第四章 世界の彼方(6)
インビンシブルは、僕達を見回して、
「じゃ、行くか。ラルフ、案内は任せた。歩きながらでいいから聞いてくれ」
と、告げた。僕はその話を聞いてから出発した方が良いのではないかとも思ったけれど、インビンシブルがそう言うならと、シーヌを隣に呼んで歩き始めた。その後ろにミシルとクウが続く。マリオネッツが僕達を取り囲み、周囲の警戒を始めた。
インビンシブルはミリルのクウの頭上で飛び、エレカは僕の頭の上だ。エレカの自主性に任せ、戦闘に立たせていたのはたった数時間だったのに、頭の上にエレカがいるのが、とても久しぶりに感じた。
「亜空間には姿の定まらない化け物がうようよしてる。あいつらは、俺達の中に、因縁がある相手や恐れてる相手がいるヤツがいると、そいつの思考を読み取って、因縁のある姿になって襲ってくる。さっきのはそういうことだ。逆に言えば、あんなのがまだまだいるってことだ」
インビンシブルの話は嬉しいものではなかった。彼の話を整理すると、つまり、
「下手をすると、レダジオスグルムの大群が襲ってくる訳か」
そういうことだろう。
「ああ、察しが良いな。その通りさ。ま、そうはいっても本人と同等までの力はないからな、さっきの様子じゃ、数匹までなら問題ねえだろうが、数が多いとちとヤバい。そうなったら、逃げるが勝ちだ」
そうだろう。一〇匹単位のレダジオスグルムの影など、考えただけでもぞっとする。僕は身震いを抑えることができなかった。
「それは確かに嫌ですね」
エレカも縁起でもない、という顔をした。ミシルやクウは良く分かっていないようだけれど、
「さっきの巨竜が大挙して押し寄せてくるかもしれないって話だよ」
と教えてあげたら、分かってくれたようだった。ミシルの口から、うへえ、という声が漏れたと思ったら、
「無理」
まるでクウのように言葉少なに、言った。そうだろう、僕だって無理だ。逃げるが勝ちというより、逃げるしかない。
「エレカは、そういうのいないの?」
念のために聞いておく。マリオネッツは兎も角、邪悪狩りをしていたエレカにはいそうな気がした。
もしかしたら聞くべきではなかったのかもしれないけれど、皆の安全の為に確かめておく必要があったのだ。エレカはそれが分かっているようで、すんなり答えてくれた。
「どうなんでしょう。倒さなければならなかった対象はすべて倒してきましたし、繰り返し戦った同一個体もほとんどいません。強いて言うなら、怖いひとならいるくらいですね。でも多分、ご本人がここにいますから、ご本人が偽物に負けることはないと思います」
ああ、成程。
僕は理解した。
「自惚れかもしれないけど、それって、僕のこと?」
「他にいません。嫌いなひの姿をとるのであれば、インビンシブルが一杯襲ってくるんでしょうけどね」
ちゃっかりとインビンシブルは嫌い、という話を混ぜてくる。そこまで嫌う程悪い奴ではないとは思うのだけれど、それだけ彼の求愛が迷惑なのだろう。そればかりは僕も認めざるを得ない。
「それなら本物のカッコよさを教えてやるだけさ。お前が心配することはなにもねえよ」
それに対して、インビンシブルは何処までも強気だ。エレカはその自信は何処から来るのかと表情を歪めた。
僕は歩きながらシーヌの横顔を見上げた。果たして彼女の思考が読まれたら何が襲ってくるのか、何にしろ、彼女の心に良い影響はないのではないかと心配した。
「大丈夫」
シーヌは横目で僕を見下ろして、かすかに笑った。
「エレカの瞳の中には、ほんの少しだけど、上手に隠しているけど、私と同じ傷が見えた。その子はそういうことは語らないけど、邪悪狩りとして生きてきた日々の中には、いろんな悪いこともあったんだと思う。でもエレカはきっと、どんな最悪の目にあっても、必死に這い上がって生き抜いてきたんだ。だから、私もエレカを見習って、一度だけでも必死に生きてみようと思う。だめかもしれないけど、私はその子みたいには強くはないんだろうけど、でも、一回も挑まないで、負けるのは嫌だ」
「私だって強かった訳じゃないですよ。覚悟もないのに、ただの手違いで、邪悪狩りの見習いの、訓練という名の実戦に叩き込まれたんです。うまくいく訳ないじゃないですか。見習い時代には、一杯負けました。一杯苦渋も味わいましたし、辛酸も舐めました。でも、私はただの手違いが原因で死ぬのは嫌でした。壊れるのも嫌でした。私はただ、自分を悲嘆したらすべてが壊れてしまうってことを知っていて、それだけが私の原動力でした。それに」
と、エレカはまるで他の誰かの話をするように、何の情緒もなく淡々と語った。
「私が諦めたら、沢山の誰かが犠牲になるのだと、正規の邪悪狩りの人達から繰り返し聞かされていたから。それが怖かったんです。それしかなかったです。必死だったのだけはその通りです」
確かにそうかもしれない。言われてみれば当然のことだ。僕は聖騎士見習いの間の実戦は、数えるほどしかない。それは普通のことではなくて、異例の速さで正規の聖騎士になったからだ。
数少ない実戦も、山賊とか、ネザー・フォーリンといった比較的危険の少ない相手ばかりで(それでもコボルドの僕には危険な相手ではあったけれど)一番強かったのが、そのまま心強い味方になってくれたムイムだったくらいだ。エレカが相手をした邪悪とは比べ物にならない程危険の少ない経験だったのだろうと思う。邪悪狩りの見習い期間に、エレカはどんなに無茶な相手に挑んだのだろう。僕には想像もつかなかった。
「私の場合、初めての実戦から、乱戦でした。正規の邪悪狩り三人について学ぶはずだったんですが、あっという間に全員見失って、気が付いた時には私は化け物達に囲まれて鳥籠みたいな檻の中でした」
そのあとのことは聞かない方が良いのだろう。分かることは、よくその状態から、邪悪にも堕ちず、生き延びたものだということだけだ。
「運が良かったんです。ある日、化け物達が鳥籠の鍵をかけ忘れて、私はそれで逃げ出すことができました」
僕の疑問の視線に気付いて、エレカはそんな風に言った。
「逃げ出すことに成功するまでの間のことは……天盤が標的にするような邪悪が、天盤の者を捕まえたらどんな扱いをするかは、想像できますよね?」
「そうだね。無理に話す必要はないよ」
僕が言うと、
「あ、そうじゃないです。酷い目に遭ったのはそうですけど、そういう目じゃないですよ」
エレカは慌てたように、何かを必死で訂正した。どういう意味で言っているのかは何となく想像がついたけれど、それを確かめている場合ではなさそうだった。
「見えてきたな」
マザー・アリスを捕えている結界が見えてきたのだ。見るからに結界といった風の鈍く光る球体の中に、一〇才にも満たない女の子の姿があった。長く垂れた髪と、子供らしいワンピースドレスを着た、およそ女神というイメージからかけ離れた、幼い容姿。けれどその姿は、髪や瞳、服装の色を知ることはできなかった。何故なら、その女の子は。
「石像?」
と、ミシルが声を上げた。おそらく魔法だろうけれど、女神をそこまで完璧に封じられるのは、どんな存在なのか。マザー・アリスは、石化させられていた。
「待て。全員止まれ」
結界に近づこうとする僕達に、唐突に、インビンシブルが警告を発した。
「これ以上あれに近づくな」
一瞬彼の警告の意図が掴めなかったけれど、すぐにその理由が分かった。複数の煤けた影が、結界の向こうから、結界を回り込んで姿を現したのだ。
数は一〇体。けれど、レダジオスグルムの影ではない。もっとずっと小さな影だった。人間くらいか、それよりも少しだけ大きいくらいか。
「下がるぞ。ゆっくりだ。刺激するな」
インビンシブルはその影が何だかすぐに気づいたようだった。彼は僕達に声を掛けて、ゆっくり下がるように言った。
煤けた影の形が、だんだんはっきり見えてくる。影は上半身は人間の女性のように見えた。そして。
下半身は、魚のようだった。
「マーマン?」
何故そんなものにそこまで警戒を抱くのかが、分からない。マーマンはオールドガイアにもたくさんいる。それ程危険という訳でもないし、強大な種族でもない。水中で遭遇するものとしては、どちらかといえば、むしろ危険が少ないくらいだ。
「マーマンですね」
エレカも頷いた。けれど、彼女はあまり楽観的には見ていないようだった。
「でも、何となく、嫌な予感がします」
「流石は嫁だ、鋭いな。あいつは、駄目だ」
インビンシブルの返事に、
「嫁じゃないです」
きっぱりと答えて、エレカは首を振った。
「でも、撤退はしましょう」




