第2話『完璧な偶像のひび割れ』
その時、集団の中にいた一人の男子生徒が、玲奈の隣に座り込むようにして顔を近づけた。サッカー部のエースで、校内でも目立つ存在の彼だ。彼は最近、隙あらば玲奈に近づこうとしていると噂になっていた。
「なぁ九澄、今週末暇? 駅前にできたカフェ、すげー美味いらしいんだけど、一緒に行かない?」
周囲の生徒たちが「おっ」と冷やかすような声を上げる。玲奈は困ったように微笑みながら、やんわりと断りの言葉を口にしようとした。
「ごめんなさい、今週末は生徒会の資料作りが――」
「えー、いいじゃん息抜きくらい! 俺が手伝ってやるからさ」
男子生徒はそう言うと、強引に玲奈の手に自分の手を重ねようとした。
ドクン、と結衣の心臓が嫌な音を立てた。
触るな。
喉の奥まで出かかったその言葉を、結衣はパンごと無理やり飲み込んだ。自分にはそんな権利はない。ただのクラスメイトであり、放課後の旧図書室で少しだけ秘密を共有しているだけの、日陰の存在だ。あんな光の当たる場所に割り込んでいけるわけがない。
玲奈は重ねられそうになった手を机の下に隠すようにして躱し、見事な愛想笑いと話題転換でその場を切り抜けた。さすがの手腕だった。だが、その直後、玲奈の視線が教室の隅にいる結衣を正確に射抜いた。
冷たい、ガラス玉のような瞳。
助けを求めるような、あるいは、激しい非難の色を帯びた強烈な視線。
結衣は心臓を素手で掴まれたような息苦しさに耐えきれず、逃げるように目を逸らしてしまった。そのまま立ち上がり、逃げるように教室を出る。背中に突き刺さる視線を感じながら。
その日の放課後。
重い足取りで旧図書室の扉を開けた結衣を待っていたのは、いつものような微睡むような静寂ではなく、張り詰めた、冷たい空気だった。
「……遅い」
窓際に立つ玲奈の声は、いつもの甘えるような響きを一切含んでおらず、氷のように冷たかった。西日を背に受けた彼女の表情は逆光で読み取れないが、その華奢な肩が微かに震えているのだけはわかった。
「ごめん。日直の仕事が長引いて」
「嘘。逃げたでしょ」
玲奈がカツン、とヒールを鳴らして一歩、結衣に近づく。
「昼休み、私があんなに困っていたのに、結衣は目を逸らした。あの男が私に気安く触れようとしたのに、結衣は助けてくれなかった」
「……私が出ていけるような雰囲気じゃなかったし。玲奈、自分で上手くかわしてたじゃない」
「そういうことじゃない!」
玲奈の金切り声が、埃っぽい部屋に反響した。
結衣は驚いて目を見開いた。玲奈がこんな風に感情を剥き出しにして怒鳴るのを、初めて見たからだ。
「私が誰に愛想を振りまいても、誰に誘われても、誰に触られそうになっても、結衣は平気なんだね。結衣にとって私は、ただ放課後に愚痴を聞いてあげるだけの、可哀想な生徒会長ってだけなんでしょ? 優越感に浸るための、ただの道具なんでしょ!」
自嘲気味に笑う玲奈の言葉に、結衣は息を呑んだ。
違う。そんなふうに思っていたわけじゃない。むしろ逆だ。あの男の手をへし折ってやりたいと思うほど、腹の中は真っ黒な嫉妬で煮えくり返っていた。
「玲奈、落ち着いて……」
「結衣はずるいよ。私にだけ弱みを見せさせて、自分は安全なところから見ているだけ。私ばっかりが結衣に依存して、結衣がいなきゃ息もできないのに、結衣は私がいなくても平気なんだ!」
玲奈の目から、ぽろりと大粒の涙が零れ落ちた。
完璧な偶像の顔が崩れ、嫉妬と執着にまみれた、等身大の傷つきやすい一人の少女の顔がそこにあった。
「私ばっかり、結衣のことが好きなのに…⋯っ」




