第9話 スキルのない勇者
「女神様、水を運ぶ馬車が動きません!」
セレスが中庭へ出ると、荷車の周りに数人の男たちが集まっていた。
車輪の軸が折れている。昨日から嫌な音がしていたというから、とうとう限界が来たのだろう。
ケルド砦の陥落以来、古い修道院を利用したこの避難所には、周辺の村々から人々が押し寄せていた。井戸だけでは水が足りず、少し離れた泉から毎日運んでいる。
「予備の軸はありませんか?」
「あるにはあるんですが、寸法が合わなくて……」
老修道士が困り果てた顔で答えた。
セレスは折れた軸を調べたあと、近くにいた大工へ声を掛けた。
「こちらの木材を削れば使えませんか? 運搬は兵士の方々にも手伝っていただきましょう」
「できなくはないですが、半日はかかりますよ」
「お願いします。その間、水は飲み水を優先してください」
セレスも車体を持ち上げるのを手伝った。神の力で車輪を直せれば早いのだが、そう都合よくはいかない。
召喚ノルマを二か月続けて達成できず、私的な権能の使用を制限されている。救護のための治癒術は認められているものの、一度に治せる人数には限りがあった。
昨日も負傷した子供を治療したあと、しばらく立ち上がれなかった。
それでも、修理を手伝うくらいなら何とかなる。
「女神様がこんなことをなさらなくても」
大工に言われ、セレスは泥のついた手を見た。
「では、早く直していただけると助かります」
大工は苦笑し、再び鉋を動かし始めた。
◇
「シュウジ? その名前なら聞いたことがあるよ」
話しかけてきたのは、昨日避難所へ到着した老女だった。
セレスは手にしていた名簿を置いた。
「秋山修司という男性です。三十九歳で、遠い国から来た方なのですが」
「ああ、そうだよ。妙な言葉遣いをする男だった。自分は会社員だとか言っていたね」
セレスは椅子を勧め、詳しい話を聞くことにした。
老女の村は、ケルド砦の南にある農村だった。魔王軍が迫り、村人たちは南へ逃げようとしたが、街道を横切る大きな灌漑水路の橋が壊されていたという。
水路は深い石造りで、両岸には高い護岸が続いている。橋がなければ、老人や子供を連れて渡るのは難しい。
「そこでシュウジが、上流に水門があるだろうって言い出したんだ」
その水路は近くの川から農業用の水を引いており、上流の取水門を閉じれば、しばらくして水位が下がる仕組みだった。
ところが、何年もまともに動かしていなかったため、巻き上げ機が錆びついていた。
「村の男たちと一緒になって、長い丸太を持ってきてね。歯車に噛ませて、少しずつ動かしたんだよ」
「その方が、水門の仕組みを知っていたのですか?」
「いいや。村の年寄りに聞いて回っていたよ。図まで描いて、何度も確かめてね」
やがて水位が下がり、村人たちは両岸の点検用階段を使って水路の底へ降り、対岸へ渡ることができた。
荷車は置いていくしかなかったが、子供や老人を先に逃がせたという。
「シュウジは最後まで水門のところに残っていたんだ。魔物が近づいてきたら、水を戻して追いかけにくくするってね」
「そのあと、彼は?」
老女は首を振った。
「分からないよ。あの人は先に行けって言って、私たちを逃がしてくれたんだ」
セレスは膝の上の名簿に目を落とした。
秋山修司。付与技能なし。
召喚された人間は、新しい肉体を与えられる際、エルヴェリアの共通語も理解できるようになる。これは召喚そのものに伴う調整で、女神が与えるスキルとは別のものだ。
だから、秋山が現地の人々と会話できても不思議ではない。
だが、魔法も戦闘技能も持たない彼が、これほど危険な場所で生き延びていたとは。
「その方は、武器を持っていましたか?」
「木の棒くらいは持っていたけど、魔物と戦えるようには見えなかったね」
老女は少し笑った。
「でも、あの人がいなかったら、私たちはまだ橋の前で立ち往生していたよ」
セレスは深く頭を下げた。
ようやく、秋山の足取りが分かった。
◇
「水門へ行きたいのですか?」
避難所の警備隊長は、露骨に渋い顔をした。
「周辺には魔王軍の斥候が出ています。女神様が出歩くのは危険です」
「分かっています。ただ、そこへ行けば彼の行方が分かるかもしれません」
「それに、ここにはまだ負傷者が大勢いる」
その言葉に、セレスはすぐには答えられなかった。
避難所を離れることには、確かに迷いがある。天界の召喚業務も遅れたままだ。
しかし、秋山の消息を確かめずに戻れば、アリエスが送り込んだあの男性は、誰からも探されないままになるかもしれない。
「水を運ぶ馬車は、夕方には使えるそうです。治療の必要な方についても、修道院の方々と手順を確認しました」
「……そこまで準備しておられたのですか」
「明るいうちに戻るつもりです。無理はしません」
隊長は腕を組んで考え込み、やがて若い兵士を一人呼んだ。
「この者に案内させます。敵を見つけたら、必ず引き返してください」
「ありがとうございます」
セレスは頭を下げた。
その背中に、隊長が声を掛ける。
「女神様。ここで倒れられたら、我々は本当に困るんですからね」
少し怒ったような言い方だった。
セレスは振り返り、もう一度頷いた。
◇
水門には、まだ避難民が通った跡が残っていた。
巻き上げ機には新しい縄が巻きつけられ、周囲の泥には何人もの足跡が乾いて固まっている。
「随分と無理をして動かしたようですね」
兵士が歯車を調べながら言った。
水路には再び水が流れていた。対岸へ渡るには、かなり遠回りしなければならない。
「秋山さんは、どちらへ逃げたのでしょう」
セレスが周囲を見回すと、少し離れた木の枝に布切れが結ばれているのが見えた。
その先にも、同じような布がある。
「誰かが道しるべにしたのでしょうか」
「この方向だと、古い採石場ですね。今は誰も使っていないはずですが」
二人は周囲を警戒しながら進んだ。
採石場の手前には、使われなくなった資材置き場があった。岩陰に焚き火の跡があり、空になった水袋が転がっている。
誰かが、つい最近までここにいたらしい。
セレスが水袋を拾い上げたとき、兵士が小さく舌打ちした。
「伏せてください」
岩陰へ身を隠すと、谷の向こうから魔王軍の小部隊が現れた。
魔族の兵士が数人。その後ろを、縄でつながれた人間たちが歩かされている。
捕虜だった。
セレスは一人ずつ顔を確かめた。
その中に、見覚えのある男性がいた。
痩せた体つきに、短い黒髪。顔は泥で汚れており、歩くたびにふらついている。
セレスは召喚記録に残されていた秋山修司の容貌を思い出した。
よく似ている。
だが、遠いうえに俯いているため、本人だとは断定できなかった。
「もう少し近づければ……」
「駄目です」
兵士が小声で制した。
「あの人数が相手では、捕虜を守りきれません」
セレスは唇を噛んだ。
今ここで飛び出せば、捕虜たちまで巻き込むことになる。それでは、何のために彼らを探していたのか分からない。
捕虜の列は、採石場の奥へ消えていった。
セレスは魔族の数と装備、捕虜たちが連れていかれた方角を確かめた。
「避難所へ戻りましょう。隊長に相談します」
兵士が頷く。
秋山修司かもしれない男性は、確かに生きていた。
けれど、魔王軍に捕らえられている。
セレスは採石場の位置を地図に記し、来た道を引き返した。
帰ったら、まず隊長に事情を説明しなければならない。捕虜を救出するには、地形を知る兵士も必要だろう。
そして、もしあの男性が本当に秋山修司なら。
彼には、どうしても伝えたいことがあった。
何の力も与えられないまま、この世界へ送り込まれたことについて。
女神の一人として、謝らなければならなかった。




