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 __キィィ。


 異質な音が、意識の底を叩いていた。


 最初は夢の一部だと思っていた。


 遠くで誰かが何かを引っかいている、そんな曖昧なイメージ。


 だが、音は途切れず、むしろ少しずつ輪郭を持ち始める。


 __ギギィィィ。


 一定の間隔。


 静かな部屋の中で、その音だけがやけに鮮明に響いていた。


 まぶたが、ゆっくりと持ち上がる。


 見慣れた天井が視界に入った。


 白いはずなのに、朝の薄い光のせいでどこか灰色がかって見える。


 カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の空気をぼんやりと浮かび上がらせていた。


 __キィ。


 音は、まだ続いている。


 …んーもう、なんだよ


 掠れた声が、喉の奥で転がった。


 枕元に手を伸ばし、手探りでスマホを探す。


 画面をつけると、俺の眠い目には明るすぎる光が入り込んできた。


 スマホの画面には6:42の文字。


 アラームをかけているのは7:00だったと思うからアラームが鳴るには、まだ少し早い、はずだ。


 音の興味よりも眠たさが圧勝していた俺の意識は、無意識にスマホを置き、二度寝を選択する。


 そんな選択を謎の音が拒否する。


 __キ、キィ。


 二度寝を拒否された俺の瞼はゆっくりとこじ開けられた。


 俺は寝ぼけた頭で、音の出所を探ろうとする。


 窓の外か…?


 いや、違うな、もっと近い。


 部屋の中、、、少なくとも、この家のどこかだ。


 __キ、キ、キィィ。


 一定のリズムが、妙に気に障る。


 心臓の鼓動と、わずかにずれている気がした。


 ベッドの上でしばらく耳を澄ませていたが、結局じっとしていられなくなった。


 布団を払いのけ、ゆっくりと上半身を起こす。


 なんだってこんな朝早くに布団からでにゃならんのだ…。


 寝起きの身体は重く、頭もまだはっきりしない。


 それでも、あの音だけは妙に鮮明だった。


 床に足をつける。


 ひんやりとした感触が、少しだけ意識を引き戻した。


 ⋯まじで朝から何だってんだよ。床冷たすぎんだろ。


 リビングは静まり返っていた。


 時計の針が進む音すら聞こえないほどの静けさの中で、あの音だけが、やはり浮いている。


 第一、俺の家にアナログの時計はないのだが。


 音は、あの部屋から聞こえてくる。


 洗面所だ。


 理由もなく、少しだけ足取りが慎重になる。


 床板がきしむ音がやけに大きく感じられた。


 数歩進むごとに、音ははっきりしていく。


 __ギギ、ギィィィ。


 参考までにここはただのアパートの一室だ。


 別に古くもないし、変な構造でもない。


 事故物件だとかそういう類の話は聞いたことがないから違うと思いたい。


 洗面所の前に立つ。


 ドアの向こうから、確かに音が聞こえる。


 ⋯よし。


 ドアノブに手をかける。


 しかし、ドアノブに手をかけたまま、ほんの一瞬だけ動きが止まった。


 理由は分からない。


 ただ、開けるべきかどうかを無意識に迷っていた。


 だが結局、俺の手はゆっくりとドアを開けていた。


 キィ、と小さな音がして、視界が開けた。


 窓のない洗面所はまだ薄暗く、朝早くに起きることがない俺にとっては違和感そのものだったが、特に何も変わらなかった。


 ただの床。


 曇りのない鏡。


 整然と並んだ歯ブラシやコップ。


 そして__音までもが。


 ⋯はぁ?


 さっきまで、あれだけはっきり聞こえていたのに。


 一歩、中に入る。


 床を踏む音だけが響く。


 耳を澄ませても、もう何も聞こえない。


 蛇口の下、棚の中、窓の外、全体に視線を巡らせるが、異常らしいものは何一つ見つからなかった。


 …気のせい、か?


 そう結論づけるには、あまりにもはっきりした音だった気がする。


 ていうか、絶対に気のせいじゃない自信しかない。


 まあ、証拠はないけども。


 しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて小さく息をついた。


 …考えてもしゃーないか。


 深く考えるのも面倒になった。


 せっかくここまで来たなら顔でも洗って10数分の早起きで朝を気持ちよく迎えるとするか。


 俺は洗面台の前に立った。


 鏡の中の自分と目が合う。


 寝癖で跳ねた髪(ほぼ爆発)、まだ完全には覚めていない目。


 どこにでもいるような、普通の男子高校生の顔だった。


 蛇口をひねる。


 …蛇口じゃなくて上向きに引くレバーだから絶対呼び方蛇口じゃないよな。知らんけど。


 と、たびたび思う。


 下向きに押すタイプのレバーじゃなく、上向きに引くタイプのレバーが多いのは震災とかの時に物が倒れかかって水が出しっぱなしになるのを防ぐためだとか聞いたことがある。


 本当だろうか。


 水が勢いよく流れ出す音が、静けさをかき消した。


 両手ですくい、顔にかける。


 冷たい水が肌を打ち、意識が一気に引き戻される。


 ⋯うわぁ朝だぁ。


 もう一度、すくう。


 水滴が頬を伝い、顎からぽたりと落ちた。


 顔を上げる。


 鏡の中の自分は、さっきと何も変わらない。


 __キィ。


 そのときだった。


 ほんの一度だけ、背後で小さな音がした。


 俺は反射的に振り返った。


 だが、そこにはやはり何もなかった。


 ただ、静かな朝の空気が流れているだけだった。


 水滴が、顎から一つ、また一つと落ちていく。


 再び辺りを見回すが異常は見当たらなかった。


 …まじでなんかいるんじゃね?霊か?だったら結構怖いんだが。


 とりあえずで俺は振り返って蛇口を止めた。


 蛇口を止めた後の洗面所は、やけに静かだった。


 さっきまで確かに響いていたはずの音は、もうどこにもない。


 代わりに残っているのは、水の冷たさと、わずかに早まった自分の呼吸だけだ。


 タオルに手を伸ばそうとして、ふと鏡を見る。


 見慣れたはずの自分の顔。


 その背後に__違和感があった。


 …ん?


 鏡の中、自分の後ろ。


 それが音の原因なのではないか、そんな考えが頭に巡った。


 いや、謎の自信が確信へと変えようとしていた。


 鏡の中、白いはずの壁に、黒い線が走っていた。


 いや、線なんて生易しいものじゃない。


 それは、もっと荒々しく、無秩序。


 まるで何かが力任せに引き裂いたような。


 爪痕だった。


 縦に、斜めに、いくつも重なり合うように刻まれている。


 浅いものもあれば、深くえぐれたように見えるものもある。


 まるで壁の向こうから何かが這い出ようとしたみたいに。


 ⋯なんだよ、この傷。


 心臓が、強く打つ。


 ゆっくりと、振り返る。


 だが__


 「⋯⋯ない、」


 そこには、何もなかった。


 白い壁があるだけだ。


 傷一つない、綺麗なままの壁。


 さっきまで見ていたものが、まるで嘘みたいに消えている。


 もう一度、鏡を見る。


 __ある。


 間違いなく、そこに刻まれている。


 「……なんだよ、これ」


 思考が追いつかない。


 鏡に映っているものと、現実が一致していない。


 そんなこと、あり得るはずがないのに。


 目を細める。


 角度を変えてみる。


 少し体をずらす。


 それでも、爪痕は消えない。


 むしろ、さっきよりもはっきりと見える気がした。


 背筋を、冷たいものが這い上がる。


 これがただの見間違いだとは、とても思えなかった。


 …オッケーオッケーとりあえず冷静になろう。意味のわからん現象が起きていることはわかった。


 …もしや鏡、か?


 ふと、そんな考えが浮かぶ。


 鏡の方に問題があるのではないか。


 汚れや傷が、たまたまそう見えているだけ。


 __そう思いたかった。


 ゆっくりと、手を伸ばす。


 鏡の表面に触れる。


 冷たい感触が、指先に伝わる。


 爪痕のある位置に、そっと指を当てる。


 何もない。


 ただ、滑らかなガラスの感触があるだけだ。


 だが__


「…っ」


 ほんの一瞬、指先に引っかかるような違和感が走った。


 気のせいかもしれない。だが、その一瞬で、心臓が大きく跳ねた。


 その瞬間だった。


 __ビキッ。


 乾いた音が、至近距離で弾けた。


 「……え?」


 次の瞬間、視界いっぱいに、亀裂が走る。


 中心から放射状に広がるひびが、鏡全体を覆い尽くす。


 理解するより先に__


 鏡が、弾けた。


 __パァンッ!


 激しい音とともに、無数の破片が前方へ飛び散る。


 反射的に身を引く。


 頬をかすめる風と、細かな痛み。


 床に叩きつけられたガラス片が、甲高い音を立てて跳ねた。


 「……っ、は……」


 息が詰まる。


 しばらく、何もできなかった。


 ただ、荒くなった呼吸だけがやけに大きく聞こえる。


 ゆっくりと、顔を上げる。


 鏡は、もう原形を留めていなかった。


 フレームの中には、鏡と呼べるものはもはや残っていなかった。


 床には、細かいガラスが散らばっている。


 だが__


 「……なんだこれ、」


 目を見開く。


 割れた鏡の一片、その中に。


 なにも映っていなかった。


 …まじでどゆこと?


 いや、一片だけではなかった。


 そこには、鏡の破片が、いや、『なにか』が散らばっていた。


 はっとして周囲に視線を向ける。


 そこにはあった。


 傷が。


 さっきまでなかったはずの…。


 喉が、乾く。


 声が出ない。


 ただ、視線だけが、その異様な光景に縫い付けられていた。


 __ミシッ。


 不意に、音がした。


 俺の頭に恐怖がしがみついてくる。


 その音は__


 この扉の向こう側、誰もいるはずのないリビングから、聞こえていたのだ。

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