第6話 普通の朝
ヴェルナー領に戻って、五日。
王都の地下水路から帰った夜、リーゼは自分に誓いを立てた。
——本当に、もう最後。次は行かない。
未来視は、聞いてくれなかった。朝食の最中でも、湯を沸かしている最中でも、断片が滑り込んでくる。手を引かれて王都に連れ戻されそうになる。
今朝も視えた。
王子が階段で足を滑らせて、左足首を捻挫する。死なない。痛いだけ。
「……ふん」
パンにバターを塗った。
「リーゼロッテ様、ご機嫌がよろしゅうございますね」
「ええ、マリア。素晴らしい朝ですわ」
死なないフラグは、折らなくていい。捻挫くらい、自分でどうにかすればいい。
——これでいい。これが、正しい距離。
バターが、少しだけ多めになった。
* * *
午前は領地を回った。
ヴェルナー領は豊かな農業地帯だ。八年の間、リーゼが留守にしていたせいで、細かな問題がそのまま放置されていた。
灌漑水路の老朽化。学校の教師不足。孤児院の資金難。
「父上は何をしていたのかしら」
「公爵様は王都で政務にお忙しく……」
「つまり、放置していたと」
マリアが苦笑する。
リーゼは手帳を開いた。八年間、王子の死亡フラグを管理するために使っていた手帳。暗殺者の動向、毒物の種類、建築物の劣化状態が、びっしり。
新しいページ。
『ヴェルナー領 改善計画』
水路。教師。孤児院。秋の収穫祭の復活。
書きながら、妙な気分になった。
——誰かの死を防ぐのではなく、誰かの暮らしを良くする。
世の中には、こんなに穏やかな仕事があったのだ。
* * *
午後。
エルヴィンが葡萄酒を持って訪ねてきた。約束通りに。
「お待たせしました。ランベルト領自慢の赤です」
「ありがとう」
庭園のテラスで、二人で飲んだ。
エルヴィンは穏やかな男だった。声が低く、笑い方が静かで、余計なことを言わない。話したい時は聞き、黙りたい時は黙る。そういう人間が近くにいるのは、初めてだった。
「ランベルト領では、兵の訓練をなさっているとか」
「ええ。父が引退してからは、僕が指揮を。小さな領地ですから、大したことは」
「ご謙遜を。ランベルト騎士団は精強だと」
「……そう言っていただけると、照れます」
頬の赤いのは、葡萄酒のせいだろうか。
——この人は、私に何も求めない。
そう思った。
王子は常に「公爵令嬢としての義務」を求めた。完璧な社交。王太子妃としての教養。リーゼが影で何をしているかには、最後まで興味を示さなかった。
エルヴィンは、ただ隣にいる。
「リーゼロッテ嬢」
「リーゼで構いませんわ」
「では——リーゼ嬢。一つ、伺っても?」
「どうぞ」
「その白い髪は、病ですか」
リーゼの手が止まった。
王宮で八年間、誰も聞かなかった。皆、見て見ぬふりをした。
「……病では、ありませんわ」
「そうですか」
それ以上、エルヴィンは聞かなかった。ただ、少しだけ眉を寄せた。
目の奥が、急に熱くなった。
「……風が、強くなってきましたわね」
「ええ。そろそろ失礼します」
エルヴィンが立ち上がった。
「また来ても?」
「葡萄酒があるなら、いつでも」
エルヴィンが笑った。控えめな、温かい笑い方。
遠ざかる背中を見送って、リーゼは思った。
——こういう時間を、私は知らなかった。
* * *
夜。
寝台に入った瞬間、未来視が走った。
王子ではなかった。
見知らぬ男。宰相の執務室。書類に署名する、骨ばった手。その書類の表題に——
『ヴェルナー公爵家 領地接収に関する勅令案』
「——え?」
跳ね起きた。
ヴェルナー領が、狙われている。
これは王子の死亡フラグではない。
自分自身の、破滅のフラグだった。
パンにバター塗るだけのシーンが書きたかった。なろうってずっと事件か戦闘だから、たまには朝ごはん食べてほしい。
リーゼに。あと自分にも。
冷蔵庫に何もない。コンビニ行ってきます。




