第三十六話 静かな夜
三月下旬。
北海道の雪は、
目に見えて減り始めていた。
施設周辺の森では、
黒い地面が広がっている。
空気はまだ冷たい。
だが風の匂いは、
確実に冬の終わりを告げていた。
その日、
北海道は珍しく穏やかだった。
吹雪も無い。
空には薄く星が見える。
夕食後。
真田は酒を飲みながら古いソファで眠っていた。
アリシアは地下研究室。
静かな夜だった。
玲司は眠れず、
一人で施設の外へ出る。
雪解け水の音。
遠くで揺れる木々。
空を見上げる。
不思議なくらい静かだった。
世界中が混乱しているはずなのに。
ここだけ時間が止まっている。
玲司は小さく息を吐いた。
すると後ろから扉の音。
振り返る。
凛だった。
厚手の上着を羽織っている。
凛は玲司を見ると、
少し笑った。
「やっぱりいた」
玲司は苦笑する。
「何だよそれ」
「最近眠れないと、
すぐ外行くから」
凛は玲司の隣へ来る。
肩が触れそうな距離。
もうそれが自然になっていた。
しばらく二人は黙って空を見ていた。
静かだった。
その沈黙が、
不思議と心地良い。
やがて玲司が呟く。
「……怖いんだよな」
凛が玲司を見る。
玲司は空を見たまま続けた。
「最近」
「普通の生活が、
少し楽しいって思い始めてる」
風が吹く。
凛は何も言わない。
玲司は苦笑した。
「こんな状況なのにな」
「世界中巻き込んでるのに」
「なのに、
このまま終わればいいとか思ってる」
凛は静かに玲司を見る。
玲司は少し俯いた。
「でもさ」
「そう思えば思うほど、
怖くなる」
「全部失う気がして」
その声は、
今までで一番弱かった。
凛は少しだけ迷い、
やがて静かに言った。
「失いたくないって思えるなら」
玲司が見る。
凛は続けた。
「それ、
悪い事じゃないと思う」
玲司は何も言えなかった。
凛は少し笑う。
「前の玲司、
ずっと一人で全部抱え込もうとしてた」
「でも今は違うでしょ」
玲司は小さく目を伏せる。
凛の言う通りだった。
最近。
一人じゃないと思ってしまう。
それが怖くて。
でも同時に、
救われてもいた。
風が吹く。
凛の髪が揺れる。
玲司は無意識に、
その髪へ触れそうになった。
凛が少し目を見開く。
玲司も止まる。
数秒の沈黙。
だが凛は逃げなかった。
玲司はゆっくり手を伸ばす。
凛の頬へ触れる。
冷たい。
でも温かかった。
凛は小さく息を飲む。
玲司は低く呟いた。
「……ごめん」
凛は少しだけ笑った。
「何で謝るの」
その瞬間。
玲司の中で、
何かが切れた。
ずっと抑えていた感情。
孤独。
恐怖。
願い。
全部。
玲司は凛を抱き寄せる。
凛は抵抗しない。
静かな雪解けの夜。
二人はゆっくり唇を重ねた。
遠くで風が鳴る。
世界は静かだった。
その後。
施設へ戻る途中。
凛は玲司の隣を歩いていた。
少しだけ近い距離。
玲司は何となく照れくさくなる。
凛が小さく笑う。
「顔赤い」
「うるさい」
「玲司でもそういう顔するんだ」
玲司は苦笑した。
そのやり取りが、
妙に嬉しかった。
施設入口へ着く。
だが二人は、
すぐ中へ入らなかった。
凛が玲司を見る。
静かな目だった。
玲司はゆっくり凛へ近付く。
凛も離れない。
雪解け水の音だけが響く。
その夜。
二人は初めて、
互いを強く求め合った。
争いも。
宿命も。
世界の終わりも。
その瞬間だけは忘れるように。
ただ。
一人ではない事を確かめるように。
そして。
地下研究室。
無人モニターへ、
微かな波形変化が映っていた。
世界同期率。
通常値を超える、
小さな上昇反応。
静かな夜の中で。
世界は再び、
わずかに揺れ始めていた。




