その黒巫女は天女か鬼か
翌日の朝、紅夜は窓から漏れる朝日と共に視線を感じ、ゆっくりと眼を開ける。
「……ん? っわ! だ、誰かと思えば、泉千さんじゃないですか! 何してるんですか?」
「気持ち、良さそうに、寝てたから、見てた」
「だからって、そんな覗き込むように見なくてもいいでしょ、驚くじゃないですか」
仰向けに寝ていた顔を覗き込むように見ていた泉千を、避けるように起き上がった紅夜は一息つくように胸に手を当てる。
「駄目、だった?」
「駄目というか、あれだけ近い距離にいきなり顔があるのは……」
艶やかな黒髪に端整な顔立ち白雪が如く透き通るような肌、誰がどう見ても美人であり普段の言動や戦での立ち振る舞いなどを差し引いても美しい女性だと言い切れるほどの美貌を不意打ちで間近で見てしまえば、普段は冷静沈着を心掛けている紅夜でさえ照れてしまう。それを誤魔化すように口ごもっていると泉千は首を傾げる。
「(いや、ほんと、年上なのにその可愛さは反則でしょ)」
自分の美貌に無自覚な泉千のその仕草はどこかあどけなさがあり、灯火が泉千は本物の天然と称するのも紅夜は納得してしまう。
「倒れてから、会えて、なかったから、私も、心配してた、けど、陽奈に、任せたから……今日、顔が見れて、嬉しい」
「……そ、そうですか、それでここに来たのは何か用が?」
相も変わらない無表情なのだが、その中でも僅かに微笑んで見せる。その表情は天女かはたまた女神か、そう思えてしまう程可愛らしく美しい、さすがにこれ以上誤魔化しきれないと思った紅夜は顔を逸らし、話も逸らす。
「うん、稽古、誘いに、来た」
「稽古? 何故に?」
「陽奈に、頼まれた。『高桐さんは、ここ最近、寝てばかり、なんで、今のまま、出陣するのは、危ないと、思います。だから、高桐さんに、稽古を、つけて、ください』って」
「(そう思うなら無理に戦場に出さなければいいのに、まぁ、あれだけの強さを誇る泉千さんに稽古をつけてもらえるなんて貴重な体験かもしれないし、たしかに鈍った体を動かしたいと思わなくもないな、陽奈にしては気が利く)はぁ、わかりましたよ。そう言うことならお願いします」
「そうそう、こうも、言われた『ちゃんと、殺さない、用に、お願いします』って、だから、大丈夫」
「……えっ、それって、どういう――」
「じゃあ、行こっ――紅ちゃん」
ため息交じりに頷いた紅夜に泉千は思い出したかの如く陽奈からの不穏な言葉を口に出すと、一瞬の静寂の後、紅夜の質問には答えずに、腕を取り、ようやくちゃんと呼べたと言わんばかりに笑顔で紅夜をあだ名(泉千が付けた)で呼び、熊木城内の道場に向かった。
この道場で利髭と一騎打ちをしたことをすでに一昔前のように紅夜は思い出し、懐かしんでいられたのは最初の内だけだった。
あれからいく時が流れただろう。
稽古を始めた頃は朝日だったにも関わらず、道場の格子から漏れる日差しはすでに橙色になっていた。
滴り落ちる汗で湿る木張りの床に掌と膝をつき、乱れる呼吸と破裂するのではないかと錯覚させるほど脈打つ心臓を落ち着かせようと反射的に大きく息を吸い大きく息を吐く、綺麗に磨かれた床に映る紅夜の表情は天女や女神を前にしている表情からは程遠く、まるで鬼を見た童のように恐怖の色が濃く表れていた。
「(――これは死ぬ、いや、殺される。――厳しい、なんて、もんじゃない、こんな稽古、受けてたら――戦に出る、とか、それどころじゃない、なんとか、逃げ、逃げないと)い、泉千さん、そろそろ――」
「うんっ、そうだね、そろそろ、体も、温まって、きたから、私と、本気の打ち合い、やろうね、紅ちゃん」
嬉しそうにそう言っているのはわかるのだが、無表情に近いので、どうしても言葉通りの美しくも可愛い顔に見えず、これまで半日以上の稽古と言う名の容赦のない調練を受けたせいか、今朝見ていた顔とほとんど同じなのにも拘らず、どうしても泉千の顔が恐ろしく映ってしまう紅夜は、最早逃げる気力も体力も無く、一歩、また一歩と近づいてくる泉千に対して出来ることはただ一つだった。
「(くそっ、この状況を打破するにはこれしかない)」
そう思った紅夜はゆっくりとそのまま首を垂れるように額を床につける。
「いや、ほんと、もう、勘弁してください」
懇願だった。
それは心からの懇願であり降伏だった。
男の意地も誇りも捨てる、その姿は情けなくもあり自らの至らなさを認める清々しさがあった。
「……ん? なんで?」
一瞬、間が開いたので紅夜はゆっくりと顎を上げて泉千の顔色を伺うが、そんな紅夜の姿に心打たれるどころか眉一つ動かさず、真顔で首を傾げる泉千の姿がそこにはあった。
それは奇しくも今朝、紅夜が口ごもった際に見せた姿と瓜二つ。
「(これ、俺は今朝可愛いと思ったんだよな。それが今じゃ……圧が凄すぎる。めちゃくちゃ怖いんだけど、なんだあれ、というか、七條方はこんな人と対峙してたのか)――その、もうすぐ日も落ちますし」
「大丈夫、灯り、点ければ、まだまだ、やれる」
あまりの恐怖に、遂には七條方にまで同情してしまう紅夜に泉千は無情にもそう返す。
「それは、そうかも、しれないですけど、正直言うと、もう、手足が動かないと言いますか、この体勢さえ厳しいぐらいで――」
「えっ、大丈夫? ……ん? 手足、ちゃんと、くっついてる、よ?」
紅夜の言葉に泉千は心配した様子で駆け寄り紅夜の肩関節や股関節辺りに触ると首を傾げ、そう言った。まるで、手足が胴体に付いているにも関わらず動かせないと言う意味がわからないと言った様子で。
「(……泉千さん基準だと、そうなるのか、ああ、ほんと、気軽な気持ちで泉千さんに稽古つけてもらえるなんて思っていた今朝の自分を殺したい、……そんなこと言ってても仕方ないか、まぁ、背に腹は代えられない。かくなる上は、腕を折ってでも、この場から――)」
そうまでしてでも逃げなければここで死ぬと本気で思った紅夜は、左腕をへし折ろうと覚悟を決める。
「でも、よくよく、考えれば、陽奈がいるから、多少は、……大丈夫か」
その言葉は紅夜の体を心配して言ってくれているのだが、今の紅夜には『手加減せずに戦っても、多少ぐらいなら壊れても治るからいいか』と言う風にしか聞こえず、最後の手段である懇願も聞き入れてもらえないのだと察した紅夜は何かを悟ったような顔をして天井を見上げた。
「(もう、駄目かもしれん)」
あとは泉千の気が済むまで付き合い、屍になるしかないのだと、諦めたその時、ことの発端となった陽奈が道場の入り口の扉の間からひょっこりと顔を覗かせる。
「稽古の方は順調です――か、って、何してるんですか泉千さん! 高桐さんが疲れ切ってるじゃないですか!?」
霊力は消耗し、汗を滴らせ、力なく道場の床に崩れるように、ほとんど土下座状態になっている紅夜を見て、驚きの声を上げ中に入ってくる陽奈はすぐに紅夜の横へ駆け寄ってしゃがみ込むと『大丈夫ですか』と背中をさする。
「心配、しなくても、大丈夫、ちゃんと、四肢は、健在」
「それは当たり前です! もう、わたしはただ、戦に備えてだけじゃなく、体を動かすことで少しでも高桐さんの気を紛らわせようと思っただけなのに、やり過ぎですよ」
「ん? 陽奈は、殺さないように、としか、言ってない」
「だからって、死にかけるまで追い込む人がどこに――いえ、稽古に関しては、泉千さんはそう言う人でしたね」
陽奈が呆れるように目を細め泉千を見るが、何のことかわからないと言った様子で首を傾げる泉千。
「とにかく、稽古はもう終了です」
「でも、これからが、本番だから――」
「だ・め・で・す!」
陽奈の言葉にようやく泉千が折れ、仕方ないと言わんばかりに、残念そうに肩を落とす。
「高桐さん、しっかりしてください、もう稽古は終わりましたよ。気をしっかり持ってください。ここまでのことになる何て思ってなくて本当にごめんなさ――」
その声がようやく紅夜の耳に届き、解放されたことを理解した紅夜は陽奈を抱き寄せた。
「――え、えっ、高桐さん!?」
突然のことに驚き頬を赤く染める陽奈はどうしていいかわからずに瞳を左右に振り両手を上げていると、自分の肩ですすり泣く音が聞こえてくる。
「えっと、……高桐さん? もしかして泣いて――」
「泣いてない」
「でも――」
「泣いてない」
意地でも認めないと言った様子はまるで子供のようだったのだが、そんな紅夜を見て陽奈はそれ以上何も言わず、『はい』とだけ答える。
本来の紅夜なら『陽奈のせいで死にかけだぞ』とでも言うのだろうが、逃れることを一度諦めたところから助かったことにより安堵感が勝ってしまい、込み上げてくるものを隠すように陽奈の肩に顔を埋めるその姿からも泉千の稽古が常軌を逸していたことが窺い知れる。
泉千の稽古が厳しいことを知っていた陽奈ではあったが、ここまで紅夜が追い詰められるとは思わず、『どれだけ厳しい仕打ちを受けたんですか』と憐れみと同時に呆れつつも、紅夜が落ち着くまで、何も言わずに肩を貸した。
こうして鈍っていた体を叩き起こして貰った紅夜の記憶には、この道場は利髭と一騎打ちをした場所と言うよりも天女のように美しい鬼(泉千)に扱かれ恥をかいた場所として記憶に上書きされたのだった。
そうして紅夜は自らに誓った。もう必要以上に、床に伏せるのは止めようと・・・。
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