温厚腹黒貴公子の心情
セシリアが羞恥のあまり図書塔から逃走したあと、閲覧室には妙な静けさだけが残っていた。
高窓から差し込む西日の色はすでに橙へ傾き始めており、長い書架の影が床へ細く伸びている。先ほどまで騒がしかった空間は嘘のように静まり返っているのに、どこか熱だけが残っているような空気だった。
アシュレイ・クロフォードは、その残滓を眺めるように、開け放たれた扉の方へ視線を向けたまま小さく息を吐く。
「……本当に嵐みたいな女だな」
半ば呆れたような声音だった。
だがそこへ、
「随分と楽しそうだったな」
穏やかな声が落ちてきた瞬間、空気がわずかに変わった。
アシュレイは振り返る。
渡り廊下の奥から歩いて来たのは、先程までの話題の主レオンハルトだった。
夕陽を受けた金髪は淡く輝き、端正な顔立ちにはいつもの柔らかな笑みが浮かんでいる。誰が見ても理想的な貴公子の姿だろう。
だが長年付き合いのあるアシュレイには分かる。
今のこれは、“機嫌は悪くないが、面白くも思っていない顔”だ。
「見ていたんですか」
「途中からな」
レオンハルトは静かに歩み寄る。
靴音は穏やかなのに、妙に存在感がある。
高位貴族として育った者特有の圧だった。
「随分とセシリアへ容赦がなかったようだ」
「甘やかしても改善しないでしょう、あれは」
「改善させる必要があるのか?」
さらりと返され、アシュレイは一瞬だけ黙った。
レオンハルトは笑っている。
笑っているのだが、目だけが妙に静かだった。
「レオンハルトは昔から、あの方へ甘すぎます」
「そうか?」
「そうですよ」
アシュレイは肩を竦める。
「普通なら面倒臭いと感じる類です。好きな相手へ毎回ツンケンし、勝手に嫉妬し、勝手に沈み、挙句“隠せている”と思い込んでいる」
「可愛いだろう?」
「……即答しますか」
レオンハルトは本当に迷わなかった。
むしろ少し誇らしげですらある。
「頑張って平静を装っているのに全然隠しきれていないところとか、嫉妬して落ち込んでいるくせに意地を張るところとか、見ていて飽きない」
「完全に惚気ですね、それ」
「婚約者だからな」
さらりと言い切る。
アシュレイは眼鏡の奥でわずかに目を細めた。
この温厚腹黒貴公子、普段は穏やかなくせに、セシリア関連になると妙な独占欲を出す時がある。
もっとも本人は割と無自覚だ。
だから厄介だった。
「ただ」
レオンハルトがふと足を止める。
柔らかな声色は変わらない。
だが、ほんの少しだけ低くなった。
「俺の婚約者が、他の男へあそこまで弱音を吐いているのを見るのは、あまり愉快ではないな」
アシュレイは瞬きをした。
ああ、来た。
そう思った。
レオンハルトは笑顔のままだ。
怒っているわけではない。
責めてもいない。
だが確実に牽制している。
「別に口説いていたわけではありませんよ」
「分かっている」
「むしろ毎回面倒を見させられている側なんですが」
「それでも、だ」
レオンハルトは静かに笑う。
「セシリアは昔から、気を許した相手へだけああいう顔をする」
その言葉には妙な熱があった。
独占欲、と言うほど露骨ではない。
だが、自分だけが知っていたいものを他人へ見せられたような、そんな感情が滲んでいる。
アシュレイはそこでようやく納得した。
この男も、思った以上に重い。
「……レオンハルトも大概ですね」
「何がだ?」
「自覚なしで牽制してくる辺りが」
するとレオンハルトは、少しだけ困ったように笑った。
「別に君を警戒しているわけじゃない」
「でしょうね。私がセシリア嬢を恋愛対象として見ていないことくらい、レオンハルトは理解している」
「ああ」
「なのに気に入らない」
「まあ、多少は」
認めるのか。
アシュレイは思わず笑いそうになった。
普段は余裕の塊みたいな顔をしているくせに、婚約者関連になると時々妙に子供っぽくなる。
そこがこの男の人間臭いところだった。
「安心してください、レオンハルト」
アシュレイは肩を竦める。
「私はああいう面倒臭い女は御免です」
「そうか」
「ええ。毎回感情の起伏へ付き合わされる側の苦労を考えてください」
「俺は楽しいが」
「重症ですね」
レオンハルトは否定しなかった。
むしろ少し笑っている。
完全に惚れた男の顔だった。
その時だった。
廊下の向こうから、控えめな足音が聞こえる。
びくびくした気配が近付いてくる。
見るまでもない。
セシリアだった。
おそらく羞恥で逃げたあと、「さすがにあのまま逃走するのは子供っぽかったのでは」と反省し、戻ってきたのだろう。
実に彼女らしい。
そして案の定、角からそろりと顔を覗かせたセシリアは、レオンハルトの姿を見た瞬間、ぱっと固まった。
「レ、レオンハルト様……!?」
顔が赤くなる。
分かりやすすぎる。
レオンハルトはそんな婚約者を見て、自然と目元を和らげた。
「落ち着いたか?」
「……うぅ」
否定できない時の声だった。
セシリアは気まずそうにもじもじ視線を逸らす。
その姿があまりにも可愛らしくて、レオンハルトは少しだけ笑う。
だが次の瞬間。
「セシリア」
不意に、声が少しだけ近くなった。
いつの間にか目の前まで歩み寄っていたレオンハルトが、柔らかな笑みのまま彼女を見下ろしている。
「悩みがあるなら、俺へ言ってくれ」
「……え?」
「他の男へ弱音を吐かれると、少し複雑だ」
穏やかな声音だった。
責める響きはない。
なのにセシリアは一瞬で真っ赤になる。
アシュレイは思った。
うわ、重い。
だが当のセシリアには、その“重さ”がむしろ嬉しかったらしい。
「わ、わたくし別に弱音なんて……!」
「吐いていただろう」
「うぅ……」
否定しきれずしおしおになる。
レオンハルトはそんな彼女を見つめながら、ふっと目を細めた。
「君が俺を好きすぎて暴走しているのは知っている」
「〜〜〜〜っ!!」
セシリアの顔が爆発した。
「な、ななな何を突然……!!」
「だから、一人で抱え込まなくていい」
そう言ってレオンハルトは、羞恥で固まる婚約者の髪をそっと撫でる。
優しい手つきだった。
独占するようでいて、甘やかすようでもある触れ方。
「君が不安になるくらいなら、最初から全部話してくれた方が嬉しい」
セシリアは完全に限界だった。
顔を真っ赤にしたまま俯き、小さく震えている。
アシュレイは思う。
なるほど。
これは確かに成立する。
片方があれだけ面倒臭くても、もう片方がそれを丸ごと愛おしがっているのなら、案外うまく噛み合ってしまうのだろう。
――まあ、見ている側は大変腹立たしいのだが。




