表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
X  作者:  
3/6

2

 だが、そこにはやはり何もなかった。


 ただ、静かな朝の空気が流れているだけだった。


 水滴が、顎から一つ、また一つと落ちていく。


 蛇口を止めた後の洗面所は、やけに静かだった。


 さっきまで確かに響いていたはずの音は、もうどこにもない。


 代わりに残っているのは、水の冷たさと、わずかに早まった自分の呼吸だけだ。


 タオルに手を伸ばそうとして、ふと鏡を見る。


 見慣れたはずの自分の顔。


 その背後に——違和感があった。


「……ん?」


 思わず、声が漏れる。


 鏡の中、自分の後ろ。


 白いはずの壁に、黒い線が走っていた。


 いや、線なんて生易しいものじゃない。


 それは、もっと荒々しく、無秩序。


 まるで何かが力任せに引き裂いたような。


 爪痕だった。


 縦に、斜めに、いくつも重なり合うように刻まれている。


 浅いものもあれば、深くえぐれたように見えるものもある。


 まるで壁の向こうから何かが這い出ようとしたみたいに。


 心臓が、強く打つ。


 ゆっくりと、振り返る。


 だが——


「……ない、」


 そこには、何もなかった。


 白い壁があるだけだ。


 傷一つない、綺麗なままの壁。


 さっきまで見ていたものが、まるで嘘みたいに消えている。


 もう一度、鏡を見る。


 ——ある。


 間違いなく、そこに刻まれている。


「……なんだよ、これ」


 思考が追いつかない。


 鏡に映っているものと、現実が一致していない。


 そんなこと、あり得るはずがないのに。


 目を細める。


 角度を変えてみる。


 少し体をずらす。


 それでも、爪痕は消えない。


 むしろ、さっきよりもはっきりと見える気がした。


 背筋を、冷たいものが這い上がる。


 これがただの見間違いだとは、とても思えなかった。


「……鏡、か?」


 ふと、そんな考えが浮かぶ。


 鏡の方に問題があるのではないか。


 汚れや傷が、たまたまそう見えているだけ——そう思いたかった。


 ゆっくりと、手を伸ばす。


 鏡の表面に触れる。


 冷たい感触が、指先に伝わる。


 爪痕のある位置に、そっと指を当てる。


 何もない。


 ただ、滑らかなガラスの感触があるだけだ。


 だが——


「……っ」


 ほんの一瞬、指先に引っかかるような違和感が走った。


 気のせいかもしれない。だが、その一瞬で、心臓が大きく跳ねた。


 もう一度、確かめようとする。


 少し強めに、鏡をなぞる。


 その瞬間だった。


 ——ビキッ。


 乾いた音が、至近距離で弾けた。


「……え?」


 次の瞬間、視界いっぱいに、亀裂が走る。


 中心から放射状に広がるひびが、鏡全体を覆い尽くす。


 理解するより先に——


 鏡が、弾けた。


 ——パァンッ!


 激しい音とともに、無数の破片が前方へ飛び散る。


 反射的に身を引く。


 頬をかすめる風と、細かな痛み。


 床に叩きつけられたガラス片が、甲高い音を立てて跳ねた。


「……っ、は……」


 息が詰まる。


 しばらく、何もできなかった。


 ただ、荒くなった呼吸だけがやけに大きく聞こえる。


 ゆっくりと、顔を上げる。


 鏡は、もう原形を留めていなかった。


 フレームの中には、鏡と呼べるものはもはや残っていなかった。


 床には、細かいガラスが散らばっている。


 だが——


「……なんだこれ、」


 目を見開く。


 割れた鏡の一片、その中に。


 なにも映っていなかった。


 いや、一片だけではなかった。


 そこには、鏡の破片が、いや、「なにか」が散らばっていた。


 はっとして周囲に視線を向ける。


 そこにはあった。


 傷が。


 さっきまでなかったはずの…。


 喉が、乾く。


 声が出ない。


 ただ、視線だけが、その異様な光景に縫い付けられていた。


 ——ミシッ。


 不意に、音がした。


 俺の頭に恐怖がしがみついてくる。


 その音は——


 この扉の向こう側、誰もいるはずのないリビングから、聞こえていたのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ