ツンツン令嬢
セシリア・エヴァンローズは、間違いなく美しい娘だった。
陽光を溶かしたような蜂蜜色の髪は、丁寧に巻かれた毛先が歩くたび柔らかく揺れ、白磁めいた肌には傷ひとつなく、少し吊り気味の蒼い瞳は気の強さと華やかさを同時に宿している。黙って立っているだけなら高嶺の花そのもので、実際、王都の若い令息たちは彼女を見かけるたび勝手に恋をして勝手に失恋していた。
ただし問題がある。
この娘、とにかく素直ではない。
いや、正確には、素直になれない。
婚約者であるレオンハルト・アルヴェイン侯爵子息を前にすると、頭の中で何度も練習してきた言葉が綺麗さっぱり吹き飛び、残るのは妙な意地と羞恥心だけなのだ。
レオンハルトは、昔から目立つ男だった。
陽光を溶かしたような金髪に、涼やかな碧眼。笑みを浮かべれば社交界の令嬢たちは簡単に頬を染め、真顔で立っているだけでも絵になるような男である。
だがセシリアからすれば、そんな世間一般の評価など、わりとどうでもよかった。
レオンハルトであるという事実だけが彼女には最も大切なことだった。
確かに顔が良い。
そして声も良い。
声が良いのだ。
低すぎず、けれど柔らかい声で名前を呼ばれるたび、心臓が直接撫でられたような気分になる。
しかも距離感がおかしい。
昔からの付き合いだからか、彼はやたら自然に近付いてくるし、さらりと髪へ触れるし、微笑みながら「セシリア」と呼ぶ。
そのたびに平静を失うこちらの気も知らない。
あんな整った顔で優しく笑いかけられて平然としていられる女など存在しないだろうと、セシリアは割と本気で思っていた。
もっとも、こうなってしまった理由については、周囲にも多少責任がある。
アルヴェイン侯爵家とエヴァンローズ公爵家は、祖父の代から続く深い付き合いを持っていた。
隣接する広大な領地。
共同で担ってきた国境防衛。
かつて起きた内乱では、両家は王家派閥の中心として並び立ち、背を預け合うように戦ったという。
その頃から築かれた信頼は、単なる“仲の良い貴族”などという言葉では足りなかった。
別荘を行き来し、祝い事には必ず顔を出し、子どもたちは一緒に育つ。
家同士というより、半ば親戚のような距離感だったのである。
当然、セシリアとレオンハルトも物心つく頃には既に隣にいた。
夏は湖で遊び、冬は雪へ突っ込み、泥だらけになって叱られた回数など数え切れない。
そんな流れで育てば、繋がりを喜ぶ両家としても、二人の婚約はごく当然のことだった。
幼い頃のレオンハルトは今ほど完成された貴公子ではなく、木登りをしては枝から落ち、剣術の稽古で熱くなれば服を汚す、ごく普通の少年だった。
――それがどういうわけか、成長した現在では社交界きっての完璧貴公子である。
意味が分からない。
昔は泥だらけで笑っていたくせに。
湖へ落ちたセシリアを引き上げながら、自分までびしょ濡れになって笑っていた少年だったくせに。
なのに今では、あんな甘い声音で名前を呼び、さらりと髪へ触れ、何でもない顔で令嬢たちを頬染めさせているのだから理不尽だった。
しかも本人は昔と同じ距離感のままで接してくる。
セシリアだけが駄目だった。
年齢を重ねるたび、レオンハルトの顔が良くなっていく。
声も良くなる。
背まで高くなる。
そのたびに意識してしまう自分が悔しい。
けれど、今さら距離を取り方など分からなかった。
だって人生のほとんどに、最初から彼がいるのだから。
だから今更、愛だ恋だ、好きだ大好きだ、ずっと見ていたい、ずっと一緒にいたいとは、恥ずかしくて恥ずかしくて、あり得ない。
本当は会えただけで嬉しい。
今日も格好いいだとか、少し疲れて見えるだとか、ちゃんと眠れているのだろうかだとか、気になることは山ほどある。だがいざ顔を見ると、それら全部が喉の奥で絡まり、最終的に口から出てくるのは、
「また無茶をなさったのでしょう」
「本当に貴方は昔から考えなしですわね」
「少しは周囲を頼ることを覚えてくださいませ」
などという、小言じみた台詞ばかりだった。
最悪である。
本人もそれは理解していた。
理解しているからこそ毎回部屋へ戻るたび枕へ顔を埋め、「どうしてわたくしはあんな言い方しか出来ないの……!」と一人で悶絶しているのだが、侍女たちはすっかり慣れきっており、「本日も通常運転ですね」くらいにしか思っていない。
もっとも、レオンハルト本人もだいたい気付いていた。
セシリアは昔からこうなのだ。
幼い頃、熱を出して寝込んだ彼のもとへ見舞いに来た時ですら、顔を真っ赤にしたまま「か、勘違いしないでくださいませね! 公爵家として当然の配慮ですから!」と薬草茶を押し付けてきたし、その日は大雨だったにもかかわらず、わざわざ長時間馬車を飛ばしてやって来ている。
当然なわけがない。
しかも帰宅後、今度はセシリア本人が熱を出した。
馬鹿だな、と当時からレオンハルトは思っていた。
だが嫌ではなかった。
セシリアの感情は不器用なくせに妙に真っ直ぐで、取り繕うことが致命的に下手なのだ。
嫉妬すれば露骨に不機嫌になるし、心配すれば説教になる。褒められると強気な顔のまま耳だけ赤くなるし、嬉しい時ほど何故かツンとする。
あまりにも分かりやすすぎて、周りの者たちは半ば生温かい目で見守っているほどだった。
しかし当の本人だけは、自分の恋心を完璧に隠せていると思い込んでいる。
救いようがない。
とはいえ、そんな彼女だからこそ社交界では妙に恐れられてもいた。
エヴァンローズ公爵家は王国有数の名門であり、セシリア自身も政治、経済、歴史、外交、どの分野でも優秀な成績を収め、剣術に至っては若手騎士顔負けの腕前を持っている。その上あれだけの美貌なのだから、同世代の令嬢たちからすれば脅威以外の何物でもない。
しかも彼女はレオンハルトを一途に想い続けていた。
始めは純粋に兄妹のような、親友のような、悪友のような関係だった。
だが、世界が変わるきっかけ自体は、本当に些細なことだった。
幼い頃、庭園の池へ落ちたセシリアを、レオンハルトが助けたのだ。
ただそれだけ。
けれど幼かった彼女にとって、その瞬間は世界が変わるほど鮮烈だった。
濡れたまま差し出された手。
「大丈夫か?」
と笑った少年の顔。
たぶん、その時点でもう駄目だった。
だからセシリアは努力した。
レオンハルトの隣へ立つために、レオンハルトに恥じぬ女になるために、幼い頃から必死で学び続けた。政治も礼儀も魔術も剣術も、全部「隣へ並びたい」という感情から始まっている。
本当は褒めてほしかった。
頑張ったな、と言ってほしかった。
隣にいていいのだと、認めてほしかった。
けれど当の本人を前にすると全部吹き飛ぶ。
「もっと危機感を持ってくださいませ!」
になる。
壊滅的である。
しかも本人はそのたび、
(今のはかなり自然に気遣えましたわね)
と思っているのだから、もうどうしようもなかった。
だが、そんな不器用さを、レオンハルトは嫌いではない。
社交界には彼へ媚びる女など掃いて捨てるほどいる。甘い声で囁き、優しく笑い、高位貴族という地位へ群がる令嬢たちなど珍しくもない。
けれどセシリアだけは違った。
レオンハルトだから好きなのだ。
だから無茶をすれば本気で怒るし、危険なことをすれば眠れなくなるほど心配する。
その真っ直ぐさを知っているからこそ、レオンハルトは時折どうしようもなく彼女を愛おしく感じるのだが、当のセシリア本人が毎回全力でツンツンするせいで、結局なかなか話が進まないのである。




