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だが、そこにはやはり何もなかった。
ただ、静かな朝の空気が流れているだけだった。
水滴が、顎から一つ、また一つと落ちていく。
蛇口を止めた後の洗面所は、やけに静かだった。
さっきまで確かに響いていたはずの音は、もうどこにもない。
代わりに残っているのは、水の冷たさと、わずかに早まった自分の呼吸だけだ。
タオルに手を伸ばそうとして、ふと鏡を見る。
見慣れたはずの自分の顔。
その背後に——違和感があった。
「……ん?」
思わず、声が漏れる。
鏡の中、自分の後ろ。
白いはずの壁に、黒い線が走っていた。
いや、線なんて生易しいものじゃない。
それは、もっと荒々しく、無秩序。
まるで何かが力任せに引き裂いたような。
爪痕だった。
縦に、斜めに、いくつも重なり合うように刻まれている。
浅いものもあれば、深くえぐれたように見えるものもある。
まるで壁の向こうから何かが這い出ようとしたみたいに。
心臓が、強く打つ。
ゆっくりと、振り返る。
だが——
「……ない、」
そこには、何もなかった。
白い壁があるだけだ。
傷一つない、綺麗なままの壁。
さっきまで見ていたものが、まるで嘘みたいに消えている。
もう一度、鏡を見る。
——ある。
間違いなく、そこに刻まれている。
「……なんだよ、これ」
思考が追いつかない。
鏡に映っているものと、現実が一致していない。
そんなこと、あり得るはずがないのに。
目を細める。
角度を変えてみる。
少し体をずらす。
それでも、爪痕は消えない。
むしろ、さっきよりもはっきりと見える気がした。
背筋を、冷たいものが這い上がる。
これがただの見間違いだとは、とても思えなかった。
「……鏡、か?」
ふと、そんな考えが浮かぶ。
鏡の方に問題があるのではないか。
汚れや傷が、たまたまそう見えているだけ——そう思いたかった。
ゆっくりと、手を伸ばす。
鏡の表面に触れる。
冷たい感触が、指先に伝わる。
爪痕のある位置に、そっと指を当てる。
何もない。
ただ、滑らかなガラスの感触があるだけだ。
だが——
「……っ」
ほんの一瞬、指先に引っかかるような違和感が走った。
気のせいかもしれない。だが、その一瞬で、心臓が大きく跳ねた。
もう一度、確かめようとする。
少し強めに、鏡をなぞる。
その瞬間だった。
——ビキッ。
乾いた音が、至近距離で弾けた。
「……え?」
次の瞬間、視界いっぱいに、亀裂が走る。
中心から放射状に広がるひびが、鏡全体を覆い尽くす。
理解するより先に——
鏡が、弾けた。
——パァンッ!
激しい音とともに、無数の破片が前方へ飛び散る。
反射的に身を引く。
頬をかすめる風と、細かな痛み。
床に叩きつけられたガラス片が、甲高い音を立てて跳ねた。
「……っ、は……」
息が詰まる。
しばらく、何もできなかった。
ただ、荒くなった呼吸だけがやけに大きく聞こえる。
ゆっくりと、顔を上げる。
鏡は、もう原形を留めていなかった。
フレームの中には、鏡と呼べるものはもはや残っていなかった。
床には、細かいガラスが散らばっている。
だが——
「……なんだこれ、」
目を見開く。
割れた鏡の一片、その中に。
なにも映っていなかった。
いや、一片だけではなかった。
そこには、鏡の破片が、いや、「なにか」が散らばっていた。
はっとして周囲に視線を向ける。
そこにはあった。
傷が。
さっきまでなかったはずの…。
喉が、乾く。
声が出ない。
ただ、視線だけが、その異様な光景に縫い付けられていた。
——ミシッ。
不意に、音がした。
俺の頭に恐怖がしがみついてくる。
その音は——
この扉の向こう側、誰もいるはずのないリビングから、聞こえていたのだ。




