第三十ニ話 白い静寂
北海道へ到着してから、
十日ほどが過ぎていた。
吹雪は相変わらず激しい。
だが玲司達は、
ようやく“追われない夜”に慣れ始めていた。
山中に埋もれるように建つ旧観測施設。
外から見れば、
ただの廃墟だった。
しかし地下には、
恒一が残した設備と備蓄が存在している。
暖房の低い音。
古い配管の振動。
逃亡生活とは別世界だった。
玲司は施設の窓から、
外の雪を見ていた。
白。
どこまでも白。
東京にいた頃とは、
まるで違う世界。
「また外見てる」
後ろから声。
凛だった。
両手にマグカップを持っている。
玲司は少し笑う。
「何か落ち着くんだよ」
凛は玲司の隣へ立った。
窓の向こうでは、
吹雪が木々を揺らしている。
凛が小さく呟く。
「……静かだね」
玲司は頷いた。
「ああ」
静かすぎるほどに。
それが逆に不気味だった。
ここへ来てから、
世界の異常気象は急激に減っていた。
ニュースでも、
連日の混乱報道が少なくなっている。
まるで。
玲司が落ち着いた事で、
地球そのものが眠っているようだった。
凛が玲司を見る。
「最近、
少し顔色いいよ」
玲司は苦笑する。
「そうか?」
「前はずっと張り詰めてた」
玲司は否定できなかった。
逃亡中は、
常に死を考えていた。
だが今は違う。
少なくともここでは、
少しだけ普通に息ができる。
その頃。
地下研究室。
アリシアは大量のデータをモニターへ映していた。
地磁気変動。
同期波形。
世界規模観測ログ。
そのどれもが、
玲司が北海道へ来てから安定している。
真田が後ろから言う。
「つまり今は平和って事か?」
アリシアは首を横に振った。
「違う」
「静かなだけ」
モニターへ映る波形は、
不気味なほど滑らかだった。
アリシアは低く続ける。
「玲司が安定してるから、
世界も安定してる」
「でもこれは、
解決したわけじゃない」
真田はモニターを見る。
数字だらけの画面。
だが彼にも分かる事があった。
今の静けさは、
薄氷の上にある。
その時。
地下モニターの一つが点滅する。
通信。
真田が応答した。
ノイズ。
そして女性の声。
『……聞こえる?』
葉月だった。
真田が少し笑う。
「生きてたか」
『そっちもね』
葉月の声の奥には、
疲労が混ざっていた。
玲司達も研究室へ集まる。
葉月は続けた。
『世界中かなり混乱してる』
『でも最近、
異常気象が減ったせいで逆に不気味がられてる』
玲司は目を伏せる。
葉月はさらに言う。
『各国政府も今、
様子見に入ってる』
『下手に刺激したら何が起きるか分からないから』
対象。
つまり玲司。
人ではなく、
現象として扱われている。
凛が少し顔を曇らせた。
葉月の声が少し柔らかくなる。
『でも今は少し休みな』
『あんた達、
ずっと逃げ続けてたんだから』
短い沈黙。
その言葉は、
思った以上に玲司へ刺さった。
休む。
そんな事、
許される立場じゃないと思っていた。
通信が切れる。
静寂。
真田が背伸びしながら言う。
「ま、今くらい平和ボケしても罰は当たらんだろ」
アリシアは苦笑する。
「あなたが言うと軽いわね」
「実際軽く考えねぇとやってられん」
玲司は少しだけ笑った。
その空気が、
どこか心地良かった。
その夜。
玲司は一人で施設の外へ出ていた。
雪。
冷たい風。
遠くで木々が軋む。
空を見上げる。
厚い雲。
だが以前のような、
不吉な赤い空ではない。
ただの冬空だった。
玲司は小さく息を吐く。
すると後ろから足音。
凛だった。
「また一人?」
玲司は少し笑う。
「最近眠れなくてさ」
凛は玲司の隣へ立つ。
肩が触れそうなくらい近い。
だが不思議と嫌じゃなかった。
凛は空を見上げる。
「……ここ来てから、
少し普通だね」
玲司は苦笑する。
「普通、か」
「うん」
凛は小さく笑った。
「逃げてるって感じしない」
玲司は何も言えなかった。
その言葉が、
少し嬉しかったから。
その瞬間だった。
施設地下。
誰もいない観測室。
停止していたはずのモニターが、
突然点灯する。
ノイズ。
北海道周辺海域。
その海上へ、
赤い光点が表示される。
識別コード。
――UNKNOWN。
白い静寂の中。
何かがゆっくりと、
北海道へ近付き始めていた。




