第二話:双璧の暗闘と、陽だまりの銀髪(中編)
ドロドロとした権力闘争と、ピューレルの狂気に満ちた軍議を終え、ティーゲルがトラ族の本邸へと帰還した頃には、すでに王都の空(天井の魔力水晶)は夕暮れの色に染まり始めていた。
「……ふぅ」
自室に戻ったティーゲルは、従付きの侍女キャレットたちに手伝わせ、一日中身を包んでいた漆黒の重甲冑を脱ぎ捨てた。
分厚い鋼鉄の拘束から解放され、鍛え上げられたしなやかな肉体が深呼吸をする。背後で束ねていた艶やかな黒髪をほどき、張っていた緊張の糸を少しだけ緩めると、百六十歳の若き参謀の顔に、年相応の深い疲労の色が滲み出た。
(ピューレルの奴め……。母上が亡くなられてからというもの、あの白衣の狐の横暴は日に日に増している。私が隙を見せれば、奴はいつでもこの国の実権を掌握し、フェリディアを血も涙もない実験場へと変えてしまうだろう)
己の両拳を強く握りしめ、ティーゲルは私室の窓から中庭を見下ろした。
そこには、王宮の冷酷な謀略とは全く無縁の、温かく穏やかな景色が広がっていた。
「あははっ! お花、きれいだね!」
「ふふっ、本当に綺麗に咲きましたね。ほら、この赤いお花はお姉様がお好きなんですよ」
人工太陽の柔らかな光が差し込む中庭の芝生で、ティーゲルの妹・ハクレイと、彼女の幼い娘(ティーゲルの姪)であるリトラが花壇の手入れをしていた。
母アルティグラやティーゲルが力強い黒髪であるのに対し、ハクレイとリトラの二人は、透き通るような美しい『銀髪』を陽の光にキラキラと輝かせている。
戦闘訓練を一切受けていないハクレイの身体は細くしなやかで、猛獣であるトラ族の直系でありながら、その瞳には獰猛な闘争心のかけらもない。幼いリトラもまた、母の気質をそのまま受け継ぎ、剣の代わりに小さなジョウロを持って無邪気に笑っていた。
その姿を見た瞬間、ティーゲルの心に立ち込めていた暗雲が、スーッと晴れていくのを感じた。
(……そうだ。私が盾として立たねば、あの陽だまりのような笑顔も、ピューレルの狂気に飲み込まれてしまうのだ)
ティーゲルは平服のゆったりとしたチュニックに着替えると、背後の七本の尻尾を揺らしながら、中庭へと足を向けた。
「ハクレイ。それに、リトラも。精が出るな」
「あ、ティーゲルおばちゃま!」
ティーゲルが声をかけると、銀髪の幼いリトラがパァッと顔を輝かせ、短い足でトテトテと駆け寄ってきた。
「おかえりなさいませ、お姉様。今日もお城のお務め、お疲れ様でした」
ハクレイも立ち上がり、ふわりと微笑んで優しく労いの言葉をかける。
「ああ、ただいま戻った。……おや?」
ティーゲルが屈み込むと、姪っ子が小さな両手で何かを差し出してきた。
それは、中庭に咲いていた赤や黄色の花を不器用に編み込んだ、少し歪な形をした手作りの『花冠』だった。
「おばちゃま、いつもお仕事がんばってるから、これプレゼント! 私が作ったの!」
「おお……! これを私に? 素晴らしい、とても上手に編めているではないか!」
ティーゲルは目を丸くして喜び、二メートルを超える巨体をさらに屈めて、姪っ子に花冠を頭へ乗せてもらった。
黒髪の勇ましい女将軍の頭に、可憐な花冠。はたから見ればいささか滑稽な姿かもしれないが、ティーゲルはそれがこの世のどんな宝冠よりも誇らしく、愛おしかった。
「似合う、似合うー! ティーゲルおばちゃま、お花のお姫様みたい!」
リトラがキャッキャと手を叩いて喜ぶ。
「ハハハ! お姫様か、それは照れるな。ありがとう、大切にするぞ」
ティーゲルは豪快に笑い、リトラの小さな銀髪の頭を大きな手で優しく撫でた。
その手は、かつて亡き母アルティグラが自分たち姉妹にしてくれたように、不器用だが底知れぬ愛情に満ちていた。
「お姉様ったら、すっかりお顔が緩んでしまって。お城では、あんなに厳しいお顔をされているのに」
ハクレイがクスクスと笑いながら、ティーゲルの隣に並んだ。
「仕方あるまい。こんな可愛い贈り物をもらって、鬼の顔をしていられるトラがどこにいる。……お前とこの子の笑顔を見ていると、母上と一緒にこの中庭で過ごした日々を思い出すよ」
ティーゲルの言葉に、ハクレイも少しだけ寂しそうに、けれど温かい笑みを浮かべた。
「ええ……。お母様も、このお庭のお花が大好きでしたから。私、お姉様が戦場へ行かれている間、ずっとこのお庭を守り続けますね」
「ああ、頼む。お前たち二人は、一生この美しい庭園で花を愛で、笑顔のままで暮らしていればよい。王国の敵を討ち、政治の泥水をすするのは、すべて参謀たるこの私が一手に引き受けるのだから」
ティーゲルは力強く頷き、妹の華奢な肩を抱き寄せた。
自分には武の力がある。だからこそ、戦う力を持たないこの美しく儚い銀髪の母娘を、何があっても守り抜く。それが母アルティグラとの約束であり、ティーゲルの生きる意味そのものであった。
しかし、その穏やかな陽だまりの時間を切り裂くように、屋敷の侍女キャレット長が慌ただしい足音を立てて中庭へ駆け込んできた。
「て、ティーゲル様! 大変でございますにゃ! トラ族の長老衆の方々が、突然屋敷にお見えににゃられましたにゃん!」
「長老衆が……? こんな夕暮れ時に、何の用だ」
ティーゲルは眉をひそめ、頭の花冠をそっと外してハクレイに手渡した。
「ハクレイ、あの子を連れて奥へ下がっていなさい。私が応対する」
「はい、お姉様。……どうか、ご無理をなさらないでくださいね」
ハクレイが不安そうに娘を抱き上げて立ち去るのを見届けた後、ティーゲルは再び「参謀」としての厳しい顔つきに戻り、屋敷の応接間へと向かった。
応接間には、黒髪に白いものが混じり、顔に深い皺を刻んだ三人の老婆が、重々しい空気を纏ってソファに腰を下ろしていた。
彼女たちは、フェリディア王国におけるトラ族の血脈と掟を管理する、絶対的な権力を持つ『長老衆』である。彼女たちの背後にも、年老いてはいるものの威圧感のある七本の尻尾が横たわっていた。
「夜分遅くにすまないね、ティーゲル参謀」
中央に座る筆頭長老が、ティーゲルが部屋に入ってくるなり、鋭い眼光で射抜いた。
「ご無沙汰しております、長老衆の皆様。本日はどのようなご用件でしょうか」
ティーゲルが礼を尽くして尋ねると、長老たちは互いに顔を見合わせ、重いため息をついた。
「単刀直入に言おう。ティーゲルよ、お前はいつになったら『強いトラ族の跡継ぎ』を産むつもりだ?」
「……跡継ぎ、ですか」
ティーゲルの黄金の瞳が微かに揺れた。
「そうだ。偉大なるアルティグラ様が急逝されてから、我がトラ族の王宮における求心力は、あの忌々しいピューマ族――ピューレルに押されつつある。お前が軍をよくまとめているのは知っているが、いかんせんお前には『次世代の血脈』がない。このままでは、トラ族の未来は先細りだと、下級貴族たちの間でも不安が広がっているのだ」
「お言葉ですが、長老。私はまだ百六十歳。参謀としての責務を果たすだけで精一杯の身です。今はまだ、子を成す時期ではないと……」
「甘いことを言うな!」
別の長老が、杖で床を激しく突いて一喝した。
「アルティグラ様が亡くなられた今、トラ族の『武』の象徴はお前ただ一人なのだ! お前が強靭な七本尻尾の娘を産み、その腕に抱いて見せることこそが、ピューマ族への最大の牽制となり、トラ族の権威を盤石にするのだ! それを分かっておらんのか!」
ティーゲルは奥歯を噛み締めた。
長老たちの言うことは、政治的には完全に正しい。ピューレルが科学力と非道な兵器で軍を牛耳ろうとしている今、トラ族が「次世代の強力な武人」の誕生を示すことは、軍部における絶対的なアドバンテージとなる。
だが、母を失い、参謀としての重責に押し潰されそうになりながら必死に立っている今の彼女に、すぐに「母になれ」というのは、あまりにも重い要求であった。
「……長老衆の皆様のご懸念は、理解しております。ですが、命を授かるというのは、そう容易いことでは……」
「お前がその気にならぬというのなら、仕方がない」
筆頭長老が、冷酷な声でティーゲルの言葉を遮った。
「我がトラ族の血脈を絶やすわけにはいかん。お前が子を成さぬのであれば、古き掟に従い、次期当主の座は『妹君の娘』――つまり、ハクレイの娘のリトラに継がせることとする」
「なっ……!?」
ティーゲルは弾かれたように顔を上げた。
「お待ちください! 妹のハクレイも、あの幼いリトラも、トラ族でありながら武の才を全く持たない、戦いを怖がる気質の持ち主です! あの子を次期当主になど……!」
「だからこそ、だ」
長老の目は、冷徹な爬虫類のように細められた。
「あのように軟弱な銀髪の小娘がトラ族の長となるなど、本来であれば一族の恥。だが、血脈を繋ぐためには背に腹は代えられん。……次期当主に指名したからには、あのようなお花畑で遊ばせておくわけにはいかん。明日からでも、リトラを地下修練場へ引きずり下ろし、血を吐くような戦闘訓練を施す。泣こうが喚こうが、骨が砕けようが、トラ族の戦士として仕立て上げ、最前線の戦場へ立たせねばならんのだ」
「ッ……!! ふ、ふざけるなッ!!!」
ティーゲルは我を忘れ、激昂して叫んだ。
背後の七本の尻尾が逆立ち、室内の装飾品が魔道力の余波でガタガタと震え出す。
「あの小さな子に、血みどろの剣を握らせ、敵の肉を斬らせるというのか!? あの子は花を愛し、蝶と遊ぶことしか知らないのだぞ! そんな残酷な真似、私が絶対に許さん!!」
「許す許さないの問題ではない、掟だ。我らトラ族は、王国の盾として血を流す義務を負っている。お前がその義務を『次世代』へと繋がないから、あの幼子にその代償を払わせるのだ。……あの娘が過酷な訓練で精神を壊し、戦場で命を落としても、それはすべてお前の責任だと思え、ティーゲル」
長老の非情な宣告が、ティーゲルの胸に冷たい刃のように突き刺さった。
(あの陽だまりのような笑顔を、奪うというのか。母上が愛し、私が一生守り抜くと誓った、あの銀髪の母娘を……権力闘争と血の海に引きずり込むというのか!)
脳裏に、先ほど自分に花冠を作ってくれた姪っ子リトラの無邪気な笑顔がフラッシュバックする。
剣の重さに耐えきれず泣き叫ぶリトラの姿。血に染まり、戦場で無残に散っていく銀髪の少女の姿。
――それだけは、絶対に阻止しなければならない。
ティーゲルは全身の怒りをギリギリと腹の底にねじ伏せ、床に片膝をついて、長老たちに深く頭を下げた。
「……お待ち、ください」
絞り出すような、だが岩のように揺るぎない声だった。
「次期当主の件は、どうか白紙に戻していただきたい。……私が、私が必ず、誰よりも強靭で、誇り高き『最強のトラ族の跡継ぎ』を産んでみせます。だから、ハクレイとリトラには……指一本、触れさせないでいただきたい!」
ティーゲルの決死の覚悟を聞き、長老たちは満足げに顔を見合わせた。
「……よかろう。お前がそこまで言うのなら、しばらく猶予を与えよう。だが、結果を急ぐのだぞ、ティーゲル。ピューマ族に寝首を掻かれる前にな」
長老たちはそう言い残し、屋敷を去っていった。
応接間に一人残されたティーゲルは、膝をついたまま、震える拳を床に強く押し当てた。
「……産んでみせる。私が必ず、母上のような強い母親になり、トラ族の未来を背負って立つ娘を、この胎に宿してみせる……!」
決意を固めるティーゲルの瞳には、もはや迷いはなかった。
己の命を削ってでも、愛する妹と姪を守り抜く。そして、王国と女王陛下を守る「盾」を次世代へ繋ぐ。
だが、この時、純粋な愛と使命感に燃えるティーゲルは知る由もなかった。
自分が「母になる」という焦りと決意こそが、白衣の悪魔・ピューレル博士が周到に張り巡らせた、最も残酷な地獄の罠へ飛び込むための『第一歩』であったということを。
暗闇に沈む応接間で、若き参謀の孤独な戦いが、静かに幕を開けようとしていた。




