第7話 死んでほしい男
「アリエス様。例の男性ですが、少し予定を変更したいと思います」
昼過ぎ、ノクスから連絡が入った。
「何よ。また失敗したの?」
『まだ何もしておりませんよ。早瀬律が、以前より用心深くなっていましてね』
先日の看板事故以来、早瀬は仕事先の建物を以前にも増して注意深く調べているらしい。建築士という職業柄、危険な場所を見つけるのは得意なのだろう。
『ああいう方は、事故に遭わせるのが難しいんですよ』
「だったら、もっと危ない場所へ連れていけばいいじゃない」
『人間の意思までは操れませんからね』
死神のくせに、案外できないことが多い男だ。
「こっちは一千万円も払う約束をしているのよ。もう少し頑張ってちょうだい」
『もちろんです。そこで、候補を一つ見つけました』
鏡に古びた商業ビルが映し出された。
何年も前に閉鎖された建物らしく、窓は汚れ、壁には大きなひびが入っている。
『この建物は近く解体される予定で、来週、構造調査が行われます。早瀬律は、その調査を担当する会社の建築士です』
「あら、好都合じゃない」
『明日の午後三時にも、管理会社の立ち会いで下見をする予定です。ただ、問題がありましてね』
ノクスが図面を広げた。
『北側の階段がかなり傷んでいるのですが、明日の確認範囲には入っていないようです』
「そこへ行かせればいいんでしょう?」
『それができれば苦労しませんよ。調査の内容を決めるのは、私ではありませんから』
「まったく、融通が利かないわね」
わたしは鏡の中の建物を眺めた。
せっかく早瀬が来るというのに、危ない場所へ近づかないのでは意味がない。
ほかに何か使えるものはないかと視線を動かしていると、建物の裏手に人影が見えた。
「あら?」
小学生くらいの子供が三人、建物の敷地に入り込んでいた。
どうやら、ここを遊び場にしているらしい。
一人が建物の中へ駆け込み、残りの二人も追いかけていく。少しすると、北側の階段付近から笑い声が聞こえてきた。
「ノクス、あの子たちを見て」
『……なるほど。子供ですか』
「危ない階段の近くで遊んでいるじゃない」
『確かに。建物の管理者は気づいていないのでしょうね』
そのとき、わたしはいいことを思いついた。
「だったら、管理会社に教えてあげればいいのよ」
『ほう?』
「子供が勝手に入り込んで、危ない階段の近くで遊んでいるんでしょう? 放っておいたら怪我をするかもしれないじゃない」
『そうですね。管理者としては、早急に安全を確認する必要があるでしょう』
「でしょ?」
何だ。簡単なことじゃない。
「わたし、ちょっと連絡してみるわ」
『アリエス様ご自身が?』
「人間界に協力者がいるのよ。電話一本で済む話でしょう」
ノクスは少し考えてから頷いた。
『それでしたら、私は明日の現場を確認しておきましょう。ただし、早瀬氏が階段に近づくとは限りませんよ』
「分かっているわよ」
わたしは通信を切り、宮原紗季を呼び出した。
◇
『はい、アリエス様。今日はどうなさいました?』
「ちょっとお願いがあるの。建物の管理会社に電話してほしいんだけど」
『建物、ですか?』
わたしは例の廃ビルの所在地を伝えた。
「近所の子供たちが、建物の中に入り込んで遊んでいるのよ。北側の階段のあたりにいるんだけど、あそこ、かなり傷んでいるらしいの」
『えっ、それは危ないですね』
「そうなの。だから、ちゃんと調べるように伝えてちょうだい」
『分かりました。管理会社を調べて連絡してみます』
紗季はすぐに引き受けてくれた。
こういうところは、あの女のいいところだ。妙な質問をせず、頼まれた仕事をさっさと片付けてくれる。
『それにしても、アリエス様はそんなところまでご覧になっているんですね』
「たまたま目に入っただけよ」
『子供たちに何もなければいいんですが……』
「そうねえ」
わたしは適当に相槌を打った。
子供たちが怪我をしたところで、わたしには関係ない。ただ、明日までに追い出しておいてもらわないと、早瀬が来たときに邪魔になるかもしれない。
その点でも、連絡しておくに越したことはないだろう。
◇
一時間ほどすると、紗季から報告が届いた。
『管理会社に連絡がつきました。すぐに人を向かわせて、子供たちを外へ出したそうです』
「あら、早いのね」
『近所でも、以前から子供が出入りしているという話があったみたいです。建物の管理を見直すと言っていました』
「それで、北側の階段は?」
『明日の下見で、最初に確認してもらえるそうです』
よし。
「誰が確認するの?」
『建築会社の担当者です。早瀬さんという方が責任者だそうで、管理会社から直接連絡してくれるそうですよ』
「そうなのね」
思わず顔が緩んでしまった。
『階段が危険な状態なら、立ち入り禁止にしたり、補強したりする必要があるそうです』
「それは大変ね」
『でも、早く分かってよかったです。子供が怪我をしてからでは遅いですから』
「本当ね。助かったわ」
紗季は嬉しそうに笑った。
『いえ、私は電話しただけですから』
そのとおり。電話しただけなのに、ずいぶん役に立ってくれた。
わたしは礼を言って通信を切った。
これで、紗季の仕事は終わりだ。
◇
「ノクス、聞こえる?」
『はい。いかがなさいました?』
「明日、北側の階段も調べることになったわよ。しかも、早瀬本人が責任者なんですって」
『それは都合がいいですね』
ノクスは図面を取り出し、北側の階段を指で示した。
『ただし、建築士が危険を察知すれば、その場で立ち入りを中止するでしょう。そこは私にも保証できません』
「またそんなことを言って。あなた、死神なんでしょう?」
『死神にも得手不得手がありますので』
「一千万円も取るんだから、得意になってちょうだい」
ノクスは小さく笑った。
『では、明日の下見に合わせて準備しておきます。結果が出るまでは、これ以上の手出しはなさらないでくださいね』
「分かっているわよ。もう何もしないわ」
必要なことは全部済ませたのだ。
あとはノクスに任せればいい。
『それでは、また明日』
通信が切れた。
わたしはもう一度、例の廃ビルを映してみた。
子供たちの姿はなく、建物の入口には新しい立ち入り禁止の札が掛けられている。
これで、あの子たちが危ない階段で遊ぶこともないだろう。
代わりに、明日は早瀬がやってくる。
「ふふっ。楽しみね」
子供を守るために建物を調べて、その大人が死んでしまうかもしれない。
何とも皮肉な話だけれど、わたしには関係ない。
早瀬がこちらへ来てくれれば、それで十分なのだから。




