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ティーゲル外伝~奪われた母性と黒い野望~  作者: 4代目ている


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第一話:偉大なる母の背と、受け継がれし黒鉄の誇り(中編)

 あの日、黒鉄修練場で母アルティグラの温かい七本の尻尾に包まれながら、少女ティーゲルが未来を夢見てから――五十年という歳月が流れた。


 寿命がわずか十八年から二十年程度しかない一本尻尾のイエネコ族にとっては、実に三世代近くが入れ替わるほどの永き時間である。しかし、ネコ科の獣人の中でも高位の貴族たる彼女たちの成長速度は地上の人間と比べて極めて緩やかであり、五十年の歳月は、あどけない少女が心身ともに成熟し、一人の完成された「女戦士」へと変貌を遂げるための必然の助走期間に過ぎなかった。


 実年齢にして百六十歳――人間齢に換算すれば二十代前半の若々しい女盛りを迎えたティーゲルは、かつて練習剣の重さに振り回されていた華奢な少女の面影を残さぬほど、身長二メートルを優に超える筋肉の塊のような見事な巨躯へと成長していた。母アルティグラからそのまま受け継いだ艶やかな黒髪を背中で束ね、漆黒の重厚な甲冑を纏って立つその姿は、若き日の母を彷彿とさせる圧倒的な「武」の威圧感を放っている。


 その日、フェリディア王国の首都の中心にそびえ立つ白亜の王宮『グランド・レオンハート』は、五十年に一度あるかないかの厳粛かつ華やかな祝賀ムードに包まれていた。


 王宮の最深部に位置する『聖獅子の謁見室』。


 天井まで届く巨大な純白の大理石の柱が立ち並び、床には一点の曇りもない鏡面仕上げの白石が敷き詰められたその聖域に、王国の要人たちが一堂に会していた。本日は、長きにわたり王国の武の頂点として君臨してきた先代参謀アルティグラが現役を退き、その長女であるティーゲルへと『王国軍参謀』の座――すなわち女王に次ぐ実質的なナンバー2の地位を正式に引き継ぐ、歴史的な叙任式の日だったのである。


 謁見室の最奥、数段高くなった黄金の玉座に優雅に腰を下ろしているのは、この地底世界の絶対君主、先代女王ライアライアであった。


 彼女の背後には、絶対王権と神聖なる血統の象徴である『十本の獅子の尻尾』が、まるで黄金の後光のように美しく扇状に広がっている。人間との無益な争いを避け、平和を愛する彼女の瞳は、すべてを包み込む太陽のように温かく、慈愛に満ちていた。その玉座のすぐ脇には、まだ幼くあどけない姿をした王女・ライオニアが、母親と同じ十本の小さな尻尾をパタパタと揺らしながら、好奇心に目を輝かせてちょこんと座っている。


「――これより、フェリディア王国軍最高幹部、参謀職の継承の儀を執り行います」


 玉座の前で深々と平伏するティーゲルと、その隣で静かに片膝をつく母アルティグラ。


 娘と同じ豊かな黒髪にわずかな白いものが混じり始めたアルティグラは、自身が何百年もの間、王国の盾として振るい続けてきた身の丈を超える超重量の剛剣『コテツブレード』を両手で恭しく掲げると、隣に跪く娘・ティーゲルへと向き直った。


「ティーゲルよ。あの修練場で私の剣圧に吹き飛ばされていた幼き日から五十年……お前は私の厳しい鍛錬にただの一度も弱音を吐かず、見事にトラ族の武の極致へと辿り着いた」


 アルティグラの声は、老いを感じさせない重厚な響きをもって謁見室全体に木霊した。だが、よく見れば彼女の黄金の瞳の奥には、ここ数年で急速に深まった疲労の色と、原因不明の微熱によるわずかな翳りが浮かんでいた。


「この『コテツブレード』には、建国以来、我らトラ族が聖獅子の玉座を守り抜くために流してきた誇り高き血と魂が宿っている。今日よりこの剣は、お前のものだ。……受け取るがいい、我が自慢の娘よ」


「はっ……! 母上、謹んでお受けいたします!!」


 ティーゲルは震えるほど熱い感動を胸に押し込め、両手を差し出して母から『コテツブレード』を受け取った。ズシリ、と両腕から肩の骨へと食い込む、極限まで圧縮されたフェリディウム合金の重量。だが今のティーゲルにとって、その重さは母から託された「誇り」と「愛」の重さそのものであった。


 玉座からゆっくりと立ち上がった女王ライアライアが、穏やかな微笑みを浮かべて一歩前に進み出る。


「アルティグラ。長きにわたり、私の右腕としてこの国の平和を支えてくれたこと、心から感謝します。貴女という揺るぎない盾があったからこそ、私は安んじて政務に励むことができました。どうかこれからは、その身体をゆっくりと労ってくださいね」


「ありがたきお言葉にございます、ライアライア陛下。このアルティグラ、たとえ一線を退こうとも、我が魂は常に陛下と共にあります」


 感極まったように深く頭を垂れる母の姿を、ティーゲルは誇らしい思いで見つめた。そしてライアライアの慈愛に満ちた黄金の瞳が、新たに大剣を背負った黒髪の若き女将軍――ティーゲルへと向けられる。


「そして、新参謀ティーゲル。貴女が母アルティグラの背中を追い、どれほど真摯に己を鍛え上げてきたか、私はずっと見ていましたよ。これから先、貴女には我が王国の『武』の頂点として、私と共にこの国の未来を背負ってもらいます。頼りにしていますよ、ティーゲル」


「はっ!! 女王陛下の御心のままに! このティーゲルの七本の尻尾と命のすべては、ライアライア陛下、そしてフェリディア王国の平和のために捧げることを、ここに固く誓います!!」


 ティーゲルは床に額がつくほど深く平伏し、背後で揺れる黒と黄色のトラ柄の七本の尻尾を引き締めて、絶対の忠誠を宣誓した。


 わあぁぁっ、と謁見室を埋める中級・下級貴族たちから惜しみない拍手が巻き起こる。


 列席者の中には、トラ族の一門として招かれたティーゲルの妹――ハクレイの姿もあった。


 姉のティーゲルと同じく五十年という歳月を経て美しい大人の女性へと成長したハクレイだったが、その佇まいは姉や母とはまるで対照的であった。母アルティグラや姉ティーゲルが力強い黒髪であるのに対し、ハクレイは透き通るような美しい『銀髪』を持って生まれたのである。


 さらに、二メートルを超える筋肉質な姉とは違い、戦闘訓練を一切受けていないハクレイの身体は細くしなやかで、猛獣であるトラ族とは思えないほど儚げで柔和な雰囲気を纏っていた。彼女の腕の中には、数年前に授かったばかりの幼い娘――ティーゲルにとっての「姪」にあたる、母親譲りの銀髪を持った小さな女の子が抱かれており、ハクレイは涙ぐみながら「お姉様、おめでとうございます……!」と胸の前で小さく手を叩いていた。


(母上、ハクレイ……。私はついに、ここまで来ました。これからは私が参謀として女王陛下をお守りし、母上には穏やかな余生を、そして戦う力を持たないハクレイとあの子には、誰にも脅かされない陽だまりのような暮らしを約束してみせます……!)


 ティーゲルが胸を熱くしていた、その時であった。


「――ええ、本当に素晴らしい継承の儀ですね。世代交代というのは、いつ見ても実に感慨深いものです」


 拍手の波に混じって、氷のように冷たく、しかし表面上は完璧な礼節を装った艶やかな声が響いた。


 謁見室の最前列、トラ族と対をなすもう一つの最高幹部席で、純白の白衣を纏った七本尻尾のピューマ族・ピューレル博士が、細く長い指でパチパチと優雅に拍手を送っていたのである。


 この時、ピューレルの実年齢は二百五十歳程度。人間齢に換算すれば三十代半ばという、女性としても科学者としても最も脂が乗り、爛熟した色香と冷徹な知性が同居する年齢であった。二十代前半の若々しいティーゲルに対し、年長者としての余裕を湛えた白磁の肌は一点の曇りもなく滑らかで、インテリジェンスな眼鏡の奥の瞳だけが、底知れぬ爬虫類のような冷光を放っている。


(……フフフ。せいぜい今のうちに感激に浸っていなさい、筋肉親子のトラ女ども)


 ピューレルは白衣のポケットから出した手の中指で眼鏡のブリッジをクイッと押し上げ、口元だけで微笑んだ。彼女の視線は、新参謀となった黒髪のティーゲルではなく、その隣で立ち上がろうとした際に、ほんの一瞬だけ「ぐらり」と足元をふらつかせた母・アルティグラの横顔に釘付けになっていた。


(五十年ですよ、アルティグラ。私が五十年もの歳月をかけ、何千匹ものキャレットの命をすり潰して完成させた『遅効性・遺伝子崩壊ナノウイルス』……。それを、貴女が半年に一度受ける最高幹部用の定期健康診断のたびに、ほんの少しずつ、絶対に気づかれない極微量ずつ血管へ送り込み続けてきたのです。……そろそろ、貴女の強靭すぎる五臓六腑も、内側から限界を迎えている頃でしょう?)


 ピューレルの計算は完璧であった。もしアルティグラが現役バリバリの参謀であるうちに急死すれば、軍部や王宮内で「暗殺ではないか」と大規模な調査が行われるリスクがあった。だからこそ、ピューレルは百六十歳のティーゲルが一人前に成長するまで五十年待ったのだ。アルティグラが「後進への譲位」として自ら参謀の座を娘に譲り、周囲も本人も完全に気を緩めたこのタイミングこそが、「長年の激務の疲れが引退と同時に噴き出した病死」として処理するのに最も都合が良かったのである。


「さあ、今夜は新参謀ティーゲルの誕生と、アルティグラの勇退を祝う晩餐会です。二人とも、今宵は大いに楽しみなさい」


 女王ライアライアの言葉とともに叙任式は滞りなく幕を閉じ、一行は王宮の大食堂へと場所を移すこととなった。


 その数時間後。大食堂で華やかな祝賀の晩餐会が催されているまさにその裏側――王宮の地下にある薄暗い配膳準備室の一角に、ピューレル博士の姿があった。


「ひ、ひぃっ……! ピュ、ピューレル様、お言いつけ通り、アルティグラ様のお席に運ぶ『特上ヴィンテージ・ブラッドワイン』のグラスをご用意いたしましたにゃん……っ!」


 人気のない石造りの小部屋で、王宮給仕係の『侍女キャレット』が一匹、ガタガタと震えながら銀のトレイを差し出していた。


 人間齢で十歳ほどの、フリルのついた純白の王宮メイド服を着た幼い少女である。なぜ科学と医療を束ねる最高幹部であるピューレル博士が、こんな裏方の準備室で自分に密命を下しているのか、彼女の小さな頭では理解できなかったが、逆らえばどうなるかだけは痛いほど理解していた。


「ご苦労様。どれ、見せなさい」


 ピューレルは白衣のポケットから、極小のガラス製スポイトを取り出した。その中には、無色透明の液体がわずか一滴だけ入っている。


 五十年かけてアルティグラの体内に蓄積させてきた休眠状態のナノウイルスを、一斉に暴走・活性化させるための『最終起動トリガー(劇症化酵素)』であった。これ単体ではただの無害なタンパク質に過ぎず、毒見役のキャレットが飲んでも何の反応も出ない。体内にナノウイルスが蓄積しているアルティグラが飲んだ時だけ、七十二時間後に全身の臓器を内側から一気に融解させるという、科学の粋を集めた完全犯罪用のスイッチである。


 ポタリ。


 ピューレルはグラスの中の赤いワインにその一滴を垂らし、魔力で微細に振動させて完全に撹拌した。


「さあ、これをアルティグラの席へ運んで、彼女が最後の一滴まで飲み干すのをしかと見届けてきなさい。……いいですね? もし途中でグラスを取り違えたり、誰かに怪しまれたりしたら、どうなるか分かっていますね?」


 ピューレルが眼鏡の奥の瞳を細めて見下ろすと、侍女キャレットは「ひっ……!」と息を呑み、メイド服の後ろから伸びる細い一本の尻尾を股の間にきつく挟み込んだ。


 短命なイエネコ族において、彼女たちを産んだ母親は二十年足らずの寿命ですでにこの世を去っている。だが、多胎出産が当たり前のキャレットである彼女には、同じ母の胎から生まれた「八匹の姉妹」がいた。自分だけが運良く王宮の侍女に選抜されたものの、残る八匹の姉妹たちは全員、前線で戦う『キャレット兵』として過酷な任務に就いていたのである。


「貴女の大切な八匹の姉妹たちは今、第3前線基地の歩兵部隊に配属されていましたね。もし貴女がこの簡単な仕事を失敗したら……明日にも軍部に要請して、その八匹全員を『新兵器の臨床実験用モルモット』として私の深層ラボへ引き取らせますよ。そして貴女の目の前で、姉妹たちの一本尻尾を根元から引き抜いた上で、私が開発した自慢の『ジューシー・ミキサー・オメガ』へ生きたまま放り込んで、仲良く一本のピンク色のジュースにしてあげましょう」


「ひぃぃっ!! や、やめてくださいにゃあぁぁっ!! お姉ちゃんや妹たちをミキサーにかけにゃいでくださいにゃんっ!! ぜ、絶対に失敗いたしませんにゃ! かにゃらずアルティグラ様に飲んでいただきますにゃんっ!!」


 侍女キャレットは姉妹たちの顔を思い浮かべて大粒の涙をこぼし、必死に頷くと、トレイを両手で抱えて大食堂へと駆け出していった。


 そして十分後。


「は、はぁ、はぁ……っ! ピューレル様ぁ、お言いつけ通り、アルティグラ様が全てお飲みににゃられましたにゃ! これがお下げした空のグラスですにゃん……!」


 侍女キャレットが、空になったクリスタルグラスをトレイに乗せて小部屋へと戻ってきた。その幼い顔には、「これで大切な八匹の姉妹たちが殺されずに済む」という必死の安堵が浮かんでいた。


「あら、本当ですね。実に見事な働きでしたよ、可愛い子猫ちゃん」


 ピューレルは空のグラスを受け取ると、三十代半ばの成熟した美女特有の妖艶で優しい微笑みを浮かべ、侍女キャレットの頭頂の猫耳をそっと撫でた。


「にゃ、にゃふぅ……っ♡ あ、ありがとうございますにゃ! これでお姉ちゃんたちも安全ですにゃね……? あの、にゃーはもう持ち場に戻ってもよろしいでしょうか、にゃ……?」


 少女がホッとして胸を撫で下ろした、まさにその瞬間だった。


「ええ、貴女の八匹の姉妹たちには指一本触れませんよ。前線で勝手に野垂れ死ぬまで放っておいてあげます。――もっとも、貴女自身が今日を生きて終えられればの話ですが」


 シュパアァァァンッ!!


 ピューレルのもう片方の手から、白衣の袖口に隠し持っていた医療用の『高周波レーザーメス』が閃光のように振るわれた。


「……え……? にゃ……?」


 侍女キャレットの小さな首筋と、メイド服の専用穴から外へ出ていた『一本の細い尻尾』の根元に、同時に赤い光の線が走った。


 あまりにも鋭利すぎる切断面に、最初の数秒間、少女は自分が斬られたことにすら気づかなかった。だが次の瞬間、彼女の小さな背中から、根元からスパッと切り落とされた一本の尻尾がボトリと床に落ち――それと同時に、切断された頸動脈と仙骨の断面から、真っ赤な鮮血が間欠泉のようにブシャアァァァァッ!!と噴き出した。


「あ……っ、ガ、ゴボォッ!?(み、みんにゃ……っ!?)」


 声帯と気管を同時に断ち切られた少女は、悲鳴を上げることすらできず、切断面からヒューヒューと空気と血の泡を噴き出しながらその場に崩れ落ちた。第二の脳である尻尾の神経を断たれた激痛で眼球が白く裏返り、小さな手足が床の上で激しくバタバタと痙攣する。切り落とされた床の上の尻尾もまた、独立した生き物のように血を吹き出しながらビチビチと跳ね回っていた。


 純白のメイド服は瞬く間にどす黒い血の海と、ショックで失禁した熱い尿でぐしょぐしょに染まり、わずか十秒足らずで、姉妹を想う十歳の少女は物言わぬ小さな肉袋へと変わった。


「フフッ、まさか最高機密の暗殺計画を手伝わされた一本尻尾のゴミが、そのまま生かしてもらえると思っていたのですか? 頭のお花畑にも程がありますよ」


 ピューレルは眼鏡に一滴の血も飛ばさぬまま、壁際の暗がりに向かってパチンと指を鳴らした。


 すると、待機していた二匹の『科学キャレット』が姿を現し、手慣れた様子で死体処理用の『強酸溶解バッグ』を広げた。ぶかぶかの白衣を着た彼女たちは、自分たちと同じ一本尻尾の少女が無残な死体となった光景にレンズの奥の瞳を震わせながらも、逆らえば自分たちが殺される恐怖から心を殺し、まだ温かくビクビクと痙攣している侍女キャレットの死体と、跳ね回る尻尾と、使用済みのワイングラスをまとめてバッグの中へと放り込んで特殊な溶解液を注ぎ込んだ。


 ジュワアァァァァァッ……!!


 バッグの中で少女の肉と骨と制服がドロドロのピンク色のペーストへと溶け落ちていく音をBGMに、ピューレルは中指で眼鏡のブリッジを押し上げ、大食堂の方角へと冷酷な笑みを向けた。


「さあ、カウントダウンの始まりです。五十年越しの私の芸術作品、たっぷりと味わいなさい、アルティグラ、ティーゲル……!」



 そして、叙任式から三日後の午後。


 王都の喧騒から離れたトラ族の本邸・中庭には、地底空間の天井に設置された人工太陽結晶からの穏やかで暖かい光が降り注いでいた。


 手入れの行き届いた庭園の芝生の上では、参謀職を退いて平服姿となった黒髪の母アルティグラが、銀髪の次女ハクレイ、そしてハクレイの娘である幼い姪っ子と共に、和やかなお茶の時間を過ごしていた。


「あははっ! おばあちゃまのお尻尾、ふわふわでいっぱいあるー!」


 まだよちよち歩きの幼い姪っ子が、母親譲りの銀髪を揺らして無邪気な声を上げながら、アルティグラの背後に広がる七本の立派なトラの尻尾に抱きついてじゃれついている。その幼い腰からも、トラ族の直系であることを示す小さな七本の尻尾が生えていたが、母ハクレイの気質をそのまま受け継いだのか、その瞳には獰猛な闘争心のかけらもなく、ただ愛らしく穏やかな光だけが宿っていた。


「こら、いけませんよ。おばあちゃまのお尻尾をそんなに引っ張ったら、お怪我をしてしまいますよ」


 優しい笑みを浮かべた銀髪のハクレイが、慌てて娘を抱き上げようとする。それをアルティグラは「よいよい、ハクレイ」と目を細めて制し、大きな手で孫娘の小さな銀髪の頭を愛おしそうに撫でた。


「こんなに小さな力では、私の尻尾はびくともせんよ。……それにしても、本当にこの子はハクレイによく似て、美しい銀髪と、穏やかで優しい心を持って育ったな」


「申し訳ございません、お母様……。私に武の才がないばかりに、この子まで戦いを怖がるようなおとなしい性質になってしまって……。代々王国の武を担うトラ族の血を引く者として、お姉様やお母様に顔向けができません……」


 ハクレイが申し訳なさそうに眉を下げて俯くと、ちょうどそこへ、城での午前中の軍務を終えた新参謀・ティーゲルが、漆黒の重甲冑を鳴らしながら中庭へと姿を現した。


「何をまた同じことを気に病んでいるのだ、ハクレイ!」


 百六十歳の若々しい覇気に満ちたティーゲルは、黒髪を揺らして豪快に笑いながら歩み寄ると、妹の華奢な肩をポンと優しく叩き、そのまま銀髪の姪っ子を自分の二メートルを超える高い肩の上へと軽々と肩車してやった。


「きゃあーっ! ティーゲルおばちゃま、たかーい!!」


「ハハハ! どうだ、見晴らしがよかろう! ……よいか、ハクレイ。母上もいつも仰っている通り、お前とこの子のその優しさは、血生臭い戦場しか知らぬ私にとって、何よりの心の癒やしであり誇りなのだ。王国の敵を討ち、乱を鎮める『武』の務めは、すべて参謀たるこの私が一手に引き受ける。お前とこの子は、一生この美しい庭園で花を愛で、笑顔のままで暮らしていればよいのだ!」


 ティーゲルが力強く黒甲冑の胸を叩くと、ハクレイは感極まったように瞳を潤ませ、「ありがとうございます、お姉様……」と深く頭を下げた。


 その対照的な黒髪と銀髪の姉妹、そして愛らしい孫の姿を見つめていた母アルティグラは、心からの幸福に満たされたように微笑み、テーブルの上のティーカップへと手を伸ばした。


「……うむ。ティーゲルよ、お前がそこまで頼もしくなってくれて、私は本当に鼻が高い。あとは……まだ百六十歳と若いお前自身の胎(はら)にも、いつかこの子に負けないくらい元気で可愛い赤ん坊が宿ってくれれば、私はもう思い残すことは何もないのだがな」


「も、母上! 私はまだ参謀になったばかりで、当面は軍務が忙しく……」


 二十代前半の娘らしく、ティーゲルが屈強な武人らしからぬ照れた様子で頬を赤らめた、まさにその瞬間であった。


 パリンッ!!


 アルティグラの手からティーカップが滑り落ち、石畳の上で粉々に砕け散った。


「……え? お母様……?」


 ハクレイが不思議そうに顔を上げる。


 椅子に座っていたアルティグラの巨体が、まるで糸の切れた操り人形のように、前方のテーブルへと激しく突っ伏した。彼女の背後で誇らしげに揺れていた七本の強靭なトラの尻尾が、突如としてすべての力を失い、ダラリと芝生の上に垂れ下がる。


「母上ッ!? どうなさいましたか、母上!!」


 ティーゲルは慌てて姪をハクレイに預け、母の元へと駆け寄ってその肩を抱き起こした。


 だが、抱き起こした母の顔を見た瞬間、ティーゲルの全身の血液が凍りついた。


 つい数秒前まで穏やかに微笑んでいたアルティグラの顔面は、死人のような土気色に変色し、その黄金の双眸からは、毛細血管が弾け飛んで真っ赤な『血の涙』がボロボロと溢れ出していたのである。


「あが……っ、てぃ、ティー、ゲル……っ……!」


 アルティグラが苦悶に顔を歪め、自らの喉元と胸をかきむしった直後。


 ゴボォォォォォォォォッッ!!!!


 アルティグラの口と鼻から、まるで決壊したダムのように、おびただしい量の「どす黒い血の塊」と


「内側からドロドロに融解した内臓の破片」が噴水となって噴き出した。


「きゃあああああああっ!?!?」


「う、うわあああんっ! おばあちゃまぁぁっ!!」


 真っ赤な血飛沫を銀髪とドレスに浴びたハクレイが悲鳴を上げ、幼い姪が恐怖で泣き叫ぶ。


「母上!? 母上ェェェッ!! な、なんだこれは!? なぜこんなに血を……ッ! 誰か!! 医療キャレットを呼べ!! 今すぐ王立病院のピューレル博士に緊急連絡を入れろォォォッ!!」


 ティーゲルは血まみれになりながら母の巨体を必死に抱きしめ、中庭の周囲に控えていたトラ柄メイド服の『侍女キャレット』たちに向かって、喉が裂けんばかりの絶叫を上げた。


「ひ、ひぃぃっ! た、ただちに連絡いたしますにゃあぁぁっ!!」


 侍女キャレットたちが顔面を蒼白にして屋敷の中へと走り出す。


 ティーゲルの腕の中で、かつて王国最強と謳われ、いかなる強敵の刃も通さなかったはずの偉大なる母の肉体が、ピューレルが五十年かけて仕込んだ悪魔のナノウイルスによって、今まさに内側から音を立てて崩壊し始めていた――。

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