第七章 勇気の双眸(7)
少し考えてから、ミシルが問いかける。
「何故そう言い切れるの?」
「あくまでこの魔法陣は人の理性と知恵を崩壊させるものです。その状態を継続させるわけではないんです。でも、一度崩壊した理知は、奇跡でもない限り、もう元には戻りません」
エレカは苦笑いをして、それから、二人に首を振った。
「話よりも先に、まずこれを壊してしまいますね。危ないかもしれないので、魔法陣から出ておいてください」
エレカの言葉に、ミシルとクウは頷いて魔法陣の円から外に出た。それを見届けると、エレカは魔法陣の中心に浮き、魔法陣を見回した。
魔法陣を破壊する前に、魔術的な罠の存在を探っているのだ。彼女は一人頷いて、呟いた。
「うん。もう一戦必要ですね」
それから、ミシルとクウに声を掛けた。
「魔法陣を消そうとすると、守護悪魔が実体化します。戦闘になるので気を付けてください。ちょっと見たことがない術パターンなので、どんな悪魔が出て来るかは、私にも予測が付きません」
魔術的な罠が仕掛けられていることを解析できるだけでもたいしたものだ。エレカは、
「中途半端な情報ですみません」
と、煮え切らない笑顔を見せるけれど、戦闘になる、と事前に警告できるだけでも十分すぎるはたらきだろう。
「分かった。支援は任せて」
ミシルが、無理はしないという意志を、エレカに簡潔な言葉で伝える。クウは相変わらず無言で、ただ既に、いつ戦闘になっても大丈夫だ、とばかりに身構えていた。
「ありがとうございます。はじめます」
エレカは頷き、魔法陣の中心で、今度は大剣を頭上に浮かべて(あとで聞いた話では、大剣自体浮遊の能力があり、マリオネッツの剣と盾ではできないらしい)自分の胸の前で左手の掌を上に向けた。
掌の上に、小さな光の粒が浮かぶ。それは急速に大きくなり。
掌よりも大きな球になったところで、エレカはそれを投げおろすような動作で、魔法陣の中央に叩きつけた。
球が床にあたり、それは魔法陣一杯の光の柱になった。そして、光の中でエレカは大剣の柄を握ると、一直線に真上に舞い上がった。
光の柱の中に、確かに何か禍々しい姿が現れた。それは光の柱に焼かれながら、それでもなお悠然と立っていた。魔法陣の罠で悪魔が呼び出されるのであれば、それごと聖光で焼いてしまえばいい、というのがエレカの目論見だったのだろうけれど、残念ながら、エレカの光の柱は、悪魔にあまり効果がなかったようだった。
「ふむ、良い考えだ。惜しむらくは温いが」
悪魔は光の柱の中で腕を組み、ただ立っていた。ミシルとクウを見回して、それから、エレカを見上げた。
そして、戦う意志も示さず、言葉を掛けた。
「聖騎士レイダーク殿は息災か?」
光の柱が消える。
その中に立った悪魔は黒々とした威容を誇る甲冑のような体をしていて。双眸には赤く炎の瞳が燃えていた。そして、背中には巨大な蝙蝠の翼。
「え? 何故その名を?」
隙を伺いながら大剣を頭上に振り上げていたエレカが止まる。まさに目が点にならんばかりの驚きようだった。そう、その悪魔がその聖騎士と出会った時、エレカはまだそこにはいなかった。
立っていたのは、ネビロスだった。
「うむ。剣を収められよ、マリオネッツ殿。それとも、“正義のマリオネット”と呼んだ方が良いかな。エレカ嬢」
「その名は嫌いです」
エレカが大剣を投げつけそうな目で睨むと、
「知っておる。さて、私は魔法陣の破壊を阻止はせぬ。まずは処理するが好い」
そう言って、ネビロスは魔法陣の外へ退いた。重装の鎧を感じさせない身軽な動作で、構造を破壊しないように跳躍した。
「どういった魂胆ですか」
エレカは信用しない。当然だ。神兵と悪魔は水と油だ。魔法陣の破壊に入った隙を突いて何かをしでかすのではないかと警戒するのも無理はなかった。
「お前に言っても詮無き話ではあるが」
ネビロスは思案顔で、低く唸るように告げた。
「聖騎士殿と共に戦う時が来たのだ」
「何のために、ですか」
エレカが意味の分からない問答に、本気で苛立った声を上げる。倒してしまった方が良いのではないか、という考えが浮かんでいるようだった。
「善と悪が手を結ばねばならぬ危機など、そうはあるまい。思い出すが良い。アースウィルはアリスの死によって“外敵”に対して丸裸に近い状態である。代わりの者が次元を支えているからとて、すべてに十分に手が回せる訳でもない。マリオネッツ殿、まずは成さねばならぬことを急がれよ。近いうちに、アースウィルにデブリスが跋扈し始める。未曽有の危機に陥るのだ。それまでに、成さねばならぬことを成すが良い。それが成らねば、アースウィルに未来はないのだ。理解したか」
そんなエレカの反応には気付いている筈なのに、ネビロスが気にした様子はなかった。それよりも優先すべき問題があると諭すように、あくまで敵意を感じさせない口調でエレカに語った。
そこに、もう一つ、小柄な影が出現する。
ほかでもない。
「ちょっとだけ行ってくる」
と、クリスタル、シーヌ、ネーラに告げて亜空間から出た僕だ。
「やあ、ネビロス。君から預かった指輪は一度だけ利用させてもらったよ」
以前あった時の、圧倒的な力の差は感じなかった。今だからこそ分かる。根柢の思想を語り合えば、僕とネビロスが相容れることはないだろう。けれど、それは次元宇宙の危機に際して協力できないということは意味していなかった。
「おお、聖騎士殿。久方ぶりであった。ふむ、随分成長したのだな。指輪も役に立ったようで何よりだ」
ネビロスも大きく鷹揚に頷いて、僕を出迎えてくれた。短い挨拶を済ませ、僕はあまり時間を掛けないように、エレカに声を掛けた。
「彼は敵ではないよ、エレカ。安心して良い。悪だろうと善だろうと、自分の縄張りを荒らす同じ外敵に立ち向かう意志があるのなら、それは一時でも共に戦える戦力だ」
それはエレカにも分かっている筈なことで。善だとか、悪だとか、思想に凝り固まって拘っている時ではないのだ。外世の敵は善悪区別なく善次元宇宙を無差別に狙っている。だからこそ、今は思想の垣根を踏み越える勇気が必要な時なのだ。
「一時の拠点に案内しよう。来てくれるな、ネビロス。状況はまだ平静で、成り行きを見守るしかない情勢だけど、その時が来るまで一緒に待機していた方が良いだろう。加勢に感謝する。君がここにいるとエレカが警戒するようだから、面倒を避けるために迎えに来た」
それからまた、僕はネビロスにそんな風に話した。ネビロスはまた頷き、
「うむ、行こう」
とだけ、答えた。
だから、僕はエレカとはほとんど話もしないまま、すぐにネビロスを連れて亜空間の、クリスタルの拠点に戻った。コボルドと悪魔は姿を消し、地下空洞に静けさが戻った。
「魔法陣を壊します」
吐き捨てるように、エレカがミシルとクウに告げた。そこにはネビロスに対する憎悪というよりも、ちゃんと説明して去らなかった僕への不満があったように思う。
「何だか疎外感を感じましたけど、急がなきゃならない時なのは、悔しいけど本当です」
エレカはもう一度光の球を生み出し、魔法陣に叩きつけた。自分だけ除け者にされたような憤懣をぶつけるように、一度目よりも荒々しく。
だから、力加減を間違えたのだろう。
魔法陣の底が抜け、魔法陣を作っていた石柱や、発光体が載った棒などを巻き込みながら、空洞の床が底の見えない奈落に崩落して行った。あるいは、それが魔法陣を破壊された場合の、物理的な最終的な罠だったのかもしれない。浮遊しているとはいえ、ミシルとクウが魔法陣の中に残っていたら、無事ではすまなかったおそれは十分にあった。
「あ」
と、エレカが短い声を上げる。
怪我の功名、とでもいうべきなのか。
目視できない奈落の底に、エレカは、何かの気配を読み取ったようだった。しばらく深い穴を眺め降ろした後、エレカは深く息を吸い、吐いた。
「何だか都合が良すぎる気もしますが」
うっすらと笑って。
「シューカへの道が開いたみたいです」
「そういうこと」
とだけ、ミシルがくぐもったような声を上げた。
巻き込まれて床ごと奈落の底に落ちていたら、と、恐怖を感じていたのだろう。




