第5話 夜明けの地下水路
王都に着いたのは、深夜二刻を過ぎていた。
馬は限界。リーゼも同じ。四刻の全力疾走で、腿の筋肉が痙攣している。
未来視が告げた時刻まで、あと一刻。
王宮には入れない。婚約破棄された令嬢の前に、正門は開かない。
だが、リーゼには八年間の知識がある。地下水路の構造、排水口の位置、北東の壁の亀裂、警備の交代時刻、暗殺者が使う経路——頭の中に全部、入っている。
「……ここね」
外壁に沿って走り、排水溝の格子の前で足を止めた。錆びた格子。人ひとり分の隙間。
ドレスの裾を破った。邪魔だ。
水路に降りる。膝まで冷水。壁に手をつきながら、闇の中を進む。
未来視の映像をなぞる。分岐を右。突き当たりを左。三つ目の梯子——
「いたわ」
足を止めた。
先の暗闇に、三つの影。
短剣。弓。そして中央——掌に淡い光を灯す、魔術師。
まだ動いていない。護衛の交代を待っている。
リーゼは壁に背を貼り付けた。息を殺す。
戦えない。令嬢の身体だ。剣も持っていない。
——視るしかない。
目を閉じた。頭の芯に、焼けた針を刺されるような痛みが走る。構わず、視る。
三十秒後。一分後。刺客の動きが、一手ずつ脳に描かれていく。
鼻の下が生温かい。指で拭うと、血。
構わない。視えた。
魔術師の詠唱は、四秒。弓兵は左利き、右が死角。短剣使いは水路の狭さで直線にしか動けない。
そして——水路の壁の、あの支柱。老朽化している。
リーゼは支柱に手をかけた。
息を止めた。
押した。
石の柱が、軋んだ。
「——何だ!?」
刺客が振り返る。
遅い。
支柱が折れ、天井の一部が崩れた。瓦礫が前方の通路——王宮側——を塞いだ。
進めない。
「誰だ!」
弓兵が闇に矢を放った。リーゼは未来視の通り、身を屈めた。矢が髪をかすめる。
「撤退だ、撤退!」
短剣使いの声。三人は来た道へ戻っていく。
リーゼは壁に背をつけたまま、ずるずると座り込んだ。
膝が震えている。下半身の感覚がない。鼻血は止まらない。
でも。
折った。
最後の一本を、折った。
* * *
水路から這い出た時、空が白んでいた。
濡れたドレスの残骸。泥だらけの手。鼻と口の下の血の筋。左のこめかみの白は、さらに広がっている。右にも数本、混じり始めていた。
「……代償、重いわね」
口の中で笑った。
壁の向こうで、朝の鐘。平穏な一日の合図。王子はまだ眠っている。自分が死にかけたことも、助けられたことも、知らずに。
——これで、最後。
立ち上がった。膝が一度、抜けた。壁に手をついて立て直した。
「——そこの者、止まれ」
凛とした声。
振り返ると、騎士団の制服。剣の柄に手が置かれている。
その後ろに——金色の髪。
「……嘘でしょう」
アレクシス第一王子が、そこにいた。
ハインリッヒの報告を受けて、夜通し地下水路の調査に乗り出していたのだ。そして、水路から這い出てきた泥だらけの元婚約者と、鉢合わせになった。
目が合った。
アレクシスの顔が、こわばった。困惑、ではなかった。もっと深い何か。
「リーゼロッテ……? なぜ——」
「通りすがりですわ」
「地下水路を、通りすがる者がいるか」
「いるでしょう? 現に、私がここにおりますもの」
泥と血にまみれた顔で、リーゼは微笑んだ。八年間崩さなかった微笑。これだけは、今も崩れない。
「お元気そうで何よりですわ、元殿下。——では」
「待て」
「お待ちしません」
背を向けた。
「もう、お待ちする理由が、ございませんので」
「リーゼロッテ!」
歩き出した。
足が震える。視界が揺れる。未来視の使いすぎで、耳の奥が詰まっている。
——折った。
——もう、終わり。
角を曲がった瞬間、膝が崩れた。壁に背中を預けた。
「……帰らなきゃ」
朝日が、王都の石畳を金色に染めていた。
その光の中を、リーゼは一歩ずつ歩き始めた。
振り返らない。
——けれど。
瞼を閉じた裏に、また新しい死亡フラグが立ち上がる。
「……嘘でしょう」
次は、七日後。
リーゼは空を仰いだ。鼻血なのか涙なのか、自分でもわからなかった。
アクション描写は苦手です。書いた後に自分で読むと、なんか地味。
「通りすがりですわ」だけは最初から決めてた。




