3
反射的に傷から目を離し、ドアに顔を向ける。
気のせいじゃない。はっきりと聞こえた。
誰かが、歩いている。
——ミシッ、ミシッ。
リビングの方からだ。
「……は?」
心臓が止まりそうになる。
それなのに、足音は止まらない。
一定の間隔で、ゆっくりと。
そこにいることを示すように響いている。
しばらくその場に立ち尽くす。
だが、音は消えない。
むしろ、気にすればするほど大きく感じる。
「……見るだけだ」
小さく呟く。
そうでもしないと動けなかった。
足を踏み出す。
扉の前に立つ。
——ミシッ。
音が、すぐ向こうで止まった。
息を止める。
いる。
扉の向こうに。
確実に。
ゆっくりと、ドアノブに手をかける。
冷たい。
指先がわずかに震える。
そのまま、音を立てないように回す。
慎重に。
少しずつ。
そして——
扉を、ほんのわずかだけ開ける。
隙間から、中を覗く。
最初に見えたのは、見慣れた床。
テーブルの脚。
ソファ。
何も変わらないリビング。
……何もいない。
(……なんだよ)
小さく息を吐く。
気のせいか、と思いかける。
だが、空気が妙だった。
重い。
やけに、静かすぎる。
違和感が消えない。
頭の中の恐怖が無意識に扉を閉め閉めた。
そのとき——
——カチャ。
わずかな音が鳴った。
ほんの少しの扉が閉まる音。
小さな音。
だが——
その瞬間。
空気が、変わった。
さっきまでの静けさが、一瞬で崩れる。
何かがこちらに気づいた。
そうわかる。
「……っ」
反射的に、扉から離れる。
だが遅かった。
離れた時にはもう、あちら側からなにかが扉を開けていた。
——いた。
さっきまで何もなかったはずの空間。
その中央に、“それ”は立っていた。
音もなく。
最初からそこにいたみたいに。
人の形に近い。
だが、人じゃない。
輪郭が揺れている。
存在が、安定していない。
腕が長い。
不自然なほどに。
その先——手の位置から、三本の細長い刃が伸びていた。
ナイフのように鋭い。
冷たい光を反射している。
刃の先が、床にわずかに触れる。
——キィィィ……。
あの音。
耳を削るような音が、静かに響く。
化け物だった。
全身から、紫色の靄が滲み出ている。
煙のように揺れているのに、消えない。
むしろ、広がっている。
呼吸が止まる。
目が離せない。
その瞬間。
怪物の“顔”のような部分が、ゆっくりとこちらへ向いた。
目はない。
だが——確実に、見られた。
全身に冷たいものが走る。
次の瞬間。
怪物が、一歩踏み出した。
——ミシッ。
さっき聞こえていた足音と、同じ音だった。
俺の生物的本能が『ニゲロ』という言葉を連呼していた。




