第8話 死神の特別サービス
午後二時五十分。
わたしは鏡の前で、念入りに口紅を塗り直していた。
今日のために選んだのは、胸元が大胆に開いた薄桃色のドレス。髪もいつもより丁寧に巻いたし、先日取り寄せた限定品の香水もつけている。
我ながら、惚れ惚れする仕上がりだ。
早瀬律が死んだら、まず目にするのは、この美しい女神なのである。
「ふふっ。楽しみね」
人間界を映す鏡では、例の廃ビルに調査員たちが集まっていた。
早瀬のほかに建築会社の社員が二人、管理会社の担当者が二人、安全確認の作業員が二人。全部で七人だ。
子供が入り込んで遊んでいた北側の階段を確認するため、予定より人数を増やしたらしい。
『アリエス様、準備はよろしいですか?』
ノクスから通信が入った。
「もちろんよ。今度こそ頼むわよ」
『できる限りのことはいたします。ただ、早瀬氏は慎重な方ですので』
「またそれ? もう聞き飽きたわ」
わたしは通信をつないだまま、鏡に視線を戻した。
七人は建物へ入り、北側の階段が見える通路まで進んでいた。
「この先は傷みがひどいですね」
早瀬の声が聞こえた。
「階段だけでなく、周囲の壁にも影響が出ているようです。ここから先は入らない方がいいでしょう」
管理会社の男が頷いた。
「では、今日は写真を撮って、詳しい調査は改めてということで」
「ええ。まずは立ち入りを制限してください」
ちょっと。
せっかく危ない場所まで来たのに、もう帰るつもり?
「ノクス!」
『見ていますよ。少し静かにしていただけますか』
早瀬たちは階段から離れ、通路の中央で図面を広げていた。
そこで、建物の奥から鈍い音が響いた。
七人が一斉に顔を上げる。
「まずい。外へ!」
早瀬が叫んだ直後、鏡の中が土埃で真っ白になった。
何かが連続して崩れる音がする。
「……え?」
しばらく待っても、何も見えない。
「ノクス、どうなったの?」
『少々お待ちを。思っていたより、崩れた範囲が広いようです』
「早瀬は?」
『確認しています』
人間界では、建物の外にいた作業員たちが騒ぎ始めていた。誰かが救急車を呼び、近所の人間まで集まってくる。
どうやら、北側の階段だけでなく、周囲の床や壁まで崩落したらしい。
わたしは鏡に顔を近づけた。
早瀬の姿は、どこにもない。
そのとき、机の上で鈴が鳴った。
一度。
続けて、もう一度。
さらに三度、四度と鳴り続ける。
「何よ、うるさいわね」
死亡記録が次々に現れ、机の上へ積み重なった。
七枚だった。
わたしは一枚目を手に取る。
『早瀬律 三十二歳』
「あっ!」
思わず声が出た。
「やった! ようやく死んだのね!」
残りの書類も確認してみる。
建築会社の社員二人、管理会社の担当者二人、作業員二人。早瀬を含め、建物の中にいた七人全員が死亡していた。
「あらまあ。全滅しちゃったの?」
『そのようですね』
ノクスの声が、いつになく弾んでいる。
『いやあ、これは予想外の収穫です』
「そういえば、あなたは人間が死ぬと寿命が延びるのよね」
『ええ。一度に七人分もいただけるとは。しばらく寿命の心配をしなくて済みそうです』
鏡の向こうで、ノクスが上機嫌に笑った。
よっぽど嬉しいらしい。
「それで、追加料金は取らないでしょうね?」
『ご契約は早瀬律お一人ですから。ほかの六名については請求いたしませんよ』
「本当? それは助かるわ!」
何て気前のいい死神なのかしら。
一千万円で七人。
しかも、お目当ての男まで手に入った。
考えてみれば、今月のノルマも一気に進むじゃない。
「ふふっ。今日はいい日ね」
『お気に召して何よりです。それでは、成功報酬の八百万円をお願いいたします』
「分かっているわよ。ちゃんと払うから」
わたしは通信を切り、七人の魂を呼び寄せた。
◇
白い空間に、七人の男女が現れた。
全員、何が起きたのか理解できていないようで、互いの顔を見ながら騒いでいる。
「おい、ここはどこだ?」
「さっきまでビルの中にいたよな?」
「階段が崩れて、それから……」
わたしは軽く手を叩いた。
「はい、静かにしてちょうだい。わたしは女神アリエスよ。残念だけど、あなたたちは事故で死んでしまったの」
六人が一斉に声を上げた。
元の世界へ帰してほしいだの、家族に連絡させろだの、好き勝手なことを言い始める。
その中で、早瀬だけは黙っていた。
さすがね。女神の前で騒がないなんて、なかなか礼儀をわきまえているじゃない。
わたしはほかの六人へ、異世界で新しい肉体を与えることを説明した。
文句は多かったが、もう死んだのだから仕方がない。六人にはそれぞれ適当な実用スキルを付与し、後方の補給都市へ送り出した。
「はい、次の人。さっさと入ってね」
最後の一人が扉の向こうへ消える。
これで、早瀬と二人きりになった。
わたしは少し姿勢を正し、胸元の飾りを整えた。
「お待たせ、早瀬」
「……みんな、どこへ行ったんですか?」
「異世界よ。あなたも同じところへ送ってあげるわ」
「そうですか」
早瀬は少し安心した様子だった。
せっかく女神と二人きりなのに、ほかの人間のことばかり考えているのね。
「ねえ、早瀬。わたしのこと、どう思う?」
「え?」
「女神に会うなんて、普通は一生に一度もないことでしょう?」
「そうですね。驚いています」
それだけ?
わたしは彼に近づいた。
香水の匂いがふわりと広がる。
「今日は特別な日だから、お洒落してきたのよ。似合っているかしら?」
「ええ。綺麗な服ですね」
綺麗な服。
服だけ?
わたしは少し身をかがめ、彼の顔を覗き込んだ。
「服だけじゃなくて、わたしは?」
「……お綺麗だと思います」
「本当?」
「はい。でも、それより一つ聞いてもいいですか?」
来たわね。
きっと、わたしのことをもっと知りたいのでしょう。
「何でも聞いてちょうだい」
「一緒にいた六人は、向こうで安全に暮らせるんですか?」
……また、それ?
「ちゃんとスキルを与えたんだから、大丈夫じゃない?」
「そうですか。よかった」
何がよかったのよ。
こっちはこの日のために、新しいドレスまで用意したというのに。
わたしは気を取り直し、早瀬の腕にそっと手を添えた。
「あなたには特別に、好きなスキルを選ばせてあげるわ」
「本当ですか?」
ようやく、少し興味を持ったようだ。
「ええ。剣術でも魔法でも、強いものを選んでいいのよ」
「それなら、建物の状態が分かる能力はありますか?」
「……建物?」
「戦争をしている世界なら、壊れた建物も多いでしょう。安全な避難所を作る仕事なら、僕にもできると思うんです」
この男、本当に仕事が好きなのね。
まあ、好きなものを選んでいいと言った手前、断るのも格好が悪い。
わたしは技能一覧から《構造鑑定》を選んだ。
「はい、付与したわ。これで建物の傷みが分かるようになるわよ」
「ありがとうございます」
早瀬は深く頭を下げた。
ようやく、まともなお礼を言ってくれたわね。
でも、まだ足りない。
わたしは彼の手を取って、にっこり微笑んだ。
「ねえ、早瀬。向こうで困ったことがあったら、わたしのことを思い出してね」
「はい」
「それから、あなたには特別に、わたしが会いに行ってあげてもいいわよ」
「異世界にも来られるんですか?」
「もちろん。わたしは女神だもの」
実際に行くかどうかは別の話だけれど。
魔王軍なんかがうろついている場所へ、わざわざ出かけるのは御免だ。
早瀬は少し考えてから、また丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。そのときは、僕が作った建物を見ていただけたら嬉しいです」
建物。
また建物。
わたしより建物の方が好きなのかしら、この男。
「……ええ。楽しみにしているわ」
わたしは次元の扉を開いた。
早瀬は最後にもう一度頭を下げ、扉へ向かった。
「じゃあね、早瀬。絶対に死なないでね!」
「はい。できる限り気をつけます」
「わたしが異世界に会いに行くまで、待っていてちょうだい!」
振り返った早瀬に、わたしはとびきりの笑顔で投げキッスを送った。
ところが、早瀬は少し驚いたように目を瞬いただけだった。
「……それでは、失礼します」
ぺこりと頭を下げ、扉の向こうへ消えていく。
わたしはしばらく、閉じた扉を見つめていた。
「何よ。少しくらい照れてくれたっていいじゃない」
胸元の開いたドレスも、化粧も香水も、ほとんど効果がなかったらしい。
あんなにいい男なのに、女心がまるで分かっていない。
まあ、いいわ。
異世界で苦労すれば、わたしのありがたみも分かるでしょう。
◇
机の上には、七人分の召喚記録が並んでいた。
わたしはその数を確認して、思わず笑みを浮かべた。
これで今月八人目。
残りは二十二人だ。
「一日で七人なんて、なかなかいい稼ぎじゃない」
おまけに、ノクスは七人分の寿命を手に入れて大喜びしていた。
あちらもこちらも得をしたわけだ。
建物の崩壊に巻き込まれた人間たちは災難だったけれど、新しい人生を与えてあげたのだから、むしろ感謝してほしいくらいである。
そのとき、ノクスから短い連絡が届いた。
『本日はありがとうございました。またいつでもお申し付けください』
「ふふっ。こちらこそ」
一人ずつ死ぬのを待つより、こうしてまとめて呼べた方がずっと効率がいい。
ノクスも寿命が増えるし、わたしもノルマを稼げる。
案外、相性のいい商売相手なのかもしれない。
「さて、次は何人お願いしようかしら」




