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4

 紫色の靄が、じわじわとこちら側との距離を縮めていく。


「……っ」


 声にならない。


 三本の刃が、ゆっくりと揺れる。


 細く、長く、異様なほど鋭い。


 ——キィィィ……。


 床を擦る音が、静かな空間に響く。


 怪物が、一歩踏み出す。


 洗面所の中に、入ってくる。


 距離が、一気に縮まる。


 圧迫感が、空気ごと押し寄せてくる。


 逃げないと。


 そう思った瞬間、体が勝手に動いた。


 横の扉に飛びつく。


 風呂場。


 ほとんど転び込むように中へ入り、そのまま振り返る。


 ——バンッ!!


 勢いよく扉を閉める。


 壁にぶつかるほどの勢い。


 手が震える。


 意味のないことだとわかっていながら風呂場の薄い扉に鍵をかけようとした。


「……っ、くそ……!」


 指がうまく動かない。


 滑る。


 焦る。


 後ろから、気配が迫ってくる気がする。


 ようやく鍵に触れる。


 回す。


 ——カチ。


 小さな音。


 それでも確かに、ロックされた。


 背中を扉に押し付ける。


 全身が震えている。


 呼吸が荒い。


 心臓がうるさい。


 外の気配に耳を澄ます。


 ——キィィィ……。


 すぐ向こうだ。


 扉一枚隔てただけの距離。


 近すぎる。


 静かだ。


 逆に、それが怖い。


 何もしてこない。


 だからこそ、次が来るのがわかる。


「……来るな……」


 無意識に呟く。


 意味なんてない。


 わかっている。


 それでも、言わずにいられなかった。


 その瞬間——


 ——ドンッ!!


 衝撃が、背中越しに叩きつけられた。


「……っ!!」


 体が浮く。


 扉ごと吹き飛ばされる。


 肺の空気が一気に抜ける。


 息ができない。


 もう一度——


 ——ドンッ!!


 地面に叩きつけられた。


 破片が飛び散る。


 破裂するような音。


 扉が悲鳴を上げる。


 紫色の靄が一気に流れ込む。


 バランスを崩し、よろめきながらも立ち上がり化け物を振り返った。


 やはり——


 化け物が立っていた。


 紫の靄が、濃い。


 空間そのものが歪んで見える。


 三本の刃が、ゆっくりと持ち上がる。


 逃げ場がない。


 背後は壁。


 距離は、数歩もない。


「……っ、くそ!」


 とっさに、手を伸ばす。


 目に入ったものを掴む。


 シャワー。


 ホースごと引き寄せる。


 軽い。


 頼りない。


 それでも、何もないよりはマシだった。


 両手で握る。


 振りかぶる。


 怪物に向かって、振り回す。


 当たれば。


 少しでも止まれば。


 そんな期待が、一瞬よぎる。


 だが——


 足元が滑った。


「……っ!」


 体勢が崩れる。


 視界が揺れる。


 次の瞬間——


 ——ドンッ!


 背中から倒れた。


 激痛が走る。


 息が詰まる。


 手から力が抜ける。


 シャワーが暴れる。


 その拍子に——


 蛇口が、ひねられた。


 ——シャァァァッ!!


 一気に水が噴き出す。


 強い勢い。


 シャワーヘッドが暴れ、水が四方に飛び散る。


 顔に直撃する。


 冷たい。


 息が乱れる。


 目が開けていられない。


 視界が滲む。


 それでも、必死に起き上がろうとする。


 腕に力を込める。


 だが、滑る。


 体が言うことをきかない。


 恐怖で、力が入らない。


 そのとき——


 影が、視界に入った。


 顔を上げる。


 すぐ目の前に、怪物がいた。


 距離は、ほとんどゼロ。


 ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。


 一歩。


 また一歩。


 ——キィィィ……。


 刃が床を擦る音が、耳元で鳴る。


 近い。


 近すぎる。


 逃げられない。


 もう、無理だ。


 そう理解した瞬間。


 全身から力が抜けた。


 抵抗する気力が、消える。


 視界が暗くなる。


 音が遠ざかる。


 水の音だけが、やけに大きく残る。


 冷たいはずなのに、感覚が鈍い。


 ぼやけていく。


 怪物の輪郭も、紫の靄も、滲んでいく。


 最後に見えたのは——


 振り上げられる、三本の刃。


 そして——


 俺は死より先に恐怖で意識を失った。

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