解放作戦・下
隷属魔法。
魔法陣を刻んだ対象に苦痛を与え、必要とあればその命を奪うことも可能にする魔法。
この魔法により、この世界ではその気になれば簡単に逆らうことを許さぬ奴隷作ることが可能である。
魔法を刻まれる対象は主に三つ。
一つ目は獣人として生まれた者達。
二つ目は兵士に捕らえられた盗賊たち無法者。
三つ目は貴族に見初められた妾達。
他にもさまざまな用途があるが、大まかに言えばこの三種類である。
その中でも最も数が多いのは獣人族の奴隷たちである。
何しろ生まれた時には隷属魔法をその身に刻まれるのだ。
事実上、獣人の数だけ貴族は奴隷を持っているということになるのだ。
そして隷属魔法をかけられた者達は、契約者に逆らうことができないことに加え、契約者がその気になれば簡単に殺されてしまう。
その魔法と制度こそが身体能力で優れる獣人たちが反乱を起こせなかった最大の理由なのだ。
しかし何事にも穴がある。
この隷属魔法は、奴隷を無尽蔵に増やすことが可能だが、主となる契約者は一人でなければならないという制約が存在している。
複数の契約者を作ることも可能だが、その場合命令が少しでも混濁してしまうと隷属魔法が相克してしまい魔法の束縛が極端に弱くなってしまうのだ。
大人数の奴隷たちを矛盾なく複数の主が管理することは事実上不可能なので、隷属魔法には主が一人しかいないという欠点が存在するのだ。
そのため、カーナイルのように自由を認めている領主の奴隷たちであっても、他の貴族たちが支配することはできない。
無論捕虜として魔法陣を書き換えればそれも可能だが、さすがに手間がかかるため誰もやろうとはしない。
ただし主が一人だけという特性上他の欠点も存在する。
それは一か所でしか奴隷を使役することができないという欠点だ。
一人の主の奴隷の数を絞ってしまえば問題はないのだが、腐敗貴族という連中の欲望は際限がない。
そのためどこの領地であっても領主が奴隷を一括管理するという伝統が出来上がっていた。
これに対処するための機能が隷属魔法には備わっている。
それは仮契約者という、奴隷の主としての権利を限定的に譲渡された存在の事である。
仮契約者になる条件は契約者の承認を受けることだけ。
そして与えられる権限は契約者とほとんど変わりがない。
ただし一つだけ契約者と違うところがある。
それは、契約者と仮契約者の命令が衝突した場合には契約者の方が優先されるということだ。
(だからこそ、そこに付け入る隙が存在しているのです)
それがフィナリアの出した結論。
彼女とカーナイルは、思いつきで帝国に反旗を翻したわけではない。
二人が二人とも長い歴史の中奴隷として扱われてきた獣人たちをあわれに思い、彼らを解放したいと願い用意をしてきたのだ。
クウヤとの一件はそのきっかけに過ぎない。
だからこそ、フィナリアはカーナイルと共に隷属魔法の特徴と抜け穴を探し続けていた。
本来なら隷属魔法を熟知した自分がマトワールと対峙するべきなのだが、状況から見て配役が最も適切な配置を考えればクウヤとファーレンベルクを向かわせた方がいいという結論に至ったのだ。
こちらの勝利条件は二つ。
最優先事項は契約者であるマトワールの制圧。
続いてバストラングの妹であるアイルの奪還。
奴隷たちを一括管理しているのは、間違いなく領主であるマトワールであり、その身柄さえ押さえてしまえば、仮契約者であるクルドが隷属魔法を行使することはできなくなるのだ。
(クウヤさんの成否がバストラング殿の、ひいては獣人族の未来を決めるでしょう)
そんな重要なことを、知ってか知らずかクウヤはあっさりと引き受けた。
そしてフィナリアの役目は作戦成功のために注目を集めるという目的でバストラングとの一騎打ちを行ったのだ。
だからこそ、今フィナリアはバストラングと打ち合っている。
風魔法『浮遊』によってその身を軽くしたフィナリアは、獣人族であっても考えられないような速度で攻撃を繰り出している。
この魔法は体重を軽くするという性質を持っており、そのせいで彼女の攻撃はとても軽い。
尋常ではない身軽さから繰り出される目にもとまらぬ連続攻撃は極めて派手だが、その動きにはトリストスとの打ち合いで身に付けた立ち回りが完全に抜け落ちていた。
とはいえ尋常ではない速度から繰り出される速さ任せの連続攻撃は、立ち回りを踏まえていないといえども容易に防げる代物ではない。
それをバストラングはあっさりと見切り、手にした戦斧で防いでいた。
先日の戦いではフィナリアの攻撃を身軽に躱していたバストラングは、その時とは異なり大木のようにどっしりと構えてその戦斧で守りを固めていた。
フィナリアの攻撃ではその守りを突破することは不可能だ。
端から見ればフィナリアのスピードにバストラングが圧倒されているように見えるかもしれないが、その実勝っているのはスピードのみで、バストラングが慣れるか、フィナリアがスピードを維持できなくなった場合即座に敗北するだろう。
しかしそれで問題はない。
フィナリアは囮であり、派手な動きで周りの目を引き付けることが出来ればそれで問題はない。
フィナリアもその意図を隠すために自分から攻撃を仕掛け、バストラングが一方的に攻められているように見えるような立ち回りをしている。
多少手を抜いていることは戦っている相手のバストラングには筒抜けだろうが、はたから見る分にはトリストスやロウセイといった真の実力者でないと全く分からないだろう。
そして、手抜きに気が付いていながら、バストラングは反撃してこない。
おそらく半信半疑ではあるがフィナリアに協力するつもりなのだろう。
そのことだけでも彼が自分たちに対して敵対する意思がないことは見て取れた。
(……!)
その最中、フィナリアの視界の端にあるものが映った。
バストラングに一撃を打ち込んだ直後、大きく後退してそれを確認した。
「上手くいったようですね。クウヤさん」
「………」
フィナリアのつぶやきを聞き、バストラングもその視線の先を向き、その目を大きく見開いた。
「作戦は成功です」
その先には、クウヤ、カルシオ、アイルを乗せ、右脚で気絶したマトワールを掴んだファーレンベルクが飛んでいた。
「ようフィナリア。上手くいったぞ」
「…クウヤさん。あの、マトワール卿はどうして全身大火傷なのでしょうか?」
平原のど真ん中にいたフィナリアの元に降り立つと、彼女はファーレンベルクが捕まえていたマトワールを見ながらそんなことを口にした。
「ああ、ちょっとこいつが頑固すぎてな。その、やりすぎた」
何の気なしにそう言った俺に、フィナリアは少し驚いたような表情を浮かべたが、すぐに俺の手前に座っている獣人族の少女を見た。
「あなたがアイルさんですね?」
「は、はい。すみません目が開けられないので…」
フィナリアはそんなことをいうアイルに歩み寄り、その表情を見つめた。
「その瞼。よほど泣きはらしたのでしょう。つらく苦しい時間を送らせてしまいましたね」
「…いいえ、いいえ」
フィナリアの言葉にアイルが再び泣き出した。
泣き虫だが、まあ仕方のないことか。
「カルシオ。アイルを連れてバストラングの元へ行ってくれ」
「わ、分かった」
俺の指示に従ってカルシオがアイルを抱えてバストラングの元へと歩み寄る。
「よう、久しぶりだなバストラング」
「……」
歩み寄ってきたカルシオに、バストラングは戸惑ったような表情を浮かべ、抱えられた妹とカルシオを交互に眺めていた。
「悪い、言いたいこともあるかもしれないが、今はとりあえず状況が片付くまで面倒見てくれないか?」
カルシオの言葉に、バストラングは戸惑いながらも頷いた。
それもそうか。バストラングから見ればいきなり幼馴染と囚われの身の妹が見ず知らずの怪鳥に乗ってやってきたんだから戸惑う位は当然だ。
「で、フィナリア。次はどうする?」
「まずは交渉をしてみましょう。後は状況に応じて」
「了解」
言われるままに気絶したマトワールをファーレンベルクがその鉤爪で抱えたまま飛び上がる。
なぜ気絶しているのかと言えば、全身大火傷をしたままファーレンベルクに掴まれたままのアクロバティック飛行に付き合わされたからである。
全身を走る激痛に耐えきれずに意識を失っても不思議はない。
フィナリアの話だと、契約者が魔法の行使が不可能なほどの深手を負った場合、仮契約者たちの支配権も機能しなくなるらしいのでこれで問題は解決しているらしい。
「マトワール軍の皆様。見ての通りあなたたちの領主であるマトワール卿は私たちが捕らえました」
フィナリアの凛とした声が当たりに響き渡る。
以前俺と一緒に開発した『風響』を使っているようだ。
「これ以上と戦う理由はありません。速やかに降伏していただけるのであれば私たちは兵を引き上げます。マトワール正規兵の皆様には賢明な判断をお願いいたします」
フィナリアの言葉に、マトワール軍は大いに困惑していた。
「すぐに決断ができないというのであれば、一時間後に答えを効かせていただきます。もしその際にも答えが得られないようであれば、その時はお覚悟を」
フィナリアはそういうと踵を返して自軍の元へと向かって踵を返した。
ファーレンベルクもそれに習ってフィナリアの近くに着地した。
成り行きからか、カルシオとアイル、バストラングも同行している。
「これでいいのか?」
「ええ。それにどうやらクルド殿は我慢できないようですし」
「ん? ほんとだ」
フィナリアに言われて、俺は後方を振り返る。
その先には今にも進軍しようとしているマトワール軍が目に入った。
「やる気満々だな」
「ええ。内心どう思っているのかは存じ上げませんが、クルド殿は父の奪還と謀反を起こした私たちに躊罰を下すつもりのようですね」
『風響』の能力からか、フィナリアはクルドの発言を聞いているようだ。
しかしこの状況でファーレンベルクが掴んでいるマトワールをどう奪還するつもりなのやら。
頭に血が上って判断力が著しく低下しているのか、でなければどさくさに紛れて父親を殺して手柄と権力を独り占めするつもりとかか?
「となると当然」
「戦うしかありませんね。ですが…」
そんな状況に、フィナリアはほんの少しだけ戸惑ったような表情を浮かべた。
「どうかしたか?」
「いえ、敵陣の中から妙な声が聞こえるので」
「どんな?」
「『ふざけるな。バストラングまで寝返ってしまった。勝てるわけない。逃げよう』といったような内容ですね」
「……あーー」
そう言えば流れからバストラングがこっちの味方になったんだよな。
元々義勇軍だけでも圧倒出来たマトワール軍だ。
バストラング一人でもっていたと言えるのに、その要が寝返ったとなるとそれはそうなる。
「フィナリア。逃げる奴は」
「ええ。去るものを負う必要はありません」
何となく逃げたそうにしている兵士たちに同情してしまったのでそんな提案をしたが、フィナリアが快く応じてくれたので妙にありがたかった。
「さて、それなら戦闘開始だな」
「クウヤさんも随分と戦慣れしてきましたね」
フィナリアがそういうと、マトワール軍と義勇軍の双方が進軍を開始した。
「よし。やれファーレンベルク。浅く広くでいいぞ」
「クルルゥ」
気合の入ったピュアアアという鳴き声ではなく、かわいらしいクルルとないたということは、この戦いはファーレンベルクから見ても大したことないということか。
あ、端っこの方の部隊が結構ごっそり離脱してる。
そんなことを思っていた俺の前で、ファーレンベルクはその口から火炎放射を放った。
マトワール軍の前衛はその火炎に見ごと焼き払われた。
吸血皇王すら焼き尽くしたことのあるファーレンベルクの火炎は、まともに食らえば人など跡形もなく炭化する。
しかし今回はほとんどの奴らが大火傷で済んでいるので相当手加減しているようだ。
というかファーレンベルクって加減が上手いよな。
「さて、次はどうするか…」
と思っていると、早速フィナリア率いる義勇軍が前衛が総崩れのマトワール軍になだれ込む。
フィナリアとバストラングが正面から突っ込んでいるため、ほとんど何の抵抗もなく敵軍が瓦解している。
「なんかもう出番ないな」
ファーレンベルクに乗ったまま、俺はそんなことをつぶやいた。
結局マトワール正規軍は見事に全滅。
クルドは最後まで徹底抗戦しようとして戦死したらしい。
とどめを刺した兵士の話だと、目が血走っておりまともな判断が下せる精神状態ではなかったらしい。
マトワール同様、あまりにも思い通りにいかなかった状況でイカレタらしい。
現在俺たちカーナイル軍はそのままマトワール領の主都にて骨休めをしている。
どの道マトワールはこのまま領主を続けさせるわけにはいかない。
身分を剥奪するなりして処断しなければならないのだ。
である以上マトワール領はカーナイル領と改名されることとなる。
そのためとりあえず俺たちが駐屯しているということだ。
「兄さん」
「………」
そして戦が終わり、安全が確保できたところでバストラングとアイルの二人がようやく話をする時間を作ることができた。
「兄さん。ごめんなさい。本当にご迷惑をおかけしました」
「………」
その大きな手で、体で、バストラングは妹を抱きしめた。
そしてしきりに首を横へと振っていた。
お前のせいではない。気にするな。
無言でそう告げるその姿は、ただ妹を慈しむ心だけが映し出されていた。
そんな中、バストラングはアイルの頭を軽く撫でて立ち上がりこちらへ歩み寄ってきた。
そして、俺とフィナリアに向かって大きくその頭を下げてきた。
「えーっと」
それに俺はどう応じればいいのか分からずに困惑した。
言葉が通じないというのは相当厄介なものだ。
だからこそバストラングは考えていることや思っていることをストレートに行動に示すのだろうと俺は当たりをつける。
「バストラング様。頭を上げてください」
頭を下げるバストラングに向かって、フィナリアがそう言った。
それに応じるように顔を上げる。
「私こそあなたにお礼を言いたい。妹を人質取られ、隷属魔法によっていつ殺されてもおかしくない状況下で、私たちを気遣い、誰一人犠牲者を出さないように戦う。その心遣いのおかげで、私たちも命を拾いました」
フィナリアの言葉に俺も頷く。
既知の間柄ならまだしも、獣人の味方をしているというだけで自分と妹の身を危険にさらすリスクを冒して俺たちを傷付けぬように戦うなど普通の奴なら考えないだろう。
カルシオの言うとおり、バストラングは体躯だけではなく器も大きい文字通りの巨人なのだろう。
「フィナリア様」
フィナリアに向け、カルシオに支えられたアイルが歩み寄ってきた。
「言葉を紡げぬ兄に代わってお礼を申し上げます。この度の御恩は決して忘れません。本当に、私たちを救い出してくださりありがとうございます」
バストラングと似ているように見えなくもないが、俺よりも頭一つほどに小柄なので兄妹というより親子に見える。
「アイル。ちょっといいかな」
ロウセイ師匠の元で白魔法の訓練を繰り返した習慣から、俺はその手に魔力を集約させたままアイルの瞼に手を当てた。
「え、あの?」
戸惑うアイルに向かって、俺は白魔法を紡いだ。
あの日、ファーレンベルクを癒すために魔力欠乏するまで魔法を行使してからというもの、俺の魔力量と技量はさらに向上しており、アイルの瞼を癒す程度であれば何の問題もないと確信していた。
見る見るうちに赤く腫れあがった瞼が、見る見るうちに治っていった。
「え? あ…」
瞼の腫れが引いたアイルがその眼を開ける。
その瞳が、驚きと戸惑いに満ちる。
「ああ、目が、目が見えます」
そう言うと、アイルは兄の方を向いた。
その目に、巨大な兄の姿が映し出された。
「兄さん」
カルシオに支えられていたアイルは、その支えから離れて歩き出した。
長い年月牢獄に閉じ込められてきた彼女の手足は細く、その歩みはとても弱弱しかったが、伸ばされたその手は何よりも確かな意思が宿っていた。
バストラングは動かず、ただその場で佇んでいた。
アイルは幾度も転びそうになりながらも、バストラングの元にたどり着き、再びその腰に手を回した。
「いつ以来でしょうか、兄さんとこうして触れ合えるのは」
「……」
アイルのその質問に、バストラングは片手を頭の上に、もう片方の手でアイルの背を撫でていた。
「なあクウヤ、一つ聞いていいか?」
突如、その様子を見ていたヌーアが俺にこえをかけてきた。
「ん? なんだ?」
「クウヤの白魔法でも、バストラングの声は戻らないのか?」
そんなヌーアの質問に、その場にいた全員の視線が俺に集まった。
兄にしがみついていたアイルも、俺の隣にいたフィナリアも、そして当の本人であるバストラングもである。
「……やってみるか」
俺には先天的な病というものを治療した経験はない。
それにこれまでも目に見える怪我や、治療を依頼された病気についてのみに魔法を使ってきたので、先天的な病と折り合いをつけていたバストラングについて治療を試みるという発想がわかなかったのだ。
しかしやってやれないことではない気がする。
何しろバストラングたち獣人族は奴隷身分なので、ろくな治療を受けた経験などないはずなのだから。
「少ししゃがんでもらえますか?」
俺の指示に、バストラングは片膝をついた。
まるで俺に傅くかのような行動だが、片膝ついてもまだバストラングの方が高いのでまるで子供の目線に合わせようとしている大人のように見える。
そんな巨漢の咽に手を当て、俺は意識を集中させる。
ファーレンベルクを治療したときのように神経を研ぎ澄ませ、バストラングの体を分析する。
(これなら、行ける!)
目を見開き、俺は右手に魔力を集約させる。
右手から純白の光が迸り、その光が見る見るうちにバストラングの首へと吸い込まれていく。
あの時、ファーレンベルクを癒したときと同様の魔力を放出した俺の手に確かな手ごたえを感じ取った。
幸い、今回はめまいがする前に治療が完了する。
「…どうですか?」
俺が手を離すと、バストラングは喉をさすった。
「あ、あ?」
その口から、非常に低く野太い声が響いた。
「兄さん。声が!?」
「あ、い、る?」
バストラングの口から飛び出した言葉に、アイルは口元を抑えた。
その瞳から、再び大粒の涙が零れ落ちる。
「おいおい。バストラング。喋れるようになったのかよ!?」
その光景に、カルシオが驚愕の声をあげる。
周囲の全員も驚愕の表情を浮かべている。
しかし考えてみれば当然と言えば当然なのだ。
奴隷民族である獣人族が白魔法などと言う治療を受けることなどできるものではない。
ロウセイという例外があったのはあくまでカーナイル領での話なのだ。
「初めて……兄さんに、初めて名前を呼んでもらえました」
アイルは信じられないとばかりにその口を押えながら泣き続けていた。
しかしその表情には一切の負の感情は見て取れず、その涙にむしろ抑えきれぬ禍福の念が込められており、まるで宝石のように輝いて見えた。
まだ言葉を話すのが厳しいのか、バストラングは喉を抑えて苦しそうにしていた。
これまで言葉を発したことが無いのだから無理もない。
しかしバストラングはそう思った俺の方を向いて、再びその口を開いた。
「くう、や。せわ、に、なった」
苦しそうに、しかしはっきりと、巨漢の獣人は俺にそう言った。
「今は無理に話そうとしない方がいいです」
俺がそういうと、巨漢の獣人はフッとほほ笑み立ち上がり、今度はフィナリアの方へと歩み寄った。
そんなバストラングの服の袖をつかみながら、アイルも共にフィナリアと向き合った。
そんな二人にフィナリアはにこりと微笑んだ。
「お二人とも。まずは生まれ故郷へと戻り、お二人の無事を知らせてこられてはいかがですか?」
「え?」
フィナリアの言葉に、アイルは目を点にしていた。
「あの、いいのですか?」
「ええ。お二人の無事を知りたがっている方は大勢いると思いますので」
フィナリアの言葉に俺も驚いた。
バストラングは戦力としても非常に頼もしいので、てっきりフィナリアはそのままバストラングを義勇軍に迎え入れるものだと思っていた。
「ですが、兄の強さは…」
アイルも同じことを思っていたのか、フィナリアに対してその疑問を口にした。
それに足してフィナリアは首を縦に振った。
「確かにバストラング殿の腕は是が非でも味方に引き入れたいほどです」
「でしたら」
しかし、フィナリアは直後首を横に振った。
「ですが、私達が率いているのは義勇兵です。戦いを望まない方に戦いを強要することはできません。それではあなたたちを奴隷として扱ったマトワール卿と同じですから」
フィナリアの言葉に、その場にいた誰もが目を丸くした。
「まずは故郷に戻って、ゆっくりと考えてみてください。これまで長い間マトワール卿に隷属させられてきたあなたたちが、初めて自由を得たとして、それでもなお戦いを選べるかどうかを」
文字通り一騎当千の戦力であるバストラングは、その力ゆえに奴隷として酷使されてきた。
だからこそフィナリアは彼に自由な時間が必要なのだと考え、自分の利害を度外視して決断を下したのだ。
そう宣言したフィナリアの横顔は、これまで見てきたどんな時よりも輝いて見えた。
(フィナリア。君みたいなパートナーに恵まれた俺は幸せ者なんだろうな)
まだ俺の達はリスタコメントスの7割とトルデリシア帝国、加えておそらくは西のノーストン。さらには魔族まで敵に回さなければならないかもしれない。
そんな状況。俺であれば迷わずバストラングを味方に向かえただろうが、フィナリアは迷わずバストラングを平穏な市民へ戻すことを選んだのだ。
そんなフィナリアの言葉に、アイルとバストラングは再び大きく頭を下げた。




