第3話 死神の不在
婚約破棄から三日目の夜。
アレクシス第一王子は、回廊の角で刃を見た。
月光が反射する。一瞬。それだけで、体が動いた。
「——ッ」
右腕を短剣がかすめた。制服の袖が裂ける。背後から護衛が飛び出し、暗殺者は窓を破って消えた。
アレクシスは壁にもたれかかった。心臓が、喉のあたりで暴れている。
「殿下、お怪我は」
「……かすっただけだ」
三日で、三度。
石像。毒。刃。
偶然という言葉を、もう一度口にしてみる。口の中で溶けない。
——何が、変わった。
政治状況は同じ。敵対勢力も同じ。セレナとの婚約を快く思わない者はいる。だが、三日で暗殺まで段取りをつけられる組織は、そう多くない。
変わったことは、一つだけ。
「……リーゼロッテが、いない」
呟いて、自分で笑った。馬鹿馬鹿しい。あの地味な公爵令嬢が王宮を去っただけで、世界の何が変わるというのか。
「殿下?」
「何でもない。警備を倍にしろ」
「はっ」
だが、胸の内側に小さな棘が刺さった。
抜けない。
* * *
翌朝。会議室。
騎士団長ハインリッヒが、分厚い書類の束を机に置いた。
「過去八年間の警護記録を洗い直しました」
「それで?」
「殿下に対する暗殺の試み——記録上、ゼロです」
「当然だろう。安全だったのだから」
「いえ、殿下」
ハインリッヒの声が、低くなった。
「ゼロなのが、異常です」
書類が広げられる。
「王族への暗殺の試みは、平均年に三件から五件。先代の王子の時代、陛下の幼少期、必ず記録が残っている。ですが殿下は——八年間、文字通りゼロ。未遂すら、ありません」
「つまり、何が言いたい」
ハインリッヒは言葉を選んだ。
「誰かが、殿下に届く前に、全て始末していた。そう考えるほうが、自然です」
部屋が静かになった。
窓の外で鳥が鳴いている。
「……誰だ」
「わかりません。ただ、その『誰か』が動きを止めた三日前から、立て続けに事件が起きている」
アレクシスの脳の奥で、銀色の瞳が閃いた。
——あの回廊は風通しが悪くて、お肌に悪いですわ。
——お風邪気味ですの? この紅茶、温かいですわよ。
——狩猟祭の前に、森を散歩してもよろしいでしょうか。
あの、退屈な女。事務的で、感情のない、つまらない女。
手の中で、万年筆がきしんだ。
「ハインリッヒ」
「はい」
「ヴェルナー公爵家について、調べろ」
一拍。
「特に、リーゼロッテ嬢の、この八年間の行動を。全て」
「は」
ハインリッヒが退出した後、アレクシスは椅子に深く沈み込んだ。
まさか。
まさか、そんなことが。
* * *
ヴェルナー領。午後。
リーゼロッテは庭園で紅茶を飲んでいた。
昨夜の未来視は当たっただろう。かすり傷で済んだはずだ。あの程度の暗殺者に命を取られるほど、王子は柔ではない。
——よかった。
違う。
——関係ない。
ティーカップを置いた。音が思ったより響いた。
「マリア」
「はい」
「明日から、領地の学校を回りたいの。孤児院も」
「急にどうされました?」
「八年間、他人の命しか気にしてこなかったから」
紅茶の水面が、少しだけ揺れている。
「……これからは、自分の領地を気にしたいの」
「素敵ですわ」
リーゼも頷いた。
頷いたのに、ティーカップの取っ手を、指が白くなるほど握りしめている。
未来視が止まらない。
視ようとしていないのに、勝手に視える。
明後日。王宮の地下水路。三人組。一人は魔術師。魔術を帯びた刃。護衛では、間に合わない。
「……っ」
「リーゼロッテ様?」
「何でもないわ」
空を見上げた。雲一つない。ふざけているくらい、きれいな青だ。
——行かない。行くものですか。
捨てたのは向こうで、捨てられたのは自分。八年間、命を削って、返ってきたのは「地味で退屈な女」という評価だけ。
もう、十分。
十分のはず、なのに。
リーゼはもう一度、紅茶を口に運んだ。
味が、しなかった。
ハインリッヒって書いてみて、騎士団長って肩書あるだけで好感度三割増しになるな、と思った。ずるい。
眠い。寝ます。




