。
(こっちから見たら、そっちの方が珍しいんだけどな……)
しかし。
妙なことに言葉も分かる。
文字も読める。
理由は不明だが、少なくとも意思疎通ができるのはありがたい。
「……とりあえず」
空を見る。
夕方。
太陽らしきものが地平線へ沈み始めている。
しかも。
空には巨大な月が二つ見え始めていた。
「今日は泊まる場所を探さないと」
森へ戻る気はない。
絶対にない。
問題は金だった。
ポケットを探る。
何もない。
「……無一文」
最悪だ。
それでも宿を探すしかない。
アラタは街を歩いた。
大通りには多くの店が並んでいる。
食堂。
武器屋らしき店。
薬草。
魔道具。
服。
宝石。
そして何軒か、
『INN』
あるいは、
『宿』
と思われる看板も見つけた。
だが料金らしい数字を見るたびに足が止まる。
金がない。
交渉するにしても、何を差し出せばいい。
ホテルマン経験?
異世界で?
「接客できますから一泊させてくださいって?」
自分で言って苦笑する。
「……いやいや」
ホテルを辞めようとしていた男が、異世界で宿代代わりにホテル勤務。
笑えない。
「それだけは……」
もうホテルはいい。
そう思った。
そのときだった。
大通りの先。
街の中心部へ向かう道の向こうに、
ひときわ大きな建物が見えた。
「…………」
アラタは立ち止まる。
他の建物とは明らかに違う。
重厚でありながら華やか。
巨大な正面玄関。
何階建てなのか、一目では分からないほど高い。
数え切れないほどの窓には暖かな灯りがともっている。
玄関前には屋根付きの車寄せ。
さまざまな種族の者たちが次々と入っていく。
荷物を運ぶ従業員。
客を迎えるスタッフ。
整然とした動き。
「……ホテルだ」
ホテルマンだったからこそ、
一目で分かった。
宿屋ではない。
明らかにホテルだ。
しかも。
相当な規模の。
玄関脇には巨大な看板が掲げられていた。
そこに記されている文字を、
アラタは声に出した。
「Hotel……Aequitas」
――ホテル・アエキタス。
立派だった。
少なくとも外観だけなら、アラタが現実世界で働いていたホテルなど比較にならない。
「いやいや」
首を横に振る。
「こんなホテル、絶対高いだろ」
宿泊料金など聞くまでもない。
無一文の男が入る場所ではない。
そのまま通り過ぎようとする。
一歩。
二歩。
三歩。
止まる。
振り返る。
「…………」
ホテルの玄関。
暖かい光。
その向こうにはロビーが見える。
今日だけ。
今日だけ泊まれないか、相談してみよう。
事情を話して。
駄目なら駄目で仕方がない。
「……ホテルマンなんだから」
交渉くらいできる。
そう自分に言い聞かせる。
皮肉だ。
ホテルから逃げた男が、
知らない世界で最初に頼ろうとしている場所がホテルだなんて。
アラタはHotel Aequitasの正面玄関へ向かった。
玄関前まで来る。
すると。
扉の前に立っていた制服姿のスタッフが、自然な動作で扉を開いた。
「いらっしゃいませ」
アラタは反射的に頭を下げた。
「どうも」
そして直後、
自分で自分に突っ込む。
(何で客なのに俺まで頭下げてんだ)
完全に職業病だった。
ロビーへ入る。
「……すげえ」
広い。
天井がとてつもなく高い。
巨大なシャンデリアのような照明。
磨き上げられた床。
中央には噴水。
そこを色とりどりの魚のような生き物が空中遊泳している。
壁面には巨大な絵画。
いくつものソファ。
奥にはレストランらしき空間。
右側にはフロントカウンター。
そして。
大量の宿泊客。
角のある客。
翼のある客。
小さな妖精のような客。
巨大な身体を持つ客。
それぞれにスタッフが対応している。
「…………」
アラタは思わず観察していた。
ホテルマンとして。
チェックイン。
荷物預かり。
館内案内。
ベルスタッフらしい者が荷物を運んでいる。
フロントスタッフが客に何かを書いてもらっている。
(宿泊登録か)
現実世界のホテルでは、
宿泊客に氏名など必要事項を記入してもらうことがある。
一般的には、
レジストレーションカード
などと呼ばれる宿泊登録票だ。
もちろんホテルによって形式や呼び方は異なる。
だが。
(異世界でもやってることは似てるんだな……)
少しだけ安心した。
同時に。
胸の奥が妙な感覚になる。
懐かしい。
いや。
違う。
ついこの前まで嫌で仕方なかった光景だ。
アラタはフロントへ向かった。
「いらっしゃいませ」
スタッフが笑顔を向ける。
やはり人間ではない。
しかし接客の姿勢は、
驚くほど自分の知っているホテルスタッフと同じだった。
「本日はご宿泊でございますか?」
「あ……はい。というか」
言いにくい。
「予約はないんですけど」
「承知いたしました」
スタッフは嫌な顔一つしなかった。
「空室状況を確認いたしますので、少々お待ちくださいませ」
「…………」
完璧だ。
思わず採点しそうになる。
予約を持たずに直接ホテルを訪れ、その場で宿泊を希望する客。
ホテル業界では、
ウォークイン
と呼ばれることがある。
つまり現在の自分は、
異世界から来た――ではなく、
現実世界から来た無一文のウォークイン客。
(最悪の客じゃねえか、俺)
スタッフが端末らしきものを操作する。
ただし。
パソコンではない。
透明な板に文字が浮かんでいる。
魔法だろうか。
「お待たせいたしました」
「はい」
「本日はまだお部屋をご用意できます」
「本当ですか?」
助かった。
「ありがとうございます」
ホテルマン時代の癖で、妙に丁寧になる。
「それで……料金なんですけど」
提示された金額を見る。
読める。
意味も分かる。
だが。
「…………」
持っていない。
一枚も。
「……あの」
「はい」
「非常に申し上げにくいんですが」
人生で何度も聞いた言葉だった。
そして。
ホテルマン時代、
その後に良い話が続いたことはほとんどない。
まさか自分が言う側になるとは。
「私……」
ポケットを探るふりをする。
何もない。
「お金を持っていなくてですね」
スタッフの笑顔が、
ほんの少しだけ固まった。
当然である。
「…………」
「…………」
気まずい沈黙。
「いや、払う気がないとかじゃなくて」
アラタは慌てた。
「事情がありまして。今日、森の中で目を覚まして、ここがどこなのかも分からなくて、気づいたらこの街にいて」
説明すればするほど怪しい。
スタッフの表情が困惑していく。
「それで宿を探していたんですが、お金もなくて……」
「お客様」
「はい」
「大変申し上げにくいのですが――」
分かっている。
当然だ。
ホテルは慈善施設ではない。
部屋を提供する以上、料金を受け取らなければならない。
アラタ自身、
同じような場面で宿泊を断った経験がある。
だから。
「ですよね」
アラタは苦笑した。
「すみません。無茶言いました」
頭を下げる。
「失礼しました」
背を向ける。
仕方ない。
他を探そう。
最悪、
街のどこかで夜を明かすしかない。
森よりはマシだ。
そう思って歩き出したとき。
「――少々お待ちください」
声がした。
低く。
よく通る声。
ホテルマンなら、
一度聞いただけで分かる。
客前で声を荒らげる必要がない者の声。
自分の言葉一つで、
その場の空気を変えられる人間――。
いや。
この世界では人間とは限らない。
アラタが振り返る。
ロビーの奥から、
一人の男が歩いてきた。
上質な制服。
完璧に整えられた身なり。
背筋を伸ばした堂々たる歩き方。
その容姿には、
明らかに人間とは異なる特徴がある。
だが。
アラタが最初に感じたのは、
種族の違いではなかった。
(……偉い人だ)
一発で分かった。
ホテルで長く働いていれば、
役職者特有の雰囲気というものが分かる。
男がアラタの前で止まった。
そして。
穏やかに微笑んだ。
「お客様」
「はい」
「当ホテルへお越しいただいたお客様を、日没後に行き先もなく外へお返しするわけにはまいりません」
フロントスタッフが驚いたように男を見る。
「ですが――」
男は軽く手を上げる。
それだけで、
スタッフは口を閉じた。
「事情は私がお伺いいたしましょう」
そして男は、
アラタへ向き直った。
右手を胸に添え、
ホテルマンらしい美しい角度で一礼する。
「ご挨拶が遅れました」
アラタも、
反射的に姿勢を正した。
男は名乗った。
「Hotel Aequitas 総支配人――」
一拍。
「ブラッドリー・シュチュワードと申します」
「…………総支配人」
アラタの顔が引きつる。
よりによって。
ホテルに無一文で飛び込んだ初日に、
総支配人登場。
現実世界なら胃が痛くなる状況だ。
「アラタ・ナナサキです」
名乗り返す。
ブラッドリーは微笑んだ。
そして。
アラタの顔をじっと見た。
一秒。
二秒。
三秒。
笑顔が、
ほんのわずかに変わった。
「……なるほど」
「?」
ブラッドリーが呟く。
「これはまた……」
アラタには聞き取れなかった。
「何か?」
「いいえ」
ブラッドリーは首を横に振る。
その視線は、
明らかにアラタの何かを見抜いている。
「ナナサキ様」
「はい」
「一つだけ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
ブラッドリーは言った。
「あなたは――」
ロビーのざわめきが、
妙に遠く感じられた。
「何という種族でいらっしゃいますか?」
「…………」
アラタは固まった。
そうだ。
自分から見れば、
この世界の住人が異世界人。
だが。
彼らから見れば。
異世界人は――。
「……人間です」
アラタは答えた。
ブラッドリーの表情が止まった。
フロントスタッフも固まった。
近くにいた者が、
こちらを振り返った。
「…………」
「…………」
アラタは不安になった。
「あの」
ブラッドリーは、
ゆっくりと聞き返した。
「今……何と?」
「人間です」
もう一度答える。
「ヒューマン。人間」
沈黙。
そして。
ブラッドリーは、
初めて接客用の表情を崩した。
ほんの少しだけ。
驚いたように目を見開く。
「人間……」
その言葉を、
確かめるように呟いた。
アラタは気づかなかった。
このとき。
Hotel Aequitasの歴史に、
小さな変化が生まれたことを。
そして。
ホテルマンという仕事から逃げようとしていた男が。
この世界で、
再びホテルマンとして生きることになることを。
まだ。
アラタは何も知らない。
このホテルに宿泊する、
奇妙で。
面倒で。
時に恐ろしく。
そして、
どこか愛すべき客たちのことも。
このホテルを守る者たちのことも。
Hotel Aequitasという名前に込められた意味も。
何一つ。
ただ一つ確かなことがあるとすれば。
この日。
異世界で唯一の人間が、
一軒のホテルの扉をくぐった。
すべては、
そこから始まった。
ブラッドリー・シュチュワードは、
再び総支配人としての穏やかな微笑みを浮かべる。
そしてアラタへ、
静かに告げた。
「詳しいお話をお伺いいたしましょう」
一礼。
「改めまして――」
巨大なHotel Aequitasのロビーを背に。
総支配人は言った。
「ようこそ、Hotel Aequitasへ」
――第1話 完




