ピンク頭登場
その日セシリア・エヴァンローズが珍しく上機嫌だった理由は、実に単純だった。
婚約者のレオンハルトから「明日は地方上級学院への視察へ付き合ってほしい」と直々に声を掛けられたのである。
それだけだ。
ただそれだけのことなのだが、セシリアの心中では現在、祭りが開催されていた。
(お、お誘い……お誘いですわよね……? いえ視察ですけれど……でも実質お誘いでは……?)
なので朝から五回着替えた。
髪型も三度変えた。
侍女に「どちらが自然でしょう!?」と迫りすぎて若干引かれた。
最終的には「頑張りすぎていると思われたらはしたないですわね……」と急に冷静になり、結果として普段より少しだけ柔らかな雰囲気の装いへ落ち着いたのだが、その“少しだけ”に二時間かかっている。
重症だった。
もっとも本人は、
(あくまで王立学園の代表者の補佐として当然の準備をしただけですわ)
と思い込もうとしている。
無理がある。
だがそんな努力の甲斐もあって、学院へ現れたセシリアは大変美しかった。
淡い水色のドレスは彼女の蜂蜜色の髪を柔らかく引き立て、普段より控えめな装飾が、逆に年頃の少女らしい可憐さを際立たせている。
いつもの“完璧で隙のない公爵令嬢”ではなく、少しだけ背伸びした恋する少女。
そんな空気が滲んでいた。
そして当然、レオンハルトは普通に見惚れた。
「……今日は、随分雰囲気が違うな」
ぽつりと漏れたその言葉に、セシリアの心臓が危うく止まりかける。
(えっ)
(今なんと)
(雰囲気が違うと)
(そ、それはつまり見てくださっていたということでは!?)
だが表面へ出たのは別の反応だった。
「な、何ですの急に……変なことを仰らないでくださいませ」
ぷい、と顔を逸らす。
耳だけ真っ赤だった。
レオンハルトは思わず笑いそうになる。
分かりやすすぎる。
地方上級学院への視察は、名目としては極めて真面目なものだった。
王立学院本校との教育連携強化に、優秀生徒の交流制度、それに地方貴族子弟への支援拡充。同行している教師陣も役人たちも真剣そのもので、視察日程は息苦しいほど細かく組まれている。
だからこそセシリアも、本来ならば公爵令嬢として完璧に振る舞うべき場であると理解していた。
理解はしている。
しているのだが。
(近くありませんこと……?)
にこやかな笑顔のまま、セシリアは静かに思った。
地方上級学院の生徒会長を務める愛らしい令嬢は、栗色の髪を揺らしながら、きらきらとした目でレオンハルトを見上げている。
小柄で可愛らしい少女だった。
悪意はない。
むしろ純粋に尊敬しているだけなのだろう。
地方学院の生徒からすれば、アルヴェイン侯爵家の次期当主であり、王立学院本校でも群を抜く才を持つレオンハルトは、半ば物語の登場人物のような存在だ。
憧れるなという方が無理である。
ええ、分かります。
分かりますとも。
ですが。
(近い)
距離が。
近い。
「アルヴェイン様、本校ではやはり討論形式の授業が多いのでしょうか?」
「高等科へ上がれば増えるな。特に政治論は、実践を想定した形式になる」
「まあ……! 素敵です……!」
その“まあ”へ乗った熱量がもう嫌だった。
しかもレオンハルトが優しい。
いつものように自然で、穏やかで、耳へ心地良く落ちる声で応じるものだから、周囲の女子生徒たちまでうっとりし始めている。
やめていただきたい。
本当に。
その顔で微笑まないでほしい。
その声で喋らないでほしい。
そんなふうに優しく視線を合わせないでほしい。
昔からそうだった。
誰へでも自然に優しい。
距離感が近い。
困っている相手を放っておけない。
そして笑顔が致命的に甘い。
その結果、周囲の令嬢たちだけが勝手に被弾するのである。
本当に罪深い男だった。
(でもお顔が良いのですよね……)
悔しい。
本当に悔しい。
長い睫毛が伏せられる角度まで綺麗なのは何なのだろう。
少し笑ったとき柔らかく緩む口元もずるい。
肩越しにこちらを見るだけで胸が苦しくなるのだから、もはや暴力ではないだろうか。
しかも今日は視察用の正装なのだ。
濃紺の上着へ金糸の刺繍が入っていて、それがまた腹立たしいほど似合う。
脚も長い。
姿勢も綺麗。
声も良い。
意味が分からない。
昔は泥だらけになって木から落ちていたくせに、何故こんな完璧な貴公子へ育ってしまったのか。
「エヴァンローズ様も、とても素敵です……!」
突然話を向けられ、セシリアははっと微笑みを作った。
「ありがとうございます」
完璧な返答だった。
優雅で、上品で、非の打ち所がない。
周囲から感嘆の空気が漏れる。
「やっぱり本校の方は違う……」
「なんて綺麗な方……」
「お似合いだな……」
聞こえてくる囁きに、セシリアは微笑みを崩さない。
崩さないが。
(距離が近いのですわ〜)
内心はそれどころではなかった。
そんなセシリアとは対象的に、レオンハルトは優雅に微笑むだけだった。
(優雅な微笑み、格好良いのですよね……!)
悔しい。
こんな状況なのに格好良いと思ってしまう自分が悔しい。
余裕のある男の微笑みが似合いすぎている。
なんですのその表情。
もしやわたくしをからかって楽しんでいるのではないでしょうね。
好きですけれど。
大好きですけれど。
でも腹立たしいものは腹立たしいのである。
だからセシリアは耐えた。
公務中だ。
公爵令嬢として、婚約者として、無様な姿を晒すわけにはいかない。
だから完璧に微笑み続けた。
耐えて。
耐えて。
耐えた結果。
紅茶を置く音だけが、ほんの少し強くなった。
コトン。
本当にわずかな音だった。
だが。
「あー……」
隣で書類整理をしていた残りの同行者であるアシュレイが、小さく呟いた。
銀縁眼鏡の奥が完全に“察した顔”をしている。
やめなさいませ。
その「あーはいはい」みたいなお顔をやめなさい。
セシリアは笑顔のまま、机の下で彼の革靴を踏みつけた。
アシュレイの肩が震える。
笑っている。
この男、絶対笑っている。
一方でレオンハルトは。
こちらを見ていた。
穏やかに。
優雅に。
けれど碧眼の奥だけが、どうしようもなく甘く細められている。
(〜〜〜〜っ!!)
心臓がうるさい。
(なんて素敵なその微笑み〜〜っっ)
そんなふうに優しく見ないでほしい。
その顔で甘やかされると、好きが増す。
これ以上好きになったらどうするのだ。
ただでさえ人生の大半をこの男で埋め尽くされているというのに。
そんなやり取りの後、学院内を歩いていた、その時だった。
「あっ、レオンハルト兄さまー!」
ぱたぱたと軽やかな足音が響く。
振り返った先にいたのは、小柄な少女だった。
柔らかな桃色の髪に、大きな茶色の瞳。小動物のように愛らしい顔立ちをしていて、ふわふわした雰囲気がいかにも庇護欲を誘う。
しかも距離感が近い。
少女は迷いなくレオンハルトの腕へ抱きつき、そのまま嬉しそうに笑った。
「聞いてください! 試験、合格したんです!」
「本当か? それは良かったな、ミレイユ」
自然に頭を撫でるレオンハルト。
その光景を見た瞬間。
セシリアの思考が止まった。
数秒後。
ものすごい勢いで悪い方向へ回転し始める。
(だ、誰ですのあの女!?)
(ち、近い近い近い近い!!)
(腕!? 今腕へ抱きつきましたわよね!?)
(しかも頭を撫でた!? えっ何ですのあの自然な距離感は!?)
胸がざわつく。
嫌な汗が出る。
いや落ち着きなさいセシリア、と理性は言う。
(兄さまと呼んでいたわ。きっと妹ですわ)
(何を仰ってまして、レオンハルト様に妹君はおりませんことよっ)
(じゃあ誰?? おじさまの隠し子??)
(何を思ってますのセシリア! おじさまがそんな不誠実なことなさるはずがないじゃないっ)
(じゃあ誰ですのぉお?? まさか、泥棒猫!!)
まだ何も決まったわけではない。
ただ知り合いかもしれない。
そう、例えば親戚とか、昔からの付き合いとか――
「兄さま、この前はありがとうございました!」
「いや、あれくらいで礼を言われるほどじゃない」
駄目だった。
(終わりましたわ……)
セシリアの中で何かが崩れ落ちる。
優しい笑顔だった。
自分へ向けられる時より柔らかい気すらする。
いや気のせいかもしれない。
でも気になる。
気になりすぎる。
というか何ですのあの可愛い生き物は。
男は絶対好きでしょうああいうの。
自分みたいに説教などしないのだろう。
きっと素直で柔らかくて愛嬌があって、殿下が何をしても「すごーい!」とか言うのだ。
勝てるわけがない。
セシリアは急激に落ち込んだ。
冷静に考えるとまだ何も始まっていないのだが、恋する乙女にそんな理屈は通用しない。
しかもミレイユは、そこでようやくセシリアへ気付いた。
「あっ、エヴァンローズ様! こんにちは!」
にこっと笑う。
可愛い。
腹が立つほど可愛い。
しかも懐っこい。
セシリアの中で勝手に“泥棒猫認定”されているとは露ほども思っていない顔だった。
「……こんにちは」
結果、セシリアの声が若干硬くなる。
ミレイユはきょとんとした。
レオンハルトは一瞬だけ眉を上げる。
レオンハルトとミレイユが少し話すだけで胸がざわつくし、笑い合うたび勝手に傷付く。
(レオンハルト様はああいう方がお好きなのかしら……)
(いえ、当然ですわよね……)
(わたくしみたいに可愛げのない女より、あんなふわふわした子の方が……)
どんどん思考が沈んでいく。
しかも本人は必死に平静を装っているつもりなので、余計に分かりやすかった。
そしてついに耐えきれなくなったのだろう。
「……わたくし、少し風に当たってまいります」
そう言って中庭へ逃げた。
背中がちょっとしょんぼりしていた。
レオンハルトはその背を見送り、小さく息を吐く。
「兄さま? どうかされました?」
ミレイユが首を傾げる。
「いや……まさかと思っていたが、どうやらミレイユが誰だかわかってなかったらしい」
「えぇ?」
「君は俺の従妹だろうに」
「あっ」
ミレイユはそこで全部察した。
数秒後。
「えっ!? もしかしてエヴァンローズ様、わたしを!?」
「たぶんな、誤解したのだろう」
「えええぇぇぇ!?」
ミレイユは慌てた。
恐れ多い。
あの完璧超人みたいな公爵令嬢にそんな誤解をされるなど胃が痛い。
しかもセシリアは学院女子の憧れでもあるのだ。
「ど、どうしましょう!? 嫌われてません!?」
「たぶん落ち込んでる」
「可哀想!!」
数分後。
中庭のベンチで沈んでいたセシリアの前へ、レオンハルトがやって来た。
「セシリア」
「……何ですの」
声に元気がない。
分かりやすすぎる。
「ミレイユは叔父上の娘だ」
「…………え?」
「親族の集まりの時に合った事あるだろう? つまり従妹だな。昔から妹みたいなものだ」
沈黙。
「でも確かに制服だと印象がだいぶ違うから仕方ないか。紹介せずに悪かったね」
そして。
みるみるうちにセシリアの顔が赤くなっていく。
耳まで真っ赤だった。
全部勘違いだったと理解したのだ。
「わ、わたくし別に勘違いなど……!」
「していた顔だった」
「~~~~っ!」
否定できない。
というか完全に顔へ出ていた自覚がある。
セシリアは羞恥で死にそうになった。
穴があれば入りたい。
いや埋まりたい。
そんな彼女を見て、レオンハルトは堪えきれず小さく笑う。
「そんなに俺を取られるのが嫌だったのか?」
「ち、違っ――」
反射的に否定しかけて、止まる。
違わない。
嫌だった。
ものすごく嫌だった。
それを理解した瞬間、セシリアは観念したように俯いた。
「……申し訳、ありませんでした」
消え入りそうな声だった。
「勝手に誤解して……その……ミレイユ様にも失礼を……」
しおしおである。
普段の気の強さはどこへ行ったのかというくらい小さくなっている。
そんな姿があまりにも可愛くて、レオンハルトは少し困ったように目を細めた。
本当に、この婚約者は不器用すぎるのである。




