第15話 毒と葡萄酒
教育五日目。
リーゼの視力は、確実に落ちていた。
セレナの表情が、読みづらい。以前なら瞳孔の微細な動きまで捉えられたのに、今は輪郭しか見えない。
——未来視だけは、なぜか鮮明だった。
皮肉なものだ。現実が見えなくなるほど、未来が色鮮やかに映る。
今夜、宰相がリーゼの部屋に毒を仕込む。
夜食の紅茶に、遅効性の毒。即死はしない。一週間ほどで身体が弱る。「病で倒れた」ことにして領地へ送り返す——いや、送り返す途中で「事故」に偽装して処理する。
リーゼは口の端で笑った。
「随分、手が込んでおりますこと」
* * *
夜。
予想通り、夜食が届いた。紅茶と、焼き菓子。
リーゼは紅茶を一口も飲まなかった。窓を開け、中庭の植え込みに、そっと流した。
空になったカップに、エルヴィンからもらった葡萄酒を注ぐ。
「……ランベルトの赤の方が、よほど美味しいわ」
焼き菓子は、小鳥にやった。
翌朝。女官が様子を確かめに来た。
「リーゼロッテ様、お加減はいかがですか」
「すこぶる健康ですわ。昨夜の紅茶、美味しくて、ぐっすり眠れました」
女官の頬が、一瞬引きつった。
報告を聞いた宰相の顔を思い浮かべて、リーゼは一人、紅茶を飲み直した。
* * *
教育は続いた。
リーゼはセレナに、容赦なく「王太子妃の器」を問い続けた。
「セレナ嬢。昨日の課題、三国間の貿易協定の草案はできましたか」
「……途中までです」
「途中まで。王太子妃が外交文書を『途中まで』で出したら、国の信用も『途中まで』になりますわよ」
女官たちが、気まずそうに目を伏せた。
厳しい。が、正当だ。正当であるがゆえに、セレナの不足が日ごとに露になっていく。
宮廷の空気が、変わり始めていた。
——セレナ嬢で、本当にもつのか。
——リーゼロッテ様の方が、遥かに。
——そもそも、婚約破棄は、殿下の判断ミスでは。
囁きが、絨毯の下を這い始めていた。
* * *
教育のあと、リーゼは客間に戻った。
扉を開けた瞬間、足が止まった。
部屋の中に、気配。
視力が落ちているから、暗い部屋の奥がよく見えない。代わりに——未来視が走った。
——危ない。
扉を開けたまま、一歩、後ろに下がる。
「どなたかしら。無断で人の部屋に入るとは、礼儀がなっておりませんわね」
暗がりから、黒衣の男が現れた。
「……気づくとは」
「あら。気づかないと思いました?」
男の手に短剣。今度は毒ではなく、手を汚すほうを選んだらしい。
リーゼは廊下に向かって叫んだ。
「衛兵! 客間に不審者が!」
男が飛びかかってきた。未来視で動きを読む。身を屈めて、避け——
足が、もつれた。
体力の限界だった。
短剣が、左腕をかすめた。鮮血が、絨毯に落ちる。
「——っ」
その時、廊下から足音。
「何事だ!」
アレクシスだった。
偶然ではない。ハインリッヒが去ってから、王子はリーゼの部屋の近くを、毎晩巡回するようになっていた。
剣が抜かれた。暗殺者は窓を破って逃げた。ガラスの破片が散った。
「リーゼロッテ! 怪我は——」
「かすり傷ですわ」
腕から血が流れている。かすり傷では、なかった。
「手当てを」
「結構です」
「結構ではない!」
アレクシスが、強引にリーゼの腕を取った。
その手が、震えていた。
「……また、お前を、守れなかった」
リーゼは、少しだけ目を見開いた。
「殿下が守る必要は、ありません。私は、自分で——」
「もういい。——少しだけ、頼ってくれ」
リーゼは、何も言えなかった。
八年、この一言を待っていた。
今は、遅すぎる。
傷口がじわりと熱かった。
毒入り紅茶を窓から流して葡萄酒飲むリーゼのシーン、好き。「ランベルトの赤の方が美味しいわ」って毒殺未遂の後に言うセリフじゃない。
今日のご飯:カップラーメン。作家っぽくていいでしょ(よくない)。




