第1話『透明な窒息と、君の温度』
今回の作品は百合と恋愛、依存心と執着心をモチーフに執筆致しました。結衣と玲奈の淡い恋物語を是非、楽しんで行ってください!!
放課後の旧図書室は、世界から切り離されたような静寂に満ちている。
すでに役目を終え、新校舎の図書室にその座を譲ったこの部屋には、日焼けした背表紙の古い文学全集と、微かな埃の匂いだけが沈殿していた。西日がブラインドの隙間から差し込み、空中に舞う微小な塵を黄金色に染め上げている。遠くグラウンドから微かに聞こえる吹奏楽部のチューニングの音すら、分厚い壁に阻まれてひどく遠い。
浅葉結衣は、窓際の指定席で文庫本に視線を落としていた。活字を追ってはいるが、物語の情景はまったく頭に入ってこない。彼女の神経は、ページの上ではなく、廊下から近づいてくる微かな足音に全集中していたからだ。
コツ、コツ、と硬いローファーの音が近づき、扉の前で止まる。
カチャリ、と合鍵が回る音。
「……結衣」
重い木の扉の隙間から現れたのは、この学校の生徒であれば誰もが知る、完璧な偶像だった。
透き通るような白い肌に、艶やかな黒髪。誰もが振り返る美貌を持ち、成績は常に学年首席。教師からの信頼も厚く、生徒会長まで務める才色兼備の象徴、九澄玲奈。校内を歩けば誰もが道を譲り、憧望の眼差しを向ける彼女が、今はひどく頼りない足取りで室内へと滑り込んでくる。
「お疲れ様、生徒会長様。今日は五分遅刻」
結衣が本から視線を上げずに言うと、玲奈はふらふらとした足取りで歩み寄り、結衣の隣のパイプ椅子に崩れ落ちるように倒れ込んだ。外で見せる凛とした姿勢や、誰もを魅了する微笑みは見る影もない。まるで、背中に入っていたぜんまいが急に切れてしまった操り人形のようだ。
「もう……限界。息が、できない……」
玲奈は掠れた声でそう呟くと、結衣の肩に重い頭を乗せてきた。制服の隙間から、微かに甘いバニラと、清潔な石鹸の匂いがふわりと香る。結衣は慣れた手つきで本に栞を挟んで閉じ、自分の肩に顔を埋める玲奈の柔らかな髪をそっと撫でた。
「今日は何があったの」
「……特進クラスの担任に、進路のことで嫌味を言われた。私が生徒会なんてやってるから模試の判定が落ちたんだって。そのあと、一年生の女子に泣きつかれて部活の揉め事の仲裁。おまけに、副会長は自分の分の書類整理を半分私に押し付けて帰った……」
「散々だね。副会長の仕事、明日しれっと机に戻しておけばいいのに」
「そんなことできないよ。私がやれば、丸く収まるんだから」
玲奈は結衣の首筋に顔を擦り付けるようにして、深く、深く息を吸い込んだ。まるで、冷たい水面からようやく顔を出して、必死に酸素を貪るように。
誰も知らないことだが、完璧な生徒会長である九澄玲奈は、極度のプレッシャーや周囲の期待に押し潰されそうになると、こうして結衣の元へ逃げ込んでくる。彼女にとって結衣の隣は、唯一完璧でなくても許される、息継ぎの場所だった。
「結衣の匂い、落ち着く……。頭の中のノイズが、全部消えていくみたい」
「汗臭くない? 今日、体育で持久走があったんだけど」
「それがいいの。結衣がちゃんとここで生きてるって感じがするから。……結衣の体温、すごくあたたかい」
玲奈の細い腕が、結衣の腰にしがみつくように回される。その強い力に、結衣は胸の奥が甘く疼くのを感じた。
結衣は、絵に描いたような平凡な生徒だ。成績は中の中、目立つこともなく、特定のグループに属するわけでもない。休日は家でゲームをするか本を読むかして過ごす、モブそのもの。
けれど、この絶対的なカーストの頂点にいる少女が、自分にだけこんなにも無防備でだらしない姿を晒し、自分がいなければまともに呼吸すらできないという事実に、結衣は仄暗い優越感と支配欲を満たされていた。
「結衣」
「ん?」
「頭、もっと撫でて。……えらいねって、言って」
普段の彼女からは想像もつかないような、甘ったるい声。結衣は微かに口角を上げ、玲奈の艶やかな黒髪をゆっくりと梳くように撫でた。
「えらい、えらい。今日の玲奈は、誰よりも頑張ったよ」
「……んっ、もっと……」
「よしよし。可哀想な私の生徒会長。もう今日は何もしなくていいよ」
窓の外では、夕陽が校庭を赤く染め上げている。
二人の影が古い床板に長く伸び、やがて境界線をなくして一つに重なっていった。結衣は玲奈の背中を一定のリズムで叩きながら、この密室の時間が永遠に続けばいいと、そしてこの美しい生き物が永遠に自分の腕の中から飛び立てなくなればいいと、ひそかに願っていた。
2話に続きます。




