第三章 風の先
春の手前の風には、目で追えない順番があるのかもしれない。
海が先に変わる日もあれば、空の高さが先に変わる日もある。
草はまだ冬の色なのに、頬に当たる冷たさだけがどこか開いていることもある。
人はふつう、咲いた花や明るくなった水面のような“見える変化”で季節を知ったつもりになる。
だが岬に立っていると、見えるものより前に来る変化のほうがずっと深いのではないかと思うことがある。
風の先。
第十一作で湊が見ようとしているのは、まさにその、まだ形になっていない変化の順番なのだろうと感じ始めていた。
岬から戻ったその午後、篠原の案内で三人は港の外れに住む老漁師、矢吹恒一を訪ねた。
若いころ、春先の風を読みながら船の出入りを見ていた男だという。
家は岬へ向かう道とは別の、海に近い低い場所にあった。
庭先には使い込まれた浮きや網の重りが並び、壁には色褪せた雨具が掛けられている。
港の道具はどれも、春口では生活の気配を強く持つ。
観光用の飾りになりにくい。
それがこの町らしいと湊は思った。
矢吹は七十をいくつも越えているはずだが、声にはまだ海の張りが残っていた。
背は少し曲がっている。
けれど、人の顔を見るより先に風の入り方を見ているような目をしている。
瀬尾が遠くを見、繁江が灯りを見、藤堂が足取りを見、澄江が手や息を見ていたのだとすれば、矢吹は“来る前の変化”を見る人なのだろう。
「岬の風か」
矢吹は囲炉裏の脇に腰を下ろしながら言った。
「ええ」
篠原が答える。
「第六作では、見届ける場所として見ました」
「ふむ」
「今回は、その先です」
「春の手前やな」
「はい」
矢吹は、その言葉にだけすぐ頷いた。
説明はいらないのだろう。
海辺で長く季節を見てきた人にとって、“春の手前”とはそれだけで分かる時間なのかもしれなかった。
「春はな」
矢吹が言う。
「海の色より先に風や」
「やはり」
湊が言う。
「ええ。手帳にもありました」
「色はあとや」
矢吹は続けた。
「水はまだ冬の顔しとるのに、風だけ抜ける日がある」
「抜ける」
汐里が小さく繰り返す。
「そうや。冬の風は押してくる」
「ええ」
「春の手前の風は、押すいうより通る」
「……」
「人の頬の横を、ひと足先に通っていく」
その表現に、湊は岬で受けた風の感触をすぐ思い出した。
閉じる冷たさではなく、開いていく冷たさ。
たしかに、あれは“通る”風だった。
こちらを押し返すのではなく、こちらの中をひと足先に抜けていく。
第十一作の岬は、その風のための場所なのだろう。
「それを」
汐里が訊いた。
「どうやって知るんですか」
「知るいうてもな」
矢吹は少し笑った。
「海の仕事しとったら、嫌でも分かる」
「……」
「港で立ってても分かる日もあるが」
「ええ」
「岬へ行くと、もっとはっきり分かる」
「どうして」
「遮るもんが少ないからや」
「風が」
「そのまま来る」
「そうですね」
篠原が静かに頷く。
「第六作の岬は、町全体を見る場所でした」
「うん」
「第十一作では」
「町を越えて、先に来る風を受ける場所になる」
「その通りや」
そのとき、矢吹は壁に立てかけてあった双眼鏡を取り、卓の上に置いた。
古いが手入れはされている。
もう頻繁には使わないのだろうが、捨てることもできない道具なのだと思えた。
「見張りいうても」
彼が言う。
「船を見とるだけやない」
「風を見る」
湊が言うと、矢吹は頷く。
「風と、その日の海の機嫌や」
「ええ」
「けどな、春の手前はもう一つある」
「何ですか」
「人の顔や」
その一言に、汐里の表情が少しだけ変わった。
春口のシリーズでは、いつも景色と人の顔がどこかで重なってきた。
今また、その結び目が現れたのだろう。
「岬へ行く人の?」
湊が訊く。
「そうや」
矢吹は答えた。
「冬の終わりの岬へ行く人はな」
「ええ」
「終わったことを見に行く顔だけやない」
「……」
「まだ何も来とらんのに、何かを受けに行く顔しとる人がいる」
「それが」
汐里が低く言う。
「母だったのかもしれません」
「かもしれんな」
矢吹はあっさり言った。
「女将さんはよう知らんが、そういう顔の人はおる」
「どんな顔ですか」
「うまく言えん」
彼は少し考え、それから言った。
「見とるようで、待っとる顔や」
「見ているようで」
湊が繰り返す。
「待っている」
「そうや。けど第十作みたいな“長くなる待ち”とも少し違う」
「どう違うんですか」
「もう立っとるからや」
「……」
「待合に座っとる待ちやなくて、立ったまま風の先を待っとる顔や」
その言葉に、第十作と第十一作の違いがくっきり現れた気がした。
待合の待ちは、立ち上がる順番を待つ待ち。
春浅き岬の待ちは、もう立ったあとで、風の先に来るものを待つ待ち。
場所は変わるが、時間の連なりとしては深くつながっているのだろう。
待合のあとに岬が来る理由が、ようやく身体の感覚としても分かり始めていた。
「父も」
湊が言った。
「そういう顔をしたことがあると思いますか」
矢吹はすぐには答えなかった。
囲炉裏の灰のほうを一度見て、それから静かに言う。
「その人を知らんから、はっきりは言えん」
「ええ」
「けど、遅れた人でも」
「……」
「岬まで来るなら、どこかでそういう顔になることはある」
「どういう意味で」
「遅れたままでも、風は来るからや」
「……」
「人の中が追いついとらんでも、外の季節は少し先へ行く」
「それでも」
湊は低く言う。
「立つんですね」
「立つやろ」
矢吹はあっさり答えた。
「立てるときに、立つ」
その言い方には、春口らしい静かな実感があった。
完璧な回復はない。
整理しきった未来もない。
それでも立てるときに立つ。
岬とは、そのための場所でもあるのかもしれなかった。
帰り際、矢吹は古い見張り小屋の話を少ししてくれた。
いまはもう使われていないが、岬の先に小さな小屋があり、春先にはそこで風を見ながらしばらく立つ人もいたのだという。
「座るんじゃなくて」
汐里が言う。
「ええ」
「立つんですか」
「春の手前はな」
矢吹は笑った。
「座るより、立っとるほうが風が分かる」
「……」
「待ついうても、もうそういう待ちやない」
「第十作のあとですね」
湊が言うと、矢吹はその意味までは知らずとも、何となく通じたように頷いた。
帰り道、岬のほうから来る風はやはり昨日より高く感じられた。
空気はまだ冷たい。
だが、頬に当たる高さが違う。
それだけで、人の中にある季節の順番まで少しずつ変わっていくのかもしれなかった。
「相沢さん」
汐里が歩きながら言う。
「はい」
「待合のあとに岬が来るの、分かってきました」
「どういう意味で」
「待合では、立ち上がる順番を待つ」
「ええ」
「岬では、立ったまま来るものの順番を待つ」
「……」
「似てるけど、違う」
「そうですね」
「母も、そこまで行ってたのかもしれません」
「かなり」
湊は答えた。
「そして今、僕たちもそこへ来ているのかもしれない」
「はい」
汐里は静かに頷いた。
その夜、ノートにはこう書いた。
――春の手前の風は、押すのではなく通る。
――岬では、見たいものより先にその風が身体へ来る。
――待合で立ち上がる順番を待ったあと、人は岬で、立ったまま来るものの順番を待つのかもしれない。
――父も澄江も、遅れや迷いを抱えたまま、それでも風の先にあるものを受けに岬へ行ったのではないか。
――第十一作は、過去の整理ではなく、これから来るものの気配を身体で受ける巻なのだろう。




