陰険眼鏡登場
セシリア・エヴァンローズは、その日、学院の図書塔最上階にある閲覧室の机へ突っ伏しながら、本気で人生について悩んでいた。
窓から差し込む午後の陽射しは柔らかく、磨き上げられた床には淡い金色の光が落ちている。高い天井まで届く書架には古びた魔導書や歴史書が隙間なく並び、紙とインクの匂いが静かに漂っていた。本来なら心落ち着く空間であるはずなのに、今日のセシリアにそんな余裕は一切ない。
原因は昨日だ。
いや、正確に言えば昨日の自分だ。
思い出すだけで頭を抱えたくなる。
婚約者のレオンハルトの腕へ親しげに抱きついた可愛らしい少女を見た瞬間、勝手に「恋敵ですわ!!」と脳内で断定し、勝手に嫉妬し、勝手に落ち込み、挙句の果てには従妹だと判明して羞恥のあまり沈没した。
冷静に考えれば酷すぎる。
何一つ確認していない。
なのに頭の中では既に“愛する婚約者を奪われた可哀想な自分”が完成していたのだ。
(重い……)
セシリアは机へ額を押しつけた。
(わたくし重すぎますわ……)
しかも問題なのは、自分に自覚があることだった。
レオンハルトを好きすぎる。
とにかく好きすぎる。
だから彼に関することになると理性が簡単に壊れる。
普段なら冷静に対処できることでも、レオンハルトが絡むだけで駄目だ。
昨日だって、本当は笑顔で「まあ、従妹の方でしたのね」と流せるのが理想だった。
なのに実際の自分はどうだったか。
勝手に傷付き、勝手に沈み、勝手にしおしおになっていたのである。
あまりにも面倒臭い。
「……うぅぅ」
小さな呻き声が漏れる。
その時だった。
「随分と終わっている声が聞こえたな」
頭上からさらりと降ってきた声に、セシリアはびくりと肩を震わせた。
顔を上げれば、そこには昨日の視察にも同行していたアシュレイ・クロフォードが立っている。
黒髪に銀縁眼鏡を掛けた青年だった。
細身の身体を包む学院指定の黒衣は寸分の乱れもなく、長い指先にはインク汚れひとつない。切れ長の灰色の瞳は冷静というより冷淡に近く、整った顔立ちのせいで余計に近寄り難い雰囲気を作っている。
典型的な“出来る男”だった。
しかも性格が悪い。
とても悪い。
宰相の息子という立場もあって昔からセシリアとは付き合いが長いのだが、この男、一言多いのである。
「……貴方でしたの」
セシリアは露骨に顔をしかめた。
するとアシュレイは、面白そうに片眉を上げる。
「その顔は失礼ですよ」
「だって絶対わたくしの事からかいに来たのでしょう」
「まだ何もしていない相手に酷い言い草ですね」
「ですが顔がもうそう言っていますわ」
「偏見が凄いですね」
「間違ったことは言ってないはずですわ」
「……まあ、否定はしません」
即答だった。
腹立たしい。
だがアシュレイはそんな彼女の不機嫌など意にも介さず、机へ突っ伏したままのセシリアを見下ろして小さく笑う。
「昨日の件か?」
その瞬間、セシリアの身体が固まった。
図星だった。
しかも信じられないほど綺麗に。
「……何のことかしら」
「王愛しの婚約者の従妹相手に勝手に嫉妬し、勝手に脳内で失恋し、勝手に沈没した件だが」
「言い方ぁ!!」
セシリアは思わず机を叩いた。
だが反論できない。
悔しいことに、だいたい合っている。
アシュレイは容赦がなかった。
「君は昔からそうだな。思考が極端すぎる」
「うるさいですわね……」
「しかも全部顔へ出る」
「出てません」
「出ている」
「出てませんったら!」
「昨日など特に酷かったぞ。ミレイユ嬢を見た瞬間、“この泥棒猫ぉぉ……”みたいな顔になっていた」
「そんな顔してませんわ!!」
「いや、していたな」
淡々と断言される。
セシリアの頬が熱くなった。
図星だからこそ恥ずかしい。
しかもアシュレイは、完全に面白がっている目をしていた。
「まあ、レオンハルトも大変だな」
「……何ですの急に」
「毎回あんな調子で好意をぶつけられているんだろう?」
セシリアの動きが止まる。
「べ、別にぶつけてなど……」
「ぶつかっている。盛大にな」
アシュレイは本当に容赦がない。
「好きな相手へ素直になれず、毎回ツンケンした態度を取り、嫉妬しては勝手に落ち込み、そのくせ本人だけは隠せているつもりでいる」
そこまで言ってから、ふっと笑った。
「そのうち嫌われるぞ、レオンハルトに」
その一言だった。
セシリアの顔から、さっと色が消える。
先ほどまで真っ赤になって怒っていた少女が、一瞬で静かになった。
アシュレイは少しだけ目を細める。
本当に好きなのだな、と分かる反応だった。
「……やっぱり、そう思います?」
ぽつり、と落ちた声は弱かった。
セシリアは視線を落とし、自分の指先をぎゅっと握り締める。
「わたくしだって、本当はあんな言い方したいわけではありませんの……」
普段の彼女を知る者なら驚くほど素直な声音だった。
「もっと可愛く笑いたいですし、優しくしたいですし、“会えて嬉しい”くらい普通に言える女になりたいのです」
だが実際はどうだ。
顔を見ると心臓が跳ねる。
緊張する。
恥ずかしくなる。
その羞恥をごまかそうとして余計なことを言う。
結果、説教になる。
「昨日だって……本当はレオンハルト様を責めたいわけではありませんでしたのに……」
しゅん、と肩が落ちる。
「ただ……取られたくない、と……少し思ってしまって……」
小さくなった横顔は、いつもの気高い公爵令嬢ではなく、ただ恋に振り回されている年頃の少女そのものだった。
アシュレイは数秒黙った。
それから小さく肩を竦める。
「まあ、かなり面倒臭い女ではあるな」
「は!?」
一瞬でセシリアが顔を上げる。
復活が早い。
「何ですのその言い方!!」
「事実だろう。君は感情が重い上に面倒臭い」
「面倒臭くありませんわ!!」
「いや、かなり面倒臭い」
「貴方ほんっとうに性格が悪いですわね!?」
セシリアは顔を真っ赤にして怒鳴った。
だがアシュレイは涼しい顔である。
むしろ若干楽しそうですらある。
「しかし不思議なものだな」
「何がですの」
「普通の男なら、とっくに“嫌われているのか?”と誤解していてもおかしくない態度なのに、レオンハルトは君を見るたび嬉しそうだ」
セシリアの思考が止まった。
「……え?」
「気付いていないのか」
「な、何を」
「レオンハルト、君のことになるとかなり甘いぞ」
じわじわとセシリアの顔が赤くなる。
耳まで赤い。
アシュレイはそんな彼女を見ながら、呆れ半分、面白さ半分のように息を吐いた。
「君が昨日落ち込んでいた時も、レオンハルトは完全に“可愛い婚約者が嫉妬している”くらいにしか思っていなかったぞ」
「っっっっ!!?」
セシリアは勢いよく立ち上がった。
「な、何を仰ってますの貴方ぁ!!」
「事実だ」
「そんなわけありません!!」
「いや、かなりにこにこしていた」
「やめてくださいませぇぇ!!」
半泣きだった。
羞恥で爆発しそうになっている。
そして実のところ。
その二人を少し離れた渡り廊下から眺めている人物がいた。
レオンハルトである。
金髪の侯爵子息は、遠目にも分かるほど頬を緩めながら、顔を真っ赤にしてアシュレイへ噛み付いている婚約者を見つめていた。
「……可愛いな」
ぽつり、と漏れる。
従者が何とも言えない顔をした。
「レオンハルト様」
「なんだ?」
「あまり顔に出されない方が」
「無理だろう、あれは」
本当に可愛いのだから仕方ない。
怒っているのに全然怖くない。
むしろ、ふくらんだ猫みたいで愛嬌しかない。
しかも本人は真剣に悩み、真剣に反省し、その上で逆ギレしているのである。
愛おしすぎる。
「もう知りませんわ!! 貴方なんて大嫌いです!!」
そう叫んだセシリアは、羞恥の限界を迎えたのだろう、真っ赤な顔のまま図書塔を飛び出していった。
長い蜂蜜色の髪がふわりと翻り、逃げる背中は完全に“負けた猫”だった。
アシュレイは肩を竦める。
「面倒臭いな、本当に」
だが口調にはどこか親しみが混じっていた。
そしてレオンハルトはというと。
走り去っていく婚約者の背を見送りながら、どうしようもなく頬を緩めていた。
好きな男へ素直になれず、勝手に落ち込み、勝手に嫉妬して、最後には羞恥で逃げ出す。
そんな不器用さが、たまらなく愛おしいのである。




