魔窟
エベルスから預かった紹介状を手に、シルディエは要塞都市ヴァルシアの門をくぐる。
現在帝都にある宮殿は未だに復旧が進んでいないため、皇帝陛下をはじめとする重鎮のほとんどはこの都市に住んでいるのだ。
要塞都市ヴァルシアは、5000年もの昔に起こった災害戦争時、人族を束ね、魔族を魔界へと追いやった大英雄グランツ・ローゼンバルクが人族を率いたと伝えられる砦の跡地なのだ。
代々の皇帝は、このローゼンバルクの直系に当たる。
そのため、当時の人族を存命させた大英雄の子孫である皇帝は臣下から敬われているということなのだが、今の帝国貴族は明らかに皇帝の権力目当てに寄り集まる俗物ばかりであり、皇帝もそのことに気を良くしている。
そんな皇帝たちだからこそ、武骨な要塞都市に住むのは我慢ならないのだろうとシルディエは考えていた。
災害戦争時に、人族を率いた大英雄が拠点としていただけあって、要塞都市ヴァルシアの構造はシルディエから見ても実に実践的かつ合理的に造り上げられている。
攻めるに難く、守るに易い。でありながらも兵士の収容人数や、物資の貯蔵量も多い。
遥か昔は帝都であったらしいが、いつしかこの要塞都市の東に宮殿を造り上げ、時の皇帝がそちらに帝都を移したのだ。
現在のような戦時下においては、帝都の宮殿よりもこの都市にいる方がはるかに安全で合理的だとシルディエは思ったが、戦場はおろか空腹や飢えという経験にさえ乏しいオルバールをはじめとした帝国の重鎮たちにそのような考えを理解させる方が困難だという父の言葉を思い出して思考を止める。
エベルスの紹介状の効果は凄まじく、普段は面会の類を一切行わない皇帝への謁見許可があっさりと下り、シルディエはヴァルシア内に仮設された玉座の間へと案内される。
案内された扉が開かれ、シルディエの目に謁見の間が入る。
直後、シルディエはこれまで感じたことの無い悪寒のようなものを感じた。
シルディエは国境警備軍を束ねる者として数々の戦場を渡り歩いてきた。
そんな彼女の感覚が、この場は危険であると警鐘を鳴らした。
だというのに、何が危険なのかが皆目見当もつかなかった。
戦場であれば、伏兵がいたり、罠が仕掛けてあったりというおおよその当てが付くというのに、扉の奥から感じるのはこれまで感じたことの無い悪寒のみだった。
しかしこの期に及んで後に引く子も出来ないと覚悟し、シルディエは謁見の間へとつながる扉をまたぐ。
直後、空気が一気に重くなった。
否。重くなったというより、一気に臭くなった。
鼻孔をくすぐる匂いではなく、魂を腐らせるような何かが、この場には満ちていたのだ。
しかしこの場で立ち止まるわけにはいかないと、シルディエはいきなり重くなった足を動かす。
一歩踏み込んだ時、シルディエは悪寒の正体に気が付いた。
悪意である。
いくつも聞こえてくる雑音が、この場に満ちた腐った空気の正体を教えてくれた。
「辺境の野蛮な小娘が、よくもこんなところに来れたものだ」
「ドルガー将軍の娘と言うが、エベルス卿を誑し込みでもしたのか?」
「ほほう、それはうらやましい。こちらもあやかりたいものですな」
などという会話が聞こえてくる。
自分の歩く道の左右にずらりと並んでいるのは、この帝国の重鎮たちだ。
その貴族たちは、全員がこちらに対して悪意のこもった視線を投げかけてきているのだ。
シルディエも戦場を渡り歩く身として悪意にさらされることには慣れている。
しかしこの場に満ちている悪意は、性質も密度もまるで違った。
戦場で受ける敵意とは異なり、今立っている場所が、一瞬のうちに蛆まみれの泥沼に代わってしまうかのような不安感が募る。
初めて感じる類の濃密な悪意の満ちた空間に放り出されたシルディエは、しかしその内心を表に出すことなく毅然と歩む。
正面に作られた仮初の玉座には帝国皇帝オルバール・L・トルデリシア。
その左には帝国魔道総師ロイルド・インディオス。
そして右には自分の父ドルガー・グランガイスがいた。
父の顔色を伺い、シルディエは眉をひそめた。
父の表情は記憶の通り巌のように無表情であったが、その目がこの場に来たことを強く咎めているように見えたゆえだ。
『なぜ、お前はこの場にやってきた?』
その鋭い眼光の中に、僅かばかりにこちらの身を案じるような感情を読み取り、シルディエは歯噛みする。
自分とてこの場に来ようと思っていたわけではない。
エベルスの無理強いがなければ、このような場所に来ようと思ったりはしない。
しかし、無理にエベルスに逆らえば、あの将軍に付けこむ隙を作るだけであり、下手をすれば自分の父にさえ咎が及ぶかもしれないと思ったからこの場へやってきたのだ。
あのエベルスという将軍が陣頭指揮を執ったためしなどない。
ゆえに適切な追撃の機会を損ないはするが、自分がこの要塞都市へ向かうだけであれば特に問題も発生しないと思い、シルディエはこの場へと赴いたのだ。
しかし、父の視線に含まれた危惧の念を感じた時、シルディエは頭の中に一つの想いがよぎった。
自分は、あの場でエベルス将軍を槍で貫いてでもこの場に来るべきではなかったのではないかと。
「…シルディエ・グランガイス。ただいま参りました」
歩みながらそのような思考をしていたシルディエは、適切な距離まで近づいた頃合いをもってその思考を中断して跪きながらそのように告げる。
そんなシルディエを、皇帝は面白いものを見るような目つきで眺めていた。
「貴様がドルガー将軍の娘、シルディエか。どれ、表を上げよ」
「……」
そう言われ、シルディエは顔を上げる。
そんなシルディエの顔を見るや否や、皇帝は舌なめずりをしていた。
その表情は、先日見たエベルスと瓜二つの気持ちの悪いものだった。
「さて、おおよその内容は聞いているが、お前の口から申してみよ。どのような手土産をもってこの場へ来た?」
内心を表情に出さぬようにこらえながら、シルディエは歩くことさえ困難そうな豚皇帝に報告をする。
「先日、リスタコメントス国内にて我が帝国軍が連合軍の兵1万を相手に勝利しました」
シルディエの報告に、広間にいる者達が僅かにどよめく。
「つまり、お前は余に仇成す反逆者に鉄槌を下したということだな?」
「…それについてはまだ何とも、リスタコメントスの主力は打ち破りましたが、王都の攻略はこれからですので」
「ふふふ。謙遜はよせ。無能な領主共のせいで我が帝国の属国であるリスタコメントスは反乱軍に奪われてしまった。そんな反乱軍相手に見事に勝利を収めたのだ。お主は胸を張っていいぞ」
素直にこちらに賛辞を送るオルバールに対し、シルディエは眉を寄せる。
噂で聞く限りでは、この皇帝はこのように他者をほめるような人物ではなかったからだ。
「さて、わしの元へと朗報をもたらしたお主には褒美を取らせねばな」
そう言って、オルバールはその場から立ち上がり、値踏みするような目つきをしながらシルディエの元へと歩み寄ってきた。
下衆びた笑みを浮かべながら近づいてくる皇帝は、シルディエのそばまで歩みより、その顎に手を当てた。
「お主に余の側室になる権利をくれてやろう」
その皇帝の言葉に、広間は喧騒に包まれる。
オルバールは誰もが知る好色家であり、美女を手に入れるためには手段を択ばない人物である。
逆を言えば、好色家の皇帝に自分の息のかかった女を見初めてもらえばすぐにでも皇帝との縁が出来上がるので、貴族たちは皇帝のために日々血眼になり美女を探しているのだ。
そんな貴族たちを差し置き皇帝に見初められたシルディエに、一部の貴族たちが嫉妬にも似た視線を飛ばす。
しかし当の本人は、皇帝の脂ぎった手の気持ち悪さを表情に出さないように我慢するので手一杯であった。
「…皇帝陛下。お気遣い、誠にありがたく思います」
「ならば」
と口を開いた皇帝に対し、しかしシルディエは言葉を返す。
「しかし、私は皇帝陛下に仇なす者達と戦うためにこの身を捧げました。未だに陛下へと牙をむく者達がいる今、私の役目はその者達を駆逐することです。その使命を完遂するまで、この身は陛下にふさわしくございません」
シルディエの言葉に、オルバールは眉を寄せる。
かなり遠回りではあったが、自分を拒絶したシルディエに対して、オルバールは目に見えて不機嫌になっていった。
「…お前は余の妃になることを拒むということか?」
わずかな怒気を含んだその問いに、シルディエは首を横に振る。
「私は父と同様にこの身を陛下と帝国にささげました。陛下の御話は誉の極みではありますが、私には未だに成さねばならないことがあります。陛下から賜った使命を途中で投げ出したとあれば、グランガイスの家名に傷をつけることになります」
そう告げたシルディエは、僅かに視線を右にそらした。
その視線の先には、帝国最強の将軍ドルガーがいた。
「……ドルガー。お主の娘はこう言ったが、お主はどう思う?」
オルバールの問いに、ドルガーは臣下の礼を取りながら答える。
「陛下の御話は誠にありがたく存じます。わが娘を陛下にお捧げ出来るのであればこれ以上の誉はございません。しかし、先ほどシルディエが申しあげたとおり、武門に身を置く我々グランガイスの者が、帝国へ仇なす反乱分子を見逃したとあっては他者に示しがつきませぬ。どうか、この騒乱が収まるまで、我が娘の望みをかなえていただけないでしょうか?」
俯いたその姿からは、どのような表情を浮かべているのかを読み取ることはできなかったが、ドルガーはオルバールに対してそのように告げる。
ドルガーの言葉に、オルバールは眉をひそめる。
「……仮にお主の言を受け入れたとして、未来の妃を戦場へ送り込むことを余に認めよと、お主はそう申すか?」
「そのことであればご心配は必要ありません」
オルバールの言葉に、ドルガーは間髪入れずにそのように切り返す。
「シルディエは私が手塩にかけた無双の猛将。戦場にて遅れを取るようなことはありえません。しばしお時間を頂ければ、必ず陛下の妃としてふさわしい武勲を挙げることでしょう」
そのように告げたドルガーを見下しながら、オルバール皇帝はフムと弛んだ顎に手を当てる。
「お主がそこまで言うのであれば、その言葉を信じるとしよう」
そう言って、オルバールは踵を返して王座へと戻る。
「シルディエ・グランガイス。お主の望み通り、戦場へ出向くことを許そう」
「は、ありがたき幸せ」
そう言って、シルディエは立ち上がって踵を返し、広間の出口へと向かう。
その時、シルディエは出口の最も近くにいる一人の男と目があった。
この謁見の間にいる者達は、中央の最奥にオルバール皇帝を置き、その左右を臣下達がずらりと横一列に並んでいる。
これは皇帝陛下から臣下達の顔が一望できるようにという並びになっていると同時に、それぞれの臣下の立場を大まかに表してもいる。
エベルス・ホットファードやドルガー・グランガイスといった将軍や、魔道総師であるロイルド・インディオスのような側近は皇帝から大いに信頼されているのだが、出口に近い位置にいる臣下は皇帝からそこまでの信を受けておらず、身分もこの場に居る者達の中では低い。
この場にいる以上は帝国の上級貴族なのだろうが、入り口付近にいるということはその中においてはもっとも地位が低い人物であるはずである。
だというのに、その男の視線に、シルディエは言いようもない不吉な何かを感じ取り、足を止めて声をかけた。
「ライエット・メイスナー卿。何か?」
「いや、ただそちらの武運を祈っていただけだが?」
こちらを観察するような視線をそのままに、ライエットはシルディエに対してそのように言い放った。
しかしそのライエットの言葉にはこちらの身を案じるような感情は一切含まれていない。
だが、それに加えて目の前の男からは悪意も感じ取れなかった。
それがシルディエに言いようのない不安をもたらした。
この悪意渦巻く魔窟のなかで、この男はまるで異質なのだと。
「そうですか。ありがとうございます」
そんなライエット・メイスナーに対し、シルディエは会釈したのちに扉をくぐった。
不吉な男の、何もかもを見透かそうとしているようなその視線を受けながら。
「……」
ヴァルシアを後にしながら、シルディエは先ほどの謁見の間で行われたやり取りを思い出す。
エベルスに言われるがままに謁見の間に入ったシルディエであったが、そのあまりにも異質な空間に、戦場とはまるで違う空気の重さを感じていた。
まるで魑魅魍魎の巣窟のような謁見の間の空気は、いっそ戦場の血なまぐさい空気の方が新鮮なのではないかと思えるほどに淀み切っていた。
「あんな空気を…」
あの場の者達はいつも吸っているのか?
そのように考えシルディエは背筋にうすら寒いものを感じた。
「以前、父は帝都を魔窟と表現していたけど、その意味が今ようやく分かったわ」
あのような空気を、父は常に吸い続けているのだ。
人を心の奥底まで腐らせてしまうような陰謀の念が渦巻くあの雰囲気にのまれれば、まともな者であればあっという間に欲望に飲み込まれてしまうだろう。
同時に、自分の父であるドルガー・グランガイスがあのような空気にさらされながらも未だに高潔な武人である事に対して、シルディエは憧憬の念を抱いた。
そして同時に、謁見の間の出口で言葉を交わした男の存在に背筋を震わせた。
「ライエット・メイスナー」
シルディエは、恐らくあの場に居ながら、その空気に全く毒されていないであろうもう一人の人物の名を口にした。
父ドルガーとは異なり、その眼は鋭さではなく暗黒のような暗さを宿していたが、そこには他の貴族にみられる腐敗の色が全く見て取れなかった。
「…今はそんなことを気にしている場合ではないわね」
シルディエはそう言って、馬を走らせる。
自分は兵士であり、戦場に身を投じるだけの武人。
戦うこと以外を考えるのは、自分の仕事ではない。
「父上、あなたがどう思おうと、私は武人です」
そのような独白を吐き、シルディエは謁見の間での一件を頭からたたき出す。
謁見の間では皇帝相手にああいったが、シルディエは皇帝の妃になるつもりなど毛頭なかった。
美辞麗句を並べはしたが、シルディエにとって最も重要なのは皇帝や帝国ではなく人間界に住む民の安寧だ。
自分の槍はそのために振るわれるべきであると、父に教わっていたからだ。
だからこそシルディエは進軍する際にもリスタコメントスの民をむやみに傷つけないようにノルガ平原を戦場に選んだのだ。
そんな父が、皇帝に向かって口にした言葉は、まず間違いなく詭弁だろう。
現に、父の口添えで自分はこうして魔窟から脱出することが出来たのだ。
「……」
後方を振り返り、シルディエは自分が先ほどまでいた魔窟を見る。
いかに自分の真意が違うとはいえ、皇帝にああいったのだからいずれこの場に戻らなければならない日がやってくる事になると考え、シルディエはその考えを頭からたたき出す。
戦場では先を見通せないことが普通である。
どのような状況であっても対処して見せるという心構えさえしていれば、どうにでもなるものだ。
先の事はその時になってから考えればいい。
今はまず、敵を打ち滅ぼすことだけを考えればいい。
「……」
そう考えを切り変えた直後、シルディエは戦うべき敵のことを思い出して再び言葉を詰まらせた。
「フィナリア・ノーストン」
先日激突したフィナリア軍は、風龍を扱う指揮官に、上空を舞う巨大な炎鳥、騎馬・鉄鎖陣を止める巨漢の獣人、などという常識外れの戦力を抱えていた。
そして兵士たちもきわめて指揮が高く、何かしらの志なしにはあれほどの結束を生み出すことは出来ないとシルディエは戦った直後から思っていた。
「…いつから、私はこんなに迷うようになったのかしら」
馬を走らせながら、シルディエはそんなことをつぶやいた。
以前の自分であれば、迷いなく敵を叩き潰すことだけを考えられたというのに、なぜそのように迷うのかが彼女には分からなかった。
そして彼女は知らなかった。
中継地点に選んだ先の町で、彼女に衝撃的な報告が届くということを。




