第六話:黄金の胎動と、反逆の黒虎(中編)
トラ族本邸の最深部。さらにその奥底へと続く、冷たく重い鉄の扉の前。
一筋の光も差し込まないその暗黒の縦穴は、フェリディア建国以前から無数の魔獣が巣食う奈落――『虎の穴』の入り口である。
松明の炎だけが揺らめく薄暗い地下通路で、妹のハクレイは声を殺し、ただ静かに涙を流し続けていた。
トラ族の掟は絶対である。先代参謀の実母を持たないコトラが次代の参謀職を継ぐためには、この暗黒の洞窟にたった一人で放り込まれ、三十年間、己の力だけで生き抜かなければならない。
本来であれば「行かないで」と泣き叫び、娘の身体にしがみつきたい思いであった。しかし、王家と掟に逆らうことがいかに無慈悲な結果をもたらすかを知っているハクレイは、気丈にも自身の五本の尻尾を震わせながら、十歳の娘・コトラの小さな手を両手で包み込み、無言でその温もりを心に刻み込んでいた。
黒の近衛礼装甲冑に身を包んだティーゲルは、無表情のまま静かに歩み寄り、悲しい運命を受け入れている母娘を見下ろした。
ティーゲル自身は、先代参謀であった偉大なる母・アルティグラの「実の娘」であったため、この『虎の穴』での試練を特例として免除されていた。だが、自らの子宮が破壊され、トラ族の未来をこの小さな姪に背負わせるしかなくなってしまった己の無力さが、ティーゲルの胸の奥でドス黒い憎悪となって渦巻いている。
「お母様……っ、行ってまいります」
コトラは大粒の涙をポロポロとこぼしながら、ティーゲルを見上げた。かつて「ティーゲル伯母様」と慕っていたその温かい瞳はもうなく、今のティーゲルの黄金の瞳は、底なしの暗闇のように冷え切っている。
「……コトラ。これを持て」
ティーゲルは、腰に帯びていたトラ族最高峰の業物――『フェリディウム合金製の宝剣』を鞘ごとコトラの小さな手に握らせた。どんな魔獣の甲殻をも斬り裂く、最高級の剣である。
さらにティーゲルは、自らの首から外した『漆黒の魔石のネックレス』を、コトラの細い首へと丁寧にかけてやった。
「これは、私の七本の尻尾から抽出した魔道力を極限まで圧縮し、封印した魔石だ。……暗闇で弱い魔獣に襲われ、命の危機に瀕した時は、この石を強く握りしめ、念じろ。私の魔力が炎となって敵を焼き尽くすだろう」
「伯母、様……っ」
「いいか、コトラ。お前には我らトラ族の七本尻尾の誇り、そして何より、お前の母ハクレイや、偉大なる祖母アルティグラと同じ、気高く強靭な血が流れている。お前は決して、あんな洞窟の底で死ぬような弱い子ではない」
ティーゲルの声は冷徹であったが、その言葉には確かな姪への愛と励ましが込められていた。
「三十年だ。この真っ暗な地獄の底で、三十年間生き延びて、自らの足でここへ戻ってこい。……もし無事に生還できたなら、その時初めて、私はお前を『私の正当な後継者』として認め、次代の参謀となるための直接訓練をつけてやる」
「……はい、伯母様。私……生きて、必ず戻ってきます……っ! お母様、どうか泣かないで……っ!」
コトラは小さな手で宝剣を強く握りしめ、涙を拭って『虎の穴』の暗闇へと足を踏み入れた。
ギギギギ……、ガァァンッ!!
重厚な鉄の扉が閉ざされ、幾重もの錠が下ろされる。その瞬間、扉の向こうの闇から遠ざかっていく小さな足音を聞きながら、ハクレイはたまらず口元を両手で覆い、その場に崩れ落ちて咽び泣いた。
(……この理不尽な絶望もすべて、あいつらのせいだ)
泣き崩れる妹を見下ろしながら、ティーゲルは頭上の遥か彼方――黄金の獅子たちが優雅に暮らす王宮を睨みつけた。
私から子を奪い、姪を地獄へ突き落とし、家族の温もりを根こそぎ奪い去った王家。その怨念が、ティーゲルの背後でドス黒いオーラとなって静かに燃え上がっていた。
その数日後。
ティーゲルは軍務のため、王国軍司令部の長い回廊を歩いていた。彼女から放たれる近寄りがたい殺気に、すれ違う将校たちが皆、怯えて道を譲る。
だが、そんな彼女の前に、一人の若き将軍が静かに立ち塞がった。
「ティーゲル参謀閣下。……お忙しいところ申し訳ございません。少し、よろしいでしょうか」
鈴を転がすような、しかし凛とした声。
そこに立っていたのは、ヒョウ族の若き将軍・パルフェリッタであった。
しなやかで美しい肢体と、背中で優雅に揺れる五本の豹の尻尾。容姿端麗にして才色兼備、戦闘能力も極めて高く、何より「フェリディア王国から無駄な血と争いを無くし、平和な国にする」という気高い理想を持つ、部下や平民からも慕われる心優しき将軍である。
「何か用か、パルフェリッタ」
「……過日、閣下が執り行われました慰霊の『猫柱の儀』、ならびに辺境での魔獣討伐戦において損耗した、キャレット兵の補充に関するご報告に上がりました」
パルフェリッタは、五本尻尾である己の身分をわきまえ、七本尻尾のティーゲルに対して深く、そして丁重に頭を下げた。
「およそ六千匹。欠員となった第三、第四キャレット大隊を再編するため、辺境任務に就いていたキャレットたちを中央区画へと移送し、補充を完了しております」
「そうか。ご苦労だったな」
ティーゲルは、六千という膨大な命の消失と補充の報告を、まるで「消費した矢の補充」でも聞くかのように、ひどく冷淡で無関心な声で返した。
「……恐れながら、参謀閣下」
パルフェリッタは、その美しい瞳に深い悲しみの色を浮かべ、言葉を選びながら慎重に進言した。
「いくらキャレットたちが魔道力を持たない下等な一本尻尾とはいえ、短期間に六千を超える命が失われるのは、王国の生産力にも影響を及ぼします。これ以上の無闇な使い捨ては……キャレットたちも同じこのフェリディアの地で生きる、血の通った民でございます。どうか、今後の作戦行動においては、キャレット兵の損耗を抑えるご配慮を賜れませんでしょうか」
「甘いな、ヒョウ族の小娘」
ティーゲルはパルフェリッタの懇願を、氷のような声で冷酷に切り捨てた。
「その陳腐な理想で、この国が守れるとでも思っているのか? 下等な一本尻尾の命など、王国の消耗品に過ぎん。減れば辺境からかき集め、足りなければ繁殖させて数を補えば済むだけの話だ。……同情などという無駄な感情は、戦場に置いてこい」
その言葉に、パルフェリッタの肩が微かに震えた。
かつてのティーゲル参謀は、これほど命を軽視するような方ではなかった。身分の低い者にも温かく接し、無駄な犠牲を誰よりも嫌っていた、気高く慈悲深い将軍だったはずなのに。
「…………はっ。承知いたしました、参謀閣下。出過ぎた真似をいたしましたこと、どうかお許しください」
パルフェリッタは己の悲しみを胸の奥に押し殺し、軍人として完璧な礼を尽くして深く頭を下げた。身分が上の者に対する反論は、これ以上は許されない。
「では、私はこれで失礼いたします」
パルフェリッタは静かに背を向け、回廊を歩み去っていった。その背中で揺れる五本の豹の尻尾は、かつて心から尊敬していた偉大な武人の変わり果てた姿に対する、深い絶望と悲哀に満ちていた。
その頃。
王立医療科学技術局の地下深層ラボでは、ティーゲルの密命を帯びた数匹の『専属侍女キャレット』たちが、極秘の調査活動を行っていた。
あの日、医療局で忽然と姿を消した侍女・ミントの行方。そして、トラ族の長老衆が「なぜ急に、コトラを今すぐ虎の穴へ送るよう強硬に主張してきたのか」という不自然さである。
ティーゲル自身が動けば警戒されるため、彼女は最も信頼の置ける侍女たちを「清掃係」や「備品運搬」に偽装させ、医療局の内部へと潜入させていたのである。
しかし、その調査方法は、あまりにも過酷で扇情的なものであった。
医療局の魔道スキャナーに怪しい手荷物や服のポケットを検知されないよう、彼女たちは布地などほとんどない極小のマイクロビキニ、あるいは文字通り『一糸まとわぬ全裸』の姿で、ダクトや換気孔の中を這いずり回って潜入していたのである。
「はぁっ……はぁっ……。ここが、第一級禁忌指定区画の温室だにゃ……っ」
ホコリにまみれ、全裸の白い柔肌を煤で汚した一匹の侍女キャレットが、通気口の格子をこじ開けて温室の内部を覗き込んだ。
豊満な乳房がダクトの床に押し付けられ、背中から伸びる一本の尻尾が極度の緊張でピンと立っている。
そして彼女の奥歯の裏には、ティーゲルから渡された『猛毒入りのカプセル』がしっかりと仕込まれていた。もし万が一、ピューレルの手の者に見つかり捕縛されそうになった場合は、即座にこのカプセルを噛み砕くよう厳命されている。この毒を服用すれば、数秒で全身の細胞が崩壊し、塵となって消滅する。主君に累を及ぼさないための、絶対の自決用カプセルである。
(ティーゲル様のために……絶対に証拠を掴んで帰るのにゃ!)
侍女キャレットが温室の片隅に視線を巡らせた、その時。
巨大な『猫食い花』の群生地の陰に、干からびた小さな一本尻尾のミイラと、ミントがいつも持ち歩いていた「安産石のポーチの切れ端」が落ちているのを発見したのである。
「み、ミントちゃん……っ! やっぱり、ピューレル局長が……っ!」
侍女は涙をこらえ、その決定的な証拠を自身の目にしっかりと焼き付けた。
同じ頃、別の潜入侍女が、長老衆とピューレルの通信記録をハッキングすることに成功していた。
『……王家がトラ族の跡継ぎ問題に疑念を持っている。王族の不興を買う前に、今すぐ掟に従ってコトラを虎の穴へ入れなさい。さもなくば粛清の対象になりますよ』
という、ピューレルの悪意ある脅迫の記録である。
幸いなことに、ピューレルの部下たちに気づかれることなく、全裸の侍女キャレットたちは毒薬カプセルを噛み砕くことなく無事にトラ族本邸へと帰還し、すべての証拠をティーゲルへと報告し終えたのであった。
「……なるほど。ミントを化け物の餌にし、長老衆を脅してコトラを虎の穴へ送るよう仕向けたのは、やはりあの白衣の悪魔か」
執務室で報告を受けたティーゲルの黄金の瞳が、怒りでドス黒く濁った。
だが、ティーゲルはすぐには動かなかった。
出産の日、死産した(と偽装された)赤ん坊を必死に救おうとしてくれたピューレルに対し、ティーゲルは『自分の子を救おうとしてくれた唯一の恩人』としての一線をまだ信じている(騙されている)。その致命的な嘘だけは、ピューレル自身も絶対にティーゲルに悟られぬよう徹底的に隠蔽していたからだ。もしあの死産がピューレルの仕組んだものだと知れれば、ティーゲルはその瞬間に理性を失い、王家よりも先にピューレルを八つ裂きにしているだろう。
「……ピューレル。お前は私に恩を売りながら、裏ではトラ族の弱体化と王家への媚びへつらいを画策しているようだな。腹黒い女ピューマめ」
翌日、ティーゲルは何食わぬ顔で、王立医療科学技術局の局長室を訪れていた。
「おや、ティーゲル参謀。本日はどのようなご用件で? まだ産後の御身体が優れないのでしたら、私が極上の鎮痛薬を処方いたしますが」
執務机で優雅に紅茶を飲んでいたピューレルが、白衣の袖を揺らして完璧な「献身的な医師」の笑みを浮かべた。
「いや、身体はとうに回復している。今日は、お前に礼を言いに来たのだ。……コトラの『虎の穴』行きの件で、長老衆に色々と骨を折ってくれたそうだな」
ティーゲルのその一言に、ピューレルの眼鏡の奥の瞳が、コンマ一秒だけピクッと動いた。
(……ほう。どこから情報が漏れたのか知りませんが、私が長老衆を動かしたことを嗅ぎつけましたか。さすがは腐っても王国の参謀ですね)
ピューレルは紅茶のカップを静かに置き、あえて悲痛な表情を作ってみせた。
「……お耳に入っておりましたか。ええ、そうです。私が長老衆に、今すぐ掟に従うよう進言いたしました」
「なぜ、そんな余計な真似をした」
ティーゲルの黄金の瞳が、冷たい殺気を放ってピューレルを射抜く。
「誤解なさらないでください、参謀。すべては、貴女の立場をお守りするためです。……お腹の赤ちゃんを失った今、トラ族の跡継ぎ問題は王家にとっても重大な懸念事項。もし掟を破り、コトラ様を甘やかしていれば……いずれ必ず、ライアライア女王陛下から『トラ族は掟を軽んじ、王家への反逆を企てているのではないか』と疑念を持たれ、粛清の対象にされてしまいます。……私は、貴女たちトラ族が不当な疑いをかけられないように、先手を打って長老衆を急かしただけなのです」
もっともらしい、完璧な建前。
だが、ティーゲルはその言葉の節々に混じる『王族に対する微かな軽蔑と不満』を、確実に見抜いていた。
(……ふん。口では王家や王国に忠誠を誓っているフリをしているが、こいつの目を見れば分かる。この白衣の悪魔は、心の底では黄金の獅子どもを完全に舐め腐り、見下している)
そして、ピューレルもまた、目の前のティーゲルが放つ殺気が自分ではなく、遥か上の『王族』へと向かっていることを正確に感じ取っていた。
(……ククク。この筋肉だるまめ、私の嘘を信じ切っているくせに、私に腹の底を探りを入れているつもりですか。王族への復讐心でハラワタが煮えくり返っているのが、その瞳を見れば丸わかりだというのに)
表向きは「王家へ絶対服従を誓う完璧な忠臣」を演じながら、互いの心の奥底に渦巻く『王家への憎悪と反逆の意志』を暗黙の裡に察知し合う二人。
「……そうか。私の立場を案じてのことだったか。……お前が法と王家に対してどれほど忠実な臣下であろうと構わんが、二度と私の家族のことに首を突っ込むな。いくら私の命の恩人であろうと、次はないぞ」
「……肝に銘じておきましょう、参謀」
ピューレルは恭しく頭を下げ、ティーゲルは冷たく踵を返して局長室を後にした。
フェリディア王国において、『王家(ライオン族)への謀反や反乱』は、いかなる理由があろうとも絶対に許されない大罪である。はるか過去、まだ王国にオスが存在し、男性社会だった頃、ある種族がライオン族に弓を引き、見せしめとして女子供に至るまで種族ごと絶滅させられたという血塗られた歴史があるからだ。
だからこそ、二人は絶対に「王家を滅ぼす」という本音を口には出さない。互いに相手を利用価値のある駒として見定めながら、最も危険で邪悪な腹の探り合いを続けているのである。
バタン、と扉が閉まった直後。
ピューレルの顔から、スッと「忠臣の仮面」が剥がれ落ち、眼鏡の奥で三日月型の凶悪な嘲笑が浮かび上がった。
「……ククク。本当に、筋肉まで頭が詰まったおめでたい獣ですね。私の『命がけの救命劇の嘘』を、死ぬまで信じ切っている。……お前はせいぜい、私のために王族の喉笛を食い破る『優秀な猟犬』として働きなさい」
ピューレルは執務机に戻ると、隠し金庫を開けた。
そこには、特殊な培養液に浸された、あの死んだ子虎と、ティーゲルの実母であるアルティグラの亡骸から切り取った『七本の尻尾』が、防腐処理を施された状態で安置されている。この偉大なるアルティグラと、その血を引く七本の尻尾こそが、ピューレルの野望を完遂するための、現在この世界に存在する最も優秀な実験研究サンプルであった。
「私の究極の目的は私のこの身に、ライオン族の十本を超える……十一本、いや、数十本、数百本の尻尾を科学の力で強制的に生やし、私がこのフェリディアの絶対的な『神』として君臨することなのですから!!」
表向きは完璧な忠臣を演じながら、裏では王家の喉笛を噛みちぎる日を待ちわびる黒虎。
表向きは完璧な忠臣を演じながら、裏では王家と黒虎を共倒れさせ、自らが神の座を簒奪しようとする白衣の悪魔。
決して交わることのない二つの狂気と野望が、王宮の暗闇の中で静かに、そして禍々しく蠢いていた。
そしてその運命の歯車を決定的に狂わせる「ある重大な発表」が、王家からなされようとしていたのである。




