撤退
「容体は?」
運ばれてきたバストラングを見ながら、シルディエはそう問いかける。
そんなシルディエの問いに、バストラングの治療に当たっていた白魔導師が答える。
「止血は終わりましたが、血を失いすぎています。しばらくは絶対安静です」
「命に別状はないと?」
「はい。安静にしていれば、いずれ目を覚ますかと」
その返答に、シルディエは内心で安堵する。
この白魔導師はクウヤと共にシルディエ軍の治療に当たっていた人物であり、その技量はクウヤほどではないにせよ一流と呼んで差支えない。
そんな魔導師が太鼓判を押すのなら、まず間違いはないだろう。
「しかし、戦線復帰は…」
「分かっているわ。そっちは私が何とかするから、心配しないで」
苦言を呈そうとする白魔導師に、シルディエはそんなことを口にする。
バストラングが戦えないことなど百も承知だ。
となれば、今日の戦果はドルガー将軍の右肩ということになる。
代わりにこちらはバストラングという最大の戦力を失った。
となれば、次に出るべきは……。
「私、でしょうね」
そうつぶやくシルディエに対し、隣で様子を見ていたサルラが確認する。
「まさか、シルディエ様が立ち向かうとおっしゃるのですか?」
そんな副官の問いに、シルディエは頷く。
「き、危険すぎます! シルディエ様にもしものことがあれば! いえ、それ以前に、シルディエ様以外の誰にリスタコメントス軍を率いれるというのですか!?」
「今日の戦いを見ていたでしょう? あの将軍が正面から飛び込んで来れば、こちらの陣形など瞬時に突破されてしまう。父上率いるあの軍は、策でどうにかできる軍ではないのよ」
「………」
シルディエの言葉に、サルラは苦悶の表情を浮かべる。
サルラ自身も非常に聡明なので、シルディエの指摘はとうに理解しているだろう。
ドルガー軍そのものもかなり精強な軍ではあるが、それをドルガーが率いた場合、生半可な陣形や罠など正面から突破されてしまう。
だが、サルラから見ても総司令であるシルディエが前線であの怪物と戦うことを容認することは難しい。
指揮官がいなくなるということも深刻なのだが、彼女はフィナリアの時にも彼女が前に出ることを諌めようとしていた。
前線で血を流すべきが自分たちであるということを、誰よりも理解しているのだ。
そんなサルラの葛藤を見透かしたシルディエは、諭すようにサルラに声をかける。
「最早選択の余地はないわ。私が出ることを咎めるなら、代わりに父上を止めることのできる者を見つくろいなさい」
「……それは」
サルラ自身理解している。
猛将ドルガーを止められる可能性があるとすれば、かつてバストラングに一撃を入れたことのあるシルディエだけだということを。
「では、誰が軍の指揮を執ると?」
最後のあがきとばかりに、シルディエを追い詰めるだけの問いをサルラは口にした。
「指揮官の不在を憂うなら、私が父上と戦いながら指揮を執る」
「そ、それは」
そんなことが出来るはずがない。
僅かでも余念や雑念があれば、ドルガーという将軍はシルディエを真っ二つにしてしまうだろう。
自分に力があれば。
そう思うサルラだったが、所詮は無い物ねだりだということは理解している。
ゆえに彼女が次に口にする言葉も決まっていた。
「分かりました。リスタコメントス軍の指揮は私が執ります」
そう言ったサルラに対し、シルディエは頷く。
「守備に徹すれば、あなたでも十分に時は稼げるわ」
その言葉に、サルラは苦々しい表情を浮かべながら頷いた。
二人ともわかっていたからである。
両方が守りに回っては、時間は稼げてもジリ貧だと。
だが、それ以上の策もないほどに彼我の戦力差は大きいのだ。
「明日は、厳しくなるわ。もう休みましょう」
「……はい」
そう言って、二人は会議を終えた。
あまりにも厳しすぎる状況に、二人は重苦しい沈黙を抱えながらそれぞれの天幕へと戻る。
しかし、彼女たちの覚悟と決意は、翌日もたらされた一報によって霧散した。
その報告とは、ドルガー軍が撤退したというものだった。
「全く、生きた心地がしませんでしたよ」
戦場を後にするドルガーの副官ゼインがそんなことを口にする。
ゼインはドルガーのように突飛な戦闘能力を有してはいない。
というより、単純な戦闘能力だけでいえば彼を越える猛者はドルガー軍内にはかなりの人数が存在している。
ゼインはドルガー軍専属の魔導師であり、指揮官であり、参謀である。
ドルガー軍を率いることはできるが、ドルガーのように戦うことはできないのだ。
当然今回のようにドルガーが前に出た場合、ゼインは後方からの指揮に徹することになる。
逆を言えば、ドルガーもゼインが指揮を取ってくれるからこそ何の気兼ねもなく特攻できるのだが、そのたびにゼインは心労を患うのである。
ドルガーを諌めるゼインの言葉に、ドルガー自身も頷いた。
「まさかあ奴が一晩で奥義を使いこなすとは思わなんだからな」
「……気は済みましたか?」
ゼインの問いに、ドルガーは頷く。
「シルディエの奴も随分と戦術眼が身について来ておった。あの獣人も、シルディエの奴も、恐らく次合うときはさらに強くなっておることだろうよ」
どこか楽しそうなドルガーの言葉に、ゼインは頷いた。
ドルガー軍の目的はあくまでリスタコメントスの制圧であり、シルディエの部隊に打撃を与えただけの現状では十分な戦果を上げたとは言えない。
そして先の一戦で得たリスタコメントス軍の経験は計り知れない。
帝国最強の軍隊と真正面からぶつかり、主力のバストラングは奥義を深いレベルで身に付けた。
本来であれば、多少無理をしてでもこの場でたたいておくのが正解である。
しかし、ドルガー軍にはそれが出来なかった。
否、厳密には今朝出来なくなったのだ。
「……それにしても、なぜ今勅命が?」
ゼインの問いに、ドルガーはどこか楽しそうだった表情を引き締め答えた。
「おそらくエベルスの奴が北でしくじりでもして撤退したのだろうよ」
そう言うドルガーの背には、鎧越しに薄らと深紅の魔法陣が浮かび上がっていた。
それは獣人族の身に刻まれていた隷属魔法に似ていたが、それよりもはるかに巧妙で複雑怪奇な模様を浮かべていた。
「将軍のお体に影響は?」
「ない。しかし、すぐにでもヴァルシアへと帰還しなければ隷属魔法がこの身を苛むこととなるだろう」
そう言いながら、ドルガー軍はノルガ平原を北上していた。
「それは間違いない情報?」
シルディエの問いに、伝令兵は頷く。
「今朝撤退を始めたドルガー軍は、すでに国境付近に差し掛かっている模様です。あちらも隠すつもりはないのか、隠密行動の一切を無視して強行軍しております」
その報告に、シルディエは納得できないものを抱きながら安堵する。
あのままドルガー軍とぶつかっていれば、勝つことはおろか今日を乗り越えることができたかどうかも怪しいほどだったのだから、シルディエが安堵するのも無理はないだろう。
というより、リスタコメントス軍全軍が同様に安堵しているはずだ。
今も絶え間なく間諜と斥候を放っているのだが、その報告を聞き、シルディエはノルガ平原から軍を引き払うことを決定した。
重ねて言うようだが、ドルガーは小細工を弄するような人物ではない。
撤退するとなれば、見つかることなど度外視して速度優先で撤退することとなるだろう。
である以上、ドルガーが撤退したという情報は確かなものだろう。
「よかった。と言うべきでしょうか?」
シルディエに対して、副官サルラがそう問いかける。
その問いに、シルディエは頷き応じた。
「間違いなく、この上ない僥倖と言えるわね。あのまま戦っていれば、こちらの被害は想像を絶するものとなっていたでしょう。昨日はああいったけど、どう考えてもこちらの不利は否めなかったから」
「……逆を言えば、ドルガー軍にとってはこの上ない好機であったはずなのに、なぜ追撃せずに撤退していったのでしょうか?」
サルラの疑問はもっともなものだった。
シルディエ自身、なぜドルガーがこんな選択をしたのかが皆目見当もつかない。
「……いずれにしてもこのことは直ちにカーナイル殿に報告しなければ。サルラは撤退準備を進めておいて」
「分かりました」
そう言って、サルラは天幕を後にする。
一人残ったシルディエは、一人天幕の天井を仰ぎ見る。
この度の一戦は、ドルガー軍の立場から見ればこの直後に追撃をかけてこそ初めて勝利できたと言える一戦だった。
一戦交えてこちらの手の内を見極め、二日目に主力であるバストラングに深手を負わせはしたが、言ってしまえばそこまでだ。
ドルガー軍が功績を上げようと思えば、重要なのはこの三日目であったはずなのである。
なのに、ドルガー軍は絶好の機会を棒に振って撤退した。
理由は皆目見当もつかないが、この撤退はドルガー軍から見れば百害あって一利なしであり、逆にリスタコメントス軍から見れば百の利益があるのだ。
それはただ軍に被害が出なかったというだけの話ではない。
こちらはドルガー軍と正面からぶつかり、本物の軍とはどういうものかということをリスタコメントス軍は身を持って理解したのだ。
シルディエ自身も、父の軍と衝突してその対処法を検討する時間的余裕が生まれた。
そして、バストラングに至ってはドルガーとの一戦で大きくその力を増している。
「ここまで来ると、父上はまるで」
こちらを鍛えるためにこの場に来たのではないかとさえ思えてきてしまう。
しかし、それはありえない。
シルディエの父、ドルガー・グランガイスは、戦の前に確かに告げたのだ。
自分は帝国の将軍であり、帝国の敵になるもののすべてを排除すると。
「父上。あなたはいったい」
何を考えているのですか。
今や問うことのできないその疑問を、シルディエは自分の胸の深くに仕舞い込んだ。
ドルガー軍が撤退したのはこちらにとっては願うまでもない僥倖だが、この一戦で山ほど課題が出来たのも事実なのだ。
余計なことを考えている暇などありはしないのだ。
「とりあえず、出来た時間は有効に使わないと」
そう言って、シルディエは立ち上がった。
最早ノルガ平原に長居する理由はない。
いち早く撤退することが今の最優先事項である以上、自分も撤収の指揮を執るべきと考えシルディエは天幕を後にした。
その胸に、僅かなしこりを残しながら。




