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ようこそ、異世界ホテル"Aequitas"へ  作者: 嘯江 新(ウソブエ シン)


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10/14

第10話「転生ホテルマン、異世界初のチェックイン」

「――一軒の、壊れかけた宿?」


思わず聞き返した私に、黒衣の客は小さく頷いた。


窓の向こうには、二つの月に照らされたフレーレオの街並み。


そして、その遥か下に広がるHotel Aequitasの敷地。


今では大都市フレーレオを代表するほど巨大なホテルが、かつては雨漏りするような小さな宿だった。


……いやいや。


規模感が違いすぎる。


「そこから、これになったんですか?」


私は両手を広げた。


豪華な客室。


巨大なロビー。


複数の飲食施設。


多種族に対応した特殊客室。


何人――いや、この世界で“何人”と数えていいのか微妙だけれど、とにかく大勢のスタッフ。


その始まりが、廃屋同然の宿?


「長い年月があった」


黒衣の客は淡々と答える。


「長いにも限度がありません?」


「お前たち人間は、何でも急ぎすぎる」


「私の寿命、たぶんあなたほど長くないので」


「知っている」


即答された。


「……何となく傷つくな」


黒衣の客の口元が、ほんの少しだけ動く。


最近分かってきた。


この人。


結構笑う。


表面上は無愛想なのに、意外とこちらの冗談に反応する。


「その宿が、どうしてホテルになったんです?」


「今日はそこまでだ」


「またですか」


「まただ」


「焦らしますねえ」


「客に続きを要求するホテルマンがいるか」


「……正論」


言い返せない。


私は仕方なくトレイを持ち上げた。


その上には、すっかり定番になった月蜜のホットドリンク。


ちなみに夜露酒は今日も置いてある。


ほとんど減っていない。


「では、続きはまた今度ということで」


「ああ」


「おやすみなさいませ」


「アラタ」


扉に手をかけたところで呼び止められる。


「はい?」


「明日は」


黒衣の客が窓の外を見たまま言った。


「忙しいぞ」


「……何で知ってるんです?」


「このホテルに泊まっていれば分かる」


嫌な予言をされてしまった。


「そういうこと言わないでくださいよ」


「なぜだ」


「ホテルマンにとって“明日は忙しい”って、ほぼ呪いなんですよ」


黒衣の客は、少し考えてから。


「では、健闘を祈る」


「そこは撤回してください!」


扉を閉める直前。


確かに。


笑い声が聞こえた。


「……絶対楽しんでるな、あの人」


私は廊下で小さくため息をついた。


そして。


翌朝。


その予言が見事に当たることになる。



「本日、満室です」


「帰っていいですか?」


「駄目です」


朝一番。


フロントバックでナナリー・ヘイズワッドから告げられた言葉に、私は反射的に逃走を試みた。


もちろん失敗した。


「冗談です」


「顔が本気でした」


「気のせいです」


「目が非常口を探していました」


「観察力高いですね、副支配人」


「ありがとうございます」


褒めてない。


目の前の魔導端末には、びっしりと宿泊情報が並んでいる。


本日の到着。


大量。


出発。


大量。


滞在中。


大量。


客室。


ほぼ全部使用。


見事だ。


ホテルマンが見れば一瞬で胃が重くなる画面である。


「満室……」


私は改めて呟いた。


ホテル業界では、その名の通り客室がすべて埋まっている状態を満室と呼ぶ。


英語なら“Full House”や“Sold Out”など、ホテルやシステムによって表現は様々だ。


問題なのは。


満室というのは単に「儲かって嬉しい!」だけではないことだ。


「つまり今日は」


私は指を折る。


「部屋交換の余裕がほぼない」


「はい」


「客室トラブルが起きても代替室が少ない」


「はい」


「到着が集中したらフロントが混む」


「はい」


「チェックアウト遅れたら清掃が詰まる」


「はい」


「早着が重なれば……」


私は頭を抱えた。


「地獄ですね」


「言葉を選んでください」


「繁忙ですね」


「よろしい」


言い換えただけで現実は何も変わらない。


その横でサンディー・エドワーズが楽しそうに笑っている。


「いい経験になるな」


「何でそんな嬉しそうなんですか」


「新人が忙しい日に当たるの、面白いだろ」


「支配人が言っていい台詞じゃないですよ!」


「大丈夫だって」


サンディーが私の肩を軽く叩いた。


「今日はお前にもチェックインをやってもらう」


「…………はい?」


聞き間違いだろう。


そう思った。


「チェックイン」


「いや、聞こえてました」


「じゃあ何?」


「研修一週間も経ってませんよね?」


「経験者だろ?」


「異世界ホテルは未経験です!」


私は端末を指差す。


「種族ごとに部屋違う! 魔法ある! 通貨まだ怪しい! 客の身体構造も違う!」


「敬語は?」


「できます」


「客を見るのは?」


「一応」


「笑顔は?」


「……できます」


サンディーがニッと笑った。


「じゃあいける」


「その判断基準やめません!?」


ナナリーが横から口を挟む。


「もちろん一人では対応させません」


「ですよね!」


よかった。


「私が横につきます」


「……ナナリーさん?」


「はい」


「それはそれで緊張するんですけど」


「なぜです?」


「採点されてる感じがすごいからです」


「実際、評価します」


「帰っていいですか?」


「駄目です」


二回目だった。



午後三時。


Hotel Aequitas。


正面ロビー。


私は。


戦場を見た。


「……うわぁ」


思わず声が漏れる。


宿泊客。


宿泊客。


宿泊客。


正面玄関から次々と入ってくる。


翼。


角。


鱗。


毛。


尾。


浮いている。


歩いている。


四足。


二足。


そもそも足がない。


多種多様。


そして全員。


今日、泊まる。


「これ全部……?」


「到着予定の一部です」


横のナナリーが淡々と言う。


「一部!?」


「声を抑えてください」


「はい」


私は姿勢を正した。


ホテルでは。


一般にチェックアウトが午前から昼頃。


チェックインが午後からというところが多い。


そのため、夕方前後には到着客が集中することがある。


いわゆる。


チェックインラッシュ。


私の以前の職場でもあった。


ただ。


こちらの世界のチェックインラッシュは。


見た目の圧がすごい。


「ナナサキ」


「はい!」


「緊張しています?」


「してません」


「手が震えています」


見られた。


「武者震いです」


「ホテルマンは戦士ではありません」


「今日に関しては似たようなものです」


フロントカウンター。


一つ。


空く。


ナナリーが私を見る。


「では」


「……はい」


「お願いします」


来た。


私はカウンターへ入る。


深呼吸。


大丈夫。


チェックインだ。


何百回も。


何千回も。


やってきた。


世界が変わっても。


基本は同じ。


予約確認。


宿泊内容。


登録。


案内。


鍵。


説明。


笑顔。


「次のお客様、どうぞ」


スタッフの案内。


やってきたのは。


小柄な女性客だった。


体格は私の胸あたりまで。


長い耳。


小さな角。


そして。


背中から透明な羽が四枚。


(妖精……みたいな種族かな)


いや。


勝手に判断するな。


研修で習った。


見た目だけで種族を決めつけるのは危険。


私は笑顔を作る。


「いらっしゃいませ」


自然に声が出た。


「Hotel Aequitasへようこそお越しくださいました」


女性客が私を見る。


ぱちぱち。


目を瞬く。


「…………」


「?」


「あなた」


「はい」


「何?」


来た。


もはや定番。


「従業員です」


「そうじゃなくて!」


ちょっと笑われた。


「種族?」


「ああ」


私は苦笑する。


「人間と申します」


「ニンゲン?」


やっぱり知らない。


女性客が。


ぐっと。


顔を近づけてきた。


「近っ!」


思わず一歩下がる。


「耳丸い!」


「よく言われます」


「角ない!」


「ないですね」


「羽もない!」


「飛べません」


「尻尾は!?」


「ないです!」


後ろ。


ナナリー。


無表情。


でも分かる。


絶対。


面白がってる。


「お客様」


私は咳払いした。


「恐れ入りますが、まずご宿泊のお手続きを」


「あ、ごめんなさい」


素直。


「予約してる」


「ありがとうございます。お名前を頂戴してもよろしいでしょうか」


名前を確認。


端末。


出た。


予約あり。


一泊。


一名。


食事あり。


客室。


飛翔種対応。


適正高度――。


「…………」


適正高度?


知らない項目がある。


背後。


ナナリーが小声。


「高層階を好む種族です」


「ああ」


私は頷く。


「失礼いたしました」


予約を見る。


高層階指定。


翼幅。


小。


食事。


花蜜類不可。


(なるほど)


「ご予約を確認いたしました」


私は登録用の魔導板を出す。


「こちらへ必要事項のご記入をお願いいたします」


「はーい」


客が書く。


私は確認。


名前。


出身。


連絡先。


問題なし。


「ありがとうございます」


次。


支払い。


ここが怖い。


異世界通貨。


だが。


今日は事前決済。


助かった。


神様ありがとう。


……いや。


この世界で神様に頼むと、本当に何か来そうだからやめよう。


「ご料金につきましては、すでに頂戴しております」


「うん」


「お部屋は二十一階でご用意しております」


「二十一!」


女性客の羽が。


ぱっと開く。


「高い!」


嬉しそう。


よかった。


「眺望の良いお部屋でございます」


「やった!」


その反応に。


私も少し嬉しくなる。


そして。


ルームキー。


魔力紋付き。


「こちらがお部屋の鍵でございます」


客が触れる。


結晶が光る。


登録完了。


「朝食は二階のレストランにて――」


説明。


館内。


食事。


非常時。


飛翔可能区域。


飛行禁止区域。


ここだけ。


異世界。


「なお、館内ロビー上空での飛行はご遠慮ください」


「えー」


「安全上の理由でございます」


「ちょっとだけ?」


「駄目です」


「お願い」


「駄目です」


「人間、固い!」


「ホテルマンなので」


女性客が笑った。


「分かった」


そして。


鍵を受け取る。


「ありがとう、ニンゲンさん」


私は笑う。


「アラタです」


「アラタ」


「はい」


「じゃあ、ありがとう。アラタ!」


明るく手を振り。


客は離れていった。


私は。


「…………」


しばらく。


その背中を見ていた。


「ナナサキ」


ナナリー。


「はい」


「お客様を見送り続けず、次を」


「……はい!」


現実は早い。



二組目。


大型種。


低温希望。


無事。


三組目。


翼あり。


二名。


無事。


四組目。


「予約が見つかりません」


詰んだ。


目の前には。


ご高齢に見える宿泊客。


小さな杖。


背中には甲羅のような硬質部分。


そして。


非常に穏やかな顔。


「予約したはずなんだがねぇ」


「少々お待ちくださいませ」


私は端末を見る。


名前。


ない。


別表記。


ない。


同行者。


なし。


予約番号。


持っていない。


後ろ。


ナナリー。


私は小声で。


「どうします?」


「あなたなら?」


試験か。


今!?


私は考える。


まず。


客に予約がないと言い切らない。


ホテル側の検索ミスの可能性。


代理予約。


名前違い。


手配会社。


日付違い。


色々ある。


「お客様」


私は顔を上げる。


「恐れ入ります。ご予約はどちらからお取りいただきましたでしょうか」


「旅商組合だよ」


組合。


私は端末。


予約経路。


検索。


あった。


別名義。


「……あ」


商会名。


個人名ではない。


「大変お待たせいたしました」


私は笑顔を戻す。


「ご予約を確認できました」


「おお、よかった」


客が笑う。


私の肩から力が抜ける。


危ない。


「こちらは旅商組合様のお名前でご予約が入っておりました」


「そうかそうか」


「ご心配をおかけいたしました」


「いやいや。見つかればいいんだよ」


優しい。


ありがたい。


本当に。


チェックインを続ける。


だが。


客室情報を見て。


私は止まる。


二十階。


標準室。


ん?


種族情報。


甲殻族。


階段移動困難。


高所不安あり。


「…………」


部屋。


合ってない。


私はナナリーを見る。


ナナリーも気づいている。


だが何も言わない。


自分でやれということか。


客室状況。


満室。


空き。


ほぼなし。


だが。


到着前客室。


低層階。


一室。


客室タイプは同等。


ただし。


現在。


清掃最終確認待ち。


「お客様」


「ん?」


「一点、確認させていただいてもよろしいでしょうか」


「何だい?」


「高い場所は、お得意でしょうか」


老人客が。


顔をしかめた。


「いやあ」


杖を握る。


「できれば低い方がありがたいね」


やっぱり。


「少々お待ちいただけますか」


「もちろん」


私はナナリーを見る。


「五階の508」


「インスペクション待ちです」


「どれくらい?」


「確認します」


ナナリーが別スタッフへ連絡。


数秒。


「五分ほど」


五分。


私は客を見る。


立って待つのは辛そう。


「お客様」


「はい?」


「お部屋の最終確認に少々お時間を頂戴いたします」


「そうかい」


「よろしければ」


ロビーのソファを示す。


「お掛けになってお待ちいただけますか。準備が整い次第、私がお声掛けいたします」


老人客が。


少し驚く。


「わざわざ?」


「はい」


「ありがとう」


ベルスタッフへ。


荷物一時預かり。


座席案内。


飲み物。


私はフロントへ戻る。


ナナリーが。


「なぜ部屋を変えたのです?」


「予約情報に高所不安って」


「はい」


「二十階はきついかなと」


「満室ですよ」


「だから同じタイプの五階」


「インスペクション前でした」


「待ってもらいました」


ナナリーが。


少しだけ。


目を細める。


「正解です」


「…………」


よし!


心の中でガッツポーズ。


表には出さない。


ホテルマンだから。


「ただし」


「はい」


「判断前に、必ず客室担当へ確認してください」


「……はい」


一瞬で落とされた。



チェックインラッシュ。


続く。


一時間。


二時間。


私は。


笑顔。


案内。


確認。


謝罪。


説明。


確認。


また笑顔。


喉が乾く。


脚が痛い。


頭が回らない。


「アラタ」


サンディーが通りすがり。


「生きてる?」


「ギリギリです」


「いい顔してる」


「どこが!」


「ホテルマンの顔」


「褒め言葉に聞こえません!」


サンディーは笑いながら去る。


そのとき。


フロントの別端。


声が上がった。


「そんなはずはない!」


宿泊客。


若い男性。


角。


濃い青色の皮膚。


荷物。


二つ。


スタッフが。


困っている。


「申し訳ございません」


「予約している!」


私は視線を向ける。


ナナリーも。


「行きます」


二人で近づく。


スタッフが説明。


予約。


確かにある。


問題は。


客室。


「……オーバーブッキング?」


私は小声。


ナナリーが。


ほんの少し表情を硬くする。


嫌な言葉。


ホテル業界。


オーバーブッキング。


ホテルが保有する客室数を超えて予約を受けてしまっている状態。


キャンセルやノーショーを見込んで意図的に行う場合もあれば。


システム。


連携。


予約処理。


様々な要因で発生することもある。


だが。


お客様側から見れば。


「予約したのに部屋がない」。


最悪だ。


「原因は?」


ナナリー。


スタッフが小声。


「客室設備故障で二室販売停止になりました」


なるほど。


予約超過ではなく。


今日になって売れる部屋が減った。


結果的な。


実質オーバーブッキング。


しかも。


満室。


「どうすんだ……」


私の背中に。


嫌な汗。


宿泊客は。


怒っている。


当然。


「一月前から予約している!」


「はい」


「今日ここで重要な商談があるんだ!」


「申し訳ございません」


スタッフ。


謝る。


でも。


部屋は。


増えない。


「ナナサキ」


ナナリーが小声。


「見ていてください」


ここは。


自分ではない。


管理職対応。


ナナリーが前へ。


「お客様」


声。


落ち着いている。


「副支配人のナナリー・ヘイズワッドでございます」


男が睨む。


「責任者か」


「はい」


まず。


謝罪。


事情。


説明。


言い訳にならないよう。


短く。


そして。


「現在、代替となる客室を確認しております」


「ないんだろ!」


「当ホテル内では」


一拍。


「現時点でご用意できません」


言い切った。


私は。


少し驚く。


ごまかさない。


ないものは。


ない。


客の怒りが上がる。


「ならどうする!」


ナナリーは。


視線を逸らさない。


「近隣の提携宿泊施設へ」


「ふざけるな!」


声。


大きい。


周囲の客が見る。


「私はAequitasを予約したんだ!」


「承知しております」


「なら部屋を出せ!」


無理だ。


でも。


それを。


客に理解してもらうのは。


難しい。


「商談」


私は。


ふと。


その言葉を思い出す。


今日ここで。


重要な商談。


宿泊そのものより。


目的。


私は。


一歩。


ナナリーを見る。


視線。


一瞬。


交わる。


「……何か?」


小声。


「商談」


私は言う。


「会場、このホテルなんですよね」


ナナリーの目が。


変わる。


客へ。


「恐れ入ります」


私が話しかける。


男が。


苛立った顔。


「何だ」


「お客様は、本日こちらでお仕事のお約束が?」


「ああ!」


「何時からでしょうか」


「一刻後だ!」


一刻。


この世界の時間単位。


およそ。


余裕がない。


「お着替えや準備は?」


「するに決まってるだろ!」


「……」


私は。


ナナリーを見る。


「デイユースできる部屋」


「満室です」


「宴会控室」


ナナリーが。


止まる。


「一室あります」


「シャワー?」


「簡易浴室付き」


「使えません?」


ナナリーの目が。


鋭くなる。


数秒。


考える。


そして。


「確認します」


サンディーも合流。


事情。


共有。


数分後。


提案。


まず。


商談前。


Hotel Aequitas内の控室を。


無料で利用。


着替え。


身支度。


荷物保管。


商談終了後。


提携ホテルへ移動。


送迎。


宿泊料金差額。


Hotel Aequitas負担。


さらに。


翌日。


客室が空き次第。


希望があればAequitasへ移動。


完璧ではない。


予約した部屋を。


提供できない以上。


完璧な解決などない。


でも。


客が今日。


最も必要としているもの。


商談を。


無事に迎えること。


そこを。


まず守る。


ナナリーが。


説明する。


男は。


まだ怒っている。


当然。


それでも。


「……商談前まで使えるんだな?」


「はい」


「荷物は」


「責任を持ってお預かりいたします」


「終わったら?」


「私どもで移動のお手配をいたします」


長い沈黙。


「…………分かった」


男は。


完全には納得していない。


でも。


頷いた。


「今回はそれでいい」


ナナリーが。


深く一礼する。


「ご不便をおかけし、誠に申し訳ございません」


客が。


ベルスタッフと共に移動。


私は。


大きく。


息を吐きそうになる。


だが。


客前。


我慢。


バックヤードへ入った瞬間。


「はぁぁぁぁ……!」


壁にもたれた。


「心臓に悪い!」


サンディーが笑う。


「ホテルだな」


「嫌な意味で!」


ナナリーは。


端末へ報告を入力している。


「ナナサキ」


「はい」


「先ほどの提案」


「……はい」


「良かったです」


一瞬。


止まる。


「え?」


「お客様の宿泊だけではなく」


ナナリーが言う。


「滞在目的を見た」


私は。


さっきの男を思い出す。


商談。


「……昨日まで」


私は呟く。


「ホテルは部屋を売る仕事だと思ってました」


「違いますか?」


「いや」


少し考える。


「部屋は売るんですけど」


「はい」


「客は」


一拍。


「部屋に泊まるためだけにホテルへ来るわけじゃない」


ナナリーが。


黙って聞く。


「仕事」


「……」


「旅行」


「……」


「記念日」


「……」


「誰かに会うため」


「……」


「休むため」


そして。


「その目的の途中に」


Hotel Aequitasのロビーを見る。


「ホテルがある」


ナナリーが。


ほんの少し。


微笑んだ。


「それを忘れなければ」


「はい」


「良いホテルマンになれると思います」


「…………」


私は。


顔をしかめた。


「何です?」


「ブラッドリーさんみたいなこと言うなあと思って」


ナナリーの笑顔が。


消えた。


「今の評価は撤回します」


「早い!」



夜。


ようやく。


チェックインラッシュ終了。


私は。


フロントバックの椅子に。


ぐったり座っていた。


「動けない……」


足。


痛い。


喉。


乾いた。


頭。


限界。


昔。


何度も経験した。


この感覚。


繁忙日の。


業務終了。


「あー……」


天井を見る。


ホテル。


辞めたかった。


接客。


疲れていた。


もう。


客の顔なんて。


見たくなかった。


なのに。


今日。


私は。


何人の客を見ただろう。


初めてチェックインした。


あの翼の客。


高い階を喜んでいた。


甲殻の老人。


低層階。


無事に部屋へ入れた。


商談の客。


怒っていた。


当然だった。


私は。


何度も。


頭を下げた。


何度も。


考えた。


何度も。


客を見た。


「……疲れた」


本当に。


疲れた。


でも。


何だろう。


以前のホテル勤務を終えた時の疲れ方と。


少し。


違う。


「お疲れ」


声。


サンディー。


飲み物を。


私の前へ置く。


「ありがとうございます」


一口。


「……生き返る」


「今日、どうだった」


「地獄」


「即答か」


「満室日に新人へチェックインさせるホテルがあります?」


「ここ」


「知ってます!」


サンディーが笑う。


私は。


少し。


笑う。


「でも」


「うん?」


「……嫌じゃなかった」


言った。


自分で。


驚く。


サンディーは。


何も言わない。


私は。


カップを見る。


「疲れましたよ」


「うん」


「大変だったし」


「うん」


「怒られたし」


「うん」


「分かんないことばっかりだし」


「うん」


「でも」


少しだけ。


口元が緩む。


「最初のお客さん」


「うん」


「部屋の階、喜んでくれたんですよ」


「見てた」


「老人の方も」


「うん」


「最後、ありがとうって」


「うん」


「それで」


言葉が。


止まる。


昔。


あった。


ホテルマンになったばかりの頃。


客から。


ありがとう。


そう言われるだけで。


嬉しかった。


いつから。


忘れたんだろう。


「……サンディーさん」


「何?」


「私」


一拍。


「ホテル嫌いだったんですかね」


支配人は。


すぐには答えなかった。


「知らない」


「そこは良いこと言うところじゃないですか?」


「本人にも分からないこと」


サンディーは笑う。


「俺が分かるわけないだろ」


「……まあ」


そうだ。


「でも」


サンディーが。


立ち上がる。


「明日も来るんだろ?」


「勤務ですから」


「なら」


一拍。


「まだ答え出さなくていいんじゃない?」


私は。


少しだけ。


目を細めた。


「……ですね」


ホテルマンが。


嫌いなのか。


接客が。


嫌いなのか。


それとも。


疲れて。


好きだったものまで。


嫌いだと思い込んだのか。


今は。


分からない。


なら。


もう少し。


ここにいてもいい。


そんな気がした。



「――と言うわけで、死にました」


その夜。


黒衣の客の部屋。


月蜜のホットドリンクを置きながら。


私は今日の話をした。


「死んでいない」


「比喩です」


「人間は大袈裟だな」


「満室日のチェックインラッシュ体験してから言ってください」


「私は客だ」


「強い」


正論。


黒衣の客が。


カップへ口をつける。


「初めて客を受けたのか」


「こっちの世界では」


「どうだった」


「疲れました」


「それだけか」


私は。


少し考える。


「……楽しかったです」


口にした瞬間。


また。


胸が。


少しだけ。


ざわつく。


黒衣の客は。


何も言わない。


「何です?」


「いや」


「笑いました?」


「笑っていない」


「絶対笑った」


「気のせいだ」


このホテル。


誤魔化す人多くない?


「そういえば」


私は。


昨日の話を思い出す。


「Hotel Aequitasの始まり」


黒衣の客の手が。


少し止まる。


「壊れかけた宿だった」


「そうだ」


「敵同士を泊めた」


「ああ」


「それで」


私は。


椅子の背に軽く手を置く。


「次は?」


「何が」


「続き」


「……」


「話してくれるんじゃ?」


「いつ言った」


「言ってませんけど」


「なら駄目だ」


「ケチ」


「客に向かって言う言葉か」


「失礼しました」


頭を下げる。


自分でも。


切り替えが早くなったと思う。


黒衣の客は。


少しだけ。


沈黙した。


「アラタ」


「はい」


「今日」


「はい」


「どれほどの客を見た」


「え?」


突然の質問。


「何十人か」


「種族は」


「色々」


「敵はいたか」


私は。


止まる。


意味を。


考える。


今日。


いろんな客が来た。


大きい。


小さい。


翼。


角。


甲殻。


文化も違う。


怒った客もいた。


困らされた。


でも。


「……いません」


私は答えた。


「全員」


一拍。


「お客様でした」


黒衣の客は。


少しだけ。


目を細めた。


「なら」


「?」


「少しは」


月蜜を一口。


「このホテルを理解し始めたな」


私は。


何も言わない。


ただ。


少しだけ。


嬉しかった。


「じゃあ続きを」


「調子に乗るな」


「駄目か」


そのとき。


コンコン。


客室の扉。


「?」


私は振り返る。


この時間。


誰だ。


黒衣の客も。


視線を向ける。


「失礼いたします」


扉の向こう。


ブラッドリーの声。


私が。


「珍しい」


黒衣の客は。


無言。


扉を開ける。


ブラッドリー。


いつもの。


穏やかな表情。


ただし。


その手には。


一通の封書。


黒い封蝋。


そして。


Hotel Aequitasの紋章とは違う。


古い。


天秤の印。


「ナナサキ」


ブラッドリーが。


私を見る。


「ちょうど良かった」


「何です?」


ブラッドリーは。


封書を見せる。


「これが」


一拍。


「先ほど」


「はい」


「ホテルの地下保管庫から発見されました」


黒衣の客が。


立ち上がった。


初めて。


明らかな動揺。


「それを」


低い声。


ブラッドリーが。


黒衣の客を見る。


「ご存じなのですね」


沈黙。


私は。


封蝋を見る。


天秤。


Hotel Aequitas。


だが。


現在の紋章とは。


少し違う。


「何なんです?」


ブラッドリーが。


静かに答える。


「Hotel Aequitas最古の記録の一つです」


「……最古?」


「そして」


封書の裏。


そこには。


見覚えのある。


いや。


この世界では。


一度も見たことがない文字。


なのに。


私は。


読めた。


『To the next keeper of this inn.』


私は。


息を止める。


英語。


現実世界の。


文字。


「…………」


ブラッドリーが。


私を見る。


「ナナサキ」


「はい」


「読めますか」


私は。


封書から。


目を離せない。


「読めます」


声が。


少し震える。


黒衣の客の表情が。


ローブの奥で。


完全に変わった。


「ありえない……」


初めて聞いた。


動揺した声。


私は。


もう一度。


封書を見る。


そして。


ゆっくり。


日本語へ。


訳した。


「――“この宿を、次に守る者へ”」


誰も。


話さない。


Hotel Aequitas。


その起源。


かつて。


この世界にいた人間。


そして。


現実世界の文字で。


残された。


一通の手紙。


私はまだ。


知らなかった。


自分がこの世界へ来てから。


初めて。


“こちらからではなく”


自分の世界の側から。


痕跡を見つけたということを。


Hotel Aequitasの歴史は。


遠い昔。


確かに。


人間と繋がっていた。


――第10話 完

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