第三十五話 小さな日常
三月中旬。
北海道の雪は、
少しずつ形を変え始めていた。
白一色だった景色の隙間から、
黒い土が見え始めている。
風も以前より柔らかい。
長い冬が、
ゆっくり終わろうとしていた。
施設裏では、
玲司が薪を割っていた。
乾いた音が山へ響く。
額から白い息が漏れる。
以前なら、
こんな生活をする自分など想像もしなかった。
世界中から追われながら、
薪を割っている。
妙な人生だと玲司は思う。
「危ないよ」
声。
振り返ると凛だった。
両手に洗濯籠を抱えている。
玲司は苦笑した。
「そんな危ない事してないって」
「してるって」
凛は呆れたように笑う。
玲司が斧を振るたび、
木片が雪へ散る。
凛は施設裏のロープへ洗濯物を干し始めた。
白い布が風に揺れる。
その光景を見ながら、
玲司はふと思う。
まるで普通の生活だ。
凛が振り返る。
「どうした?」
玲司は少し迷ってから言った。
「……いや」
「こんな時間、
もう無いと思ってたから」
凛は少しだけ表情を柔らかくする。
「今はあるじゃん」
玲司は何も言えなかった。
その言葉が、
思った以上に胸へ残った。
その頃。
東京。
官邸地下危機管理センター。
巨大モニターには、
世界各地の異常観測データが映し出されていた。
地震。
気候変動。
磁場異常。
だがここ数週間、
その発生率は急激に低下している。
会議室には、
政府関係者と自衛隊幹部が集まっていた。
重い沈黙。
一人の分析官が口を開く。
「対象潜伏後、
異常発生率は六十四パーセント低下」
「特に日本周辺は顕著です」
別の男が低く言う。
「つまり?」
分析官は少し迷った後、
静かに答えた。
「……対象の精神状態が、
世界環境へ直接影響している可能性があります」
部屋が静まる。
誰も否定できない。
初老の高官が腕を組む。
「なら現在は安定状態か」
「はい」
「少なくとも数値上は」
だが若い自衛隊幹部が険しい顔で言う。
「逆に言えば、
崩れた瞬間どうなるか分からない」
その言葉に、
空気がさらに重くなる。
モニターには北海道。
その周辺だけが、
異様なほど安定していた。
別の官僚が口を開く。
「アメリカ側は確保を要求しています」
「中国も監視衛星を増やした」
「欧州側では“救世主派”まで現れ始めています」
混乱。
恐怖。
崇拝。
世界は玲司を、
一人の人間として扱えなくなり始めていた。
その時。
一人の女性分析官が言う。
「ですが……」
全員が見る。
彼女は北海道の安定データを見つめながら続けた。
「もし本当に対象の精神状態と連動しているなら」
「今、
無理に刺激するべきではありません」
沈黙。
それが、
最も正しいように思えた。
だが同時に。
最も危険な放置でもあった。
その頃。
地下研究室。
アリシアはモニターを見つめていた。
北海道近海。
複数の熱源。
エデンの捜索範囲は、
確実に狭まりつつある。
真田が後ろから言う。
「どれくらいだ」
アリシアは小さく答える。
「早ければ数週間」
真田は舌打ちする。
「思ったより早ぇな」
アリシアは視線を落とした。
「……私のせいでもある」
「エデンは私の行動パターンを知ってる」
真田は少し沈黙し、
やがて肩をすくめた。
「今さら誰のせいとか言っても始まらん」
アリシアは少し驚いたように真田を見る。
真田は苦笑した。
「どうせ全員、
とっくに引き返せねぇんだ」
その言葉に、
アリシアは小さく目を伏せた。
夕方。
玲司は施設裏の雪道を歩いていた。
空は灰色。
だが風は柔らかい。
後ろから足音。
凛だった。
「どこ行くの?」
凛は玲司の隣へ並ぶ。
最近、
この距離が自然になっていた。
凛が空を見る。
「今日も静かだったね」
玲司も空を見上げる。
雲の隙間。
薄い光。
玲司は静かに呟く。
「……早く終わりたい」
凛は少し黙った後、
小さく笑った。
「うん、終わらせよう必ず」
玲司が見る。
凛は前を向いたまま続けた。
「逃げ続けるんじゃなくて」
「ちゃんと」
玲司は何も言えなかった。
遠くの山奥。
誰もいない雪原。
そこへ、
微かな赤い光が走る。
レーザー測距。
数秒後。
無音の小型ドローンが、
木々の間を静かに通過する。
機体側面の紋章。
――EDEN。
白い雪の上へ、
小さな赤点がゆっくり動いていた。




