第六章 胡蝶の悪夢(1)
僕達(僕、シーヌ、エレカ、チリッカ、ルイーザ、オリビア、ミシル、クウの八人だ)は、亜空間に戻り、すぐにクリスタルに保護された。前回同様クリスタルのドームに連れて行かれた後、僕はインビンシブルがそう提案した通りに、クリスタルに、マザー・アリスを閉じ込めた小妖精のことを尋ねた。
「インビンシブルに、ここで聞いた方が良いと言われたんだけど」
僕の言葉に、クリスタルは僅かながら困惑の表情を浮かべた。まるで関わり合いになりたくない、と言っているような目で。けれど、彼女は、はぐらかしはしなかった。
「そうですね。彼女も、私を襲うようなことはしないでしょう。そういう意味では、私がいる場所が、彼女のことを知るのに、最も安全な場所とも言えるかもしれません」
そう言って、目を伏せて。
それから、顔を上げたクリスタルが口を開きかけた時、唐突にドームの天井近くから高くて低い、独特な響きの声が上がった。
「お前に私のことをべらべら喋られたくない。お前に任せると、とんでもない悪党呼ばわりされそうだ。ああ、悪党なのは本当だったな」
それは、確かにフェアリーだった。
銀糸のような、月の光を集めたように輝く、癖の強い髪は長くなく。夜空のような濃紺の蝶の翅は、けれど、かすかな光を放っていて。ひどく冷たい視線を降らせている瞳は、まるで月食の月のように暗い緋色をしていた。
うっすらと血の通いを示す肢体も淡い光を纏っていて白く。裾の長いイブニングドレスと、水晶のような透明な沓を穿いた足は、まるで力強さとは無縁な細さだった。
その幻想的な容姿とは裏腹に、態度は極めて悪く、ベッド上で踏ん反り返って転がったような姿勢で、足を組んで浮いていた。
「よう。相変わらずしみったれてるな」
フェアリーは子供のように笑って、知り合いに久々に会ったくらいの気軽さで、左手を上げてクリスタルに挨拶した。その目は、真っすぐではなく、横目だけでクリスタルを見下ろしていた。
そして。
左手を返し、掌を天井に向けて、ゆっくりと降ろした。虚空に波紋が広がり、何か石の塊が引きずり出されてくる。途中まで見えた段階で、それが何なのか、僕にもすぐに分かった。石化されたマザー・アリスの肉体だった。
「お前達がやけに頑張るから、柄にもなく感動しちまった。持ってきてやることにした」
そう言って、フェアリーは、ドーム中央の転送ゲート発生具の上に、マザー・アリスの体を、指も触れずに手振りだけで無造作に降ろした。
「当然、返してやっても良いってことさ。只って訳にはいかないけどな」
フェアリーは僕達を見ない。まるで虫けらか何かだと思っているように、これっぽっちの興味もない態度だった。
「私を満足させてくれたら返してやるよ」
「君と戦えということか?」
僕が尋ねると、
「お、良いね。その冗談なかなかだ。お前、名前は? 覚えといてやるよ」
フェアリーは喉の奥で小馬鹿にした笑いを漏らした。そして、圧倒的格下を見る冷めた目で僕を見た。それから、一回目を逸らして、もう一度、今度は興味深そうに僕を見た。僕が答える前に、一方的に話を続ける。
「ん? お前面白いな。気が変わった。戻してやるよ」
左手の指を鳴らして。フェアリーが僕達を見回す。
「そこか」
と、シーヌを指差して、石化したマザー・アリスの肉体の方に向けた。マザー・アリスの肉体の石化が解け、シーヌの体から引き抜かれるように淡い光の塊が肉体の方に移動した。光の塊はマザー・アリスの肉体に染み込むように消えて行った。
マザー・アリスの体が石の色から、肌色に変わる。彫刻のようだったドレスも、白い衣装として揺れ始めた。マザー・アリスは立ったまま眠っていた。
「しばらくしたら起きる」
フェアリーの言葉に。
ほとんど皆がほっと安堵の表情をしていた。
その中でも、クリスタル緊張を崩さない。そしてもう一人だけ。誰あろう、僕は警戒を続けるべきだという確信を得ていて。すぐさま飛び出した。
マザー・アリスを元に戻したフェアリーが、指を再度マザー・アリスに向けるのに、ぎりぎりのタイミングだった。
聖者の盾を構えて、マザー・アリスを庇う。フェアリーの指から放たれた小さな礫が聖者の盾の表面にあたる瞬間、正面から受けては駄目だと感じ取り、僕は盾を滑らせ、それを受け流して軌道を逸らした。
礫が床に拳大の穴を開けて突き刺さる。それは材質の分からない、恐ろしく頑丈そうな床板を食い破るようにめり込んで見えなくなった。聖者の盾で受け止めていたら、おそらく僕ごとマザー・アリスを貫通していたことだろう。
「施設をこれ以上破壊するのなら、私も怒りますよ」
流石にクリスタルも表情を変えた。フェアリーを不快そうに睨んで、警告の言葉を吐いた。まるで、僕達のことはどうでもいいような不満の示し方だった。本当に僕達がどうなろうと興味はないのかもしれない。
「はいはい、そうかよ」
フェアリーはつまらなさそうにクリスタルに答え、それから、もう一度僕を見下ろした。
「しかし、お前。ますます良いね。まさか反応できるとは思わなかった。しかも無傷で切り抜けやがった。面白いじゃないか。本当、小憎らしい程楽しいね。ああ、愉快、愉快」
楽しんでいる声ではなく、むしろ、苛立ちすら感じさせるような、ぞっとするような声だった。全身をチリチリと炙られるような不快感に襲われる。僕はそれでも睨み返した。息と一緒に胃の腑の液を吐いてしまいそうで、言葉を発することはできなかった。
他の皆がどんな表情をしていたのかは分からない。僕には彼等を気にする余裕はなかった。そんな僕を見下ろしながら、フェアリーは告げた。
「コチョウ、もしくは、ルインズバース」
一瞬、その言葉に、意識を持って行かれかかる。けれど、僕は歯を食いしばって耐えた。クリスタルの時のようには気絶はしなかった。エレカとクリスタル以外の皆がバタバタと倒れていく音が聞こえていた。
僕の口の端から血が滴った。赤い血だ。僕の血は青くはない。口の中の何処かを噛み切ったのかもしれない。
気持ちを落ち着かせる。大丈夫だ、恐ろしくはない。ただ不快なだけだ。胃の腑のむかつきは消えないけれど、それも耐えがたいものではなくなってきている。
「覚えておこう。僕は、ラルフ。あるいは、レイダークと覚えてくれればいい」
「覚えた。ま、まだまだお前じゃ足りない。次は、ちゃんと楽しませてもらいたいもんだ」
そう言って、コチョウは消えた。
不吉な言葉だった。急に恐怖がこみあげてくる。怖かった。振り返ってはいけない。僕の何かが、そう警告を発していた。
エレカが飛んでくる。僕の前まで来て。
無言で首を振った。
それで何となく分かった。それでも、振り返らない訳にはいかなかった。
ゆっくりと振り返る。
僕とほとんど同じ高さにあった筈の、マザー・アリスの頭が見えない。荒い息が聞こえる。酷く耳障りな音に聞こえた。僕の息だった。
足元を見下ろす。
何かがあった。見るに堪えない何かが。
ひどく匂う。血と、肉の匂いだ。
一体コチョウと名乗ったフェアリーが、何のためにこんなことをするのか、全く理解できなかった。何の目的が、何の得があるのか、さっぱり分からなかった。
そこにはマザー・アリスがいた筈だった。もうしばらくすれば目覚める筈だった。けれどそこにあったのは赤茶けた液体に塗れたただの塊で。
それは原形を既に留めていなかった。
ただ分かることは、マザー・アリスは死んでしまったということで。マザー・アリスの力で生まれたアリシオンは、彼女の力無しに維持はできないということだった。
アリシオンの、崩壊へのカウントダウンが、始まったのだ。




