第30話 目覚め
静かな回。嵐の後の。
目が覚めたのは、三日後だった。
最初に感じたのは、柔らかな布団。それから、知らない匂い。薬草と、清潔な石鹸。
「……ここは」
「王宮の医務室です」
マリアの声。泣き腫らしたような、掠れた声。
「マリア。——三日、寝ていたの」
「はい。お医者様は、脳の疲労だと。原因は、不明と」
原因は、わかっている。未来視の、使いすぎ。医師にわかるはずもない。
「身体は」
「右目と、左目の視力は——」
「見えないわ。変わらない」
「はい。それから——」
マリアが、言い淀んだ。
「何?」
「記憶のテストをしたいと、お医者様が。意識が戻ったら——」
「記憶のテスト」
リーゼは、自分の中を探ってみた。
名前。リーゼロッテ・フォン・ヴェルナー。十七歳。
父。ヴェルナー公爵。——名前が、出てこない。
マリア。侍女。忠実な、侍女。
エルヴィン。隣の領地の——顔は、まだ思い出せない。声は、覚えている。
アレクシス。金色の髪。王子。八年——
何を、していたか。
死亡フラグを折っていた。四十七本。
——具体が、曖昧だ。十歳の時の毒。十二歳の狩猟祭。十四歳の辺境。
出来事は、覚えている。ただ、その時に何を感じたか、感情の手触りが、薄い。
「……大丈夫。大事なことは、覚えているわ」
「本当ですか」
「ええ。あなたの名前も、エルヴィン様のことも、殿下のことも」
嘘ではない。——全部ではなかった。
* * *
最初の見舞いは、エルヴィンだった。
「リーゼ嬢。目が覚めたと聞いて——」
「エルヴィン様。お花、持ってきてくれたの」
「え、わかるんですか」
「花の匂いがしますもの。——百合ね」
「正解です」
エルヴィンが、ベッドの脇に座った。
「宰相は地下牢。私兵は全員拘束。陛下も事態を把握され、罷免の発表が出ます」
「ルートヴィヒ様は」
「アレクシス殿下と一緒に、陛下へのご報告を。——兄弟で」
「そう。よかった」
リーゼは、微笑んだ。
「セレナ嬢は」
「僕の拠点でお預かりしています。落ち着いていますよ。少し——泣いていましたが」
「泣く権利くらい、あの子にもありますわ」
沈黙が、流れた。
「リーゼ嬢」
「何?」
「もう——未来視は、使わないでください」
「ええ。約束するわ。——たぶん、もう使えないと思うの」
「使えない?」
「力が、枯れた感じがする。視ようとしても、何も視えない。未来も——現実も」
エルヴィンは、何も言わなかった。
ただ、リーゼの手を握った。
リーゼは、その温度だけを、感じていた。
「エルヴィン様」
「はい」
「あなたの顔を——触って、確かめてもいいかしら」
「もちろん」
指先が、額に触れた。眉。鼻。頬。顎の線。
「……優しい顔」
「見えるんですか」
「見えないわ。——でも、触ればわかる」
指が、唇に触れた。
二人とも、黙った。
百合の匂いが、部屋の中を、ゆっくり動いた。
「……帰りましょう、エルヴィン様。ヴェルナー領に」
「ええ。帰りましょう」
「見えないわ。でも——触ればわかる」、このセリフに全部込めた。
唇に触れた時に二人とも黙るの、何も書かないのが正解。




