第五話:偽りの白衣と、反逆の黒き産声(中編)
王立医療科学技術局、地下VIP専用病室。
出血多量と極度の精神的ショックにより、泥のような昏睡状態に陥っているティーゲルの傍らで、白衣の悪魔――ピューレルは、フフッと音の無い笑いを漏らしながら、一本の極細の注射器を取り出した。
シリンジの中に満たされているのは、毒々しい紫色をした透明な液体。
ピューレルが独自に精製した、脳神経局所ハッキング薬『パラノイア・ドロップ(被害妄想の雫)』である。
「この薬はね、ティーゲル。大脳辺縁系の扁桃体と、聴覚野の言語処理領域をピンポイントでバグらせる、極めて繊細で美しい毒なのですよ」
ピューレルは昏睡するティーゲルの首筋――脳へと直接繋がる太い頸動脈へと、極細の針を音もなく突き立て、紫色の薬液をゆっくりと注入した。
「効果時間は、お前が目を覚ましてからわずか十数分間だけ。ですが、その十数分間、お前の脳は他者から向けられる『同情』『愛情』『慰め』といったポジティブな感情の周波数をすべて逆転させ、脳内で『嘲笑』『軽蔑』『悪意』という言葉に自動翻訳してしまう。……ええ、どんなに優しい言葉をかけられても、お前の耳には『自分を腹の底から馬鹿にして笑っている声』にしか聞こえなくなるのです」
注射を終えたピューレルは、針痕を指で丁寧に揉み消すと、枕元に置かれた「真っ黒に焼け焦げた子虎の死骸(偽装体)」の横で眠るティーゲルを見下ろし、恍惚の表情を浮かべた。
「さあ、舞台の準備は整いました。あとは、主役である『黄金の獅子』たちを、この悲劇のステージへ大急ぎで招待してあげましょう」
ピューレルは病室を出ると、自らの白衣の袖を乱暴に引きちぎり、顔色を青白くする薬を煽った。そして、先ほど自身に刺した点滴の針から意図的に血を流し、まるで『自らの魔力と血液のすべてを赤ん坊を救うために使い果たし、疲労困憊で倒れかけている献身的な医師』という完璧な偽装を施した。
準備を整えたピューレルは、王宮の最上階――誕生祭の祝賀パレードを終え、貴賓室でくつろいでいるライアライア女王の元へと、緊急の直通ホログラム通信を繋いだ。
『――ピューレル? どうしたのですか、そのような血気迫る顔をして。誕生祭のパレードは滞りなく終わりましたが……ティーゲルはどうしました? 彼女の姿がずっと見えませんが』
ホログラムの向こうで、優雅な黄金のドレスに身を包んだ十本尻尾の女王・ライアライアが、不思議そうに首を傾げた。その隣には、主役のドレスを着た王女ライオニアが、不思議そうにこちらを覗き込んでいる。
「へ、陛下ッ……! 申し訳ございません……ッ! 私の、私の力が及ばず……ッ!」
ピューレルは通信機の前でガクンと膝をつき、両手で顔を覆って大粒の嘘泣きの涙をこぼした。
「ティーゲル参謀が、警護の最中に突如として産気づき……重度の胎盤剥離による大出血を起こして、当医療局へ緊急搬送されてまいりました! 私の魔力をすべて注ぎ込み、なんとか母体の命だけは繋ぎ止めたのですが……」
『なっ……!? ティーゲルが!? なぜすぐに私に報告しなかったのです!!』
ライアライアの黄金の瞳が驚愕に見開かれ、女王としての威厳すら忘れて立ち上がった。
「も、申し訳ございません! 参謀ご自身が、『王女様の神聖な誕生祭に、決して水を差してはならない。私のことは後回しでいいから、祭りを完遂してくれ』と、薄れゆく意識の中で固く口止めをされたのです……ッ! 王家への忠義を貫き通した参謀の願いを、私は無下にできず……ッ」
『なんという……! あの子は、どこまで自分を犠牲にすれば気が済むというのです……っ! それで、ティーゲルの状態は!? 赤ちゃんはどうなったのですか!?』
悲痛な声で問い詰める女王に対し、ピューレルはわざとらしく声を詰まらせ、血を吐くような演技で告げた。
「……お腹の子虎様は……一ヶ月もの早産と酸素欠乏に耐えきれず……私の腕の中で、息を引き取られました。……ティーゲル参謀は今、真っ黒に腐敗してしまった我が子の亡骸を抱きしめたまま、絶望のあまり精神が完全に崩壊しかけております……っ!」
『ああ……っ! そんな……!』
女王ライアライアは口元を両手で覆い、その場にへたり込んだ。隣にいた王女ライオニアも、「ティーゲルの赤ちゃんが、死んじゃった……?」と大きな瞳に涙を浮かべている。
「陛下ッ! 恐れながら申し上げます! 今のティーゲル参謀は、あまりの悲しみと絶望に、いつ自ら命を絶ってもおかしくないほど心が壊れきっております! 私のような卑小な医者の言葉など、もはや彼女の耳には届きません! どうか……どうか陛下と王女殿下の温かく慈悲深いお言葉で、参謀の心を絶望の淵から救い出してはいただけないでしょうか!! 王家の方々の励ましだけが、今、彼女が生きる唯一の希望なのです!!」
ピューレルの必死の嘆願(という名の巧妙な誘導)を聞いたライアライアは、迷うことなく力強く頷いた。
『分かりました! 今すぐ向かいます。誕生祭の事後式典などすべて中止にしなさい! ライオニア、行きますよ。ティーゲルが、私たちを待っています!』
『うんっ! 私、ティーゲルをいっぱいよしよししてあげるの!』
通信が切れた直後。
床に伏して涙を流していたピューレルの顔から、スッと悲壮感が消え去り、極悪非道な嘲笑が浮かび上がった。
「……チョロいものですね、あの純粋無垢な黄金の獅子どもは。私が『自殺するかもしれない』と煽れば、誕生祭など放り出して飛んでくることは計算通りです。……さあ、ティーゲル。お前の愛する主君が、最高の『絶望の引導』を渡しに来てくれますよ」
それからわずか数十分後。
地下VIP病室の重厚な扉が、勢いよく開かれた。
「ティーゲル!!」
病室に駆け込んできたのは、息を切らせ、祝祭のドレスの裾が汚れるのも構わずに地下まで走ってきた女王ライアライアと、王女ライオニアであった。
ベッドの上。
ティーゲルは、ピューレルが仕込んだ薬物の作用でちょうど目を覚ましたばかりだった。彼女は虚ろな瞳で、胸に抱いた「真っ黒に焼け焦げた子虎の死骸(偽装体)」を、揺りかごを揺らすように力なく撫でていた。
「て、ティーゲル……ああ、なんて痛ましい……っ!」
ライアライアはベッドに駆け寄り、ティーゲルの血の気のない手を両手で強く握りしめた。女王の黄金の瞳からは、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちていた。
【女王ライアライアの真実の言葉】
「ティーゲル……。本当に、本当に可哀想に。お前が一人でこれほど苦しんでいたというのに、私は地上の広場で何も知らずに笑っていた……。一言、誰かに伝えてくれれば、祭りのホログラムなどすべて停止して、ありったけの魔道電力をこの医療局へ回し、お前の赤ちゃんを必ず救ってみせたというのに……っ!」
女王の言葉は、心の底からの深い後悔と、ティーゲルへの本物の愛情に満ちていた。
だが。
薬物によって言語中枢を破壊され、幻聴と被害妄想のフィルターを掛けられているティーゲルの耳には、その言葉は次のように変換されて響き渡ったのだ。
【ティーゲルの脳内に響いた幻聴(曲解)】
『フフッ……本当に、無様で滑稽な姿ですね、ティーゲル。お前が地下の密室で一人で腹を裂かれ、汚物にまみれて苦しんでいる間、私は地上の広場で、お前を見下ろしながら優雅にワインを飲んで笑っていましたよ。……よくもまあ、私に助けを求めませんでしたね。もし報告されても、たかが雑種の命のために祭りの電力を止めるなど、絶対にあり得ないというのに。せいぜいそこで、焼け焦げたゴミでも抱いていなさい』
「――――ッ!?」
ティーゲルの黄金の瞳が、驚愕と恐怖、そして信じられないものを見るかのように極限まで見開かれた。
彼女の目には、目の前でボロボロと涙を流しているはずのライアライアの顔が、扇子で口元を隠し、冷酷に見下して嘲笑っているように歪んで見えていたのだ。
(う、うそだ……。嘘だ、ライアライア様……っ。なぜ、そんな酷いことを……っ!? 先ほどピューレルが見せてくれたあの通信ホログラムの映像は、やはり真実だったのか……!? 陛下は、最初から私を見捨てて、死産した私を笑いに来たというのか……ッ!)
ティーゲルの喉から「ヒュッ」と息を呑む音が漏れた。彼女は無意識に、腕の中の真っ黒な子虎の亡骸を、王族から隠すように強く抱きしめた。
そんなティーゲルの異変(薬による混乱)を「悲しみによるショック」だと勘違いした王女ライオニアが、小さな背伸びをして、ベッドの上のティーゲルの頬を小さな手で優しく撫でた。
【王女ライオニアの真実の言葉】
「ティーゲル、泣かないで。赤ちゃんは死んじゃったけど、お星さまになって、ずっとティーゲルのことを見守ってくれているわ。私たちは家族よ。ティーゲルの赤ちゃんは、私の本当の妹と同じくらい、大切な家族なんだから。だから、元気を出して……っ!」
十歳の幼い王女は、言葉はつたないながらも、必死にティーゲルを元気づけようと、純粋な優しさで微笑みかけた。
しかし、その無垢なる慰めの言葉すらも、パラノイア・ドロップの猛毒は残酷な刃へと変換してティーゲルの脳髄に叩き込んだ。
【ティーゲルの脳内に響いた幻聴(曲解)】
『ねえティーゲル、いつまでメソメソ泣いてるの? 鬱陶しいわね。あんな知性のない地上の獣の泥が混ざった雑種が死んでくれて、せいせいしたわ。美しくて高貴な私たちの王宮に、あんな真っ黒な汚物が居座るなんて、気持ち悪くて吐き気がするんだもの。……あーあ、せっかくの私のお誕生日だったのに、あなたの死産のせいで気分が台無しよ。さっさと立ち直って、また私の肉の盾として働きなさいよね』
「あ……あ、ア゛……ッ……」
ティーゲルの喉の奥から、空気が引き裂かれるような悲鳴が漏れかけた。
痛い。痛い。
腹を裂かれるよりも、尻尾を切断されるよりも。
生涯を懸けて忠誠を誓い、命をとして守り抜いてきた主君と、愛らしいと思っていた王女からの「絶対的な拒絶と嘲笑」の言葉が、ティーゲルの心臓を千の刃でズタズタに引き裂いていく。
今すぐ発狂して、両耳を塞いで泣き叫びたい。
『私の赤ちゃんを愚弄するな』と、怒りのままに叫び散らしたい。
だが――フェリディア王国の絶対的な身分制度と、彼女の魂に刻み込まれた武人としての呪縛が、それを許さなかった。
いかに心が粉々に砕け散り、理性が発狂の淵にあろうとも、相手は天上人たる王族。下位の者が声を荒らげ、感情のままに反抗の言葉を口にすることなど、万死に値する大罪である。
「……っ、お、恐れ入り、ます……。ライオニア、王女殿下……ッ」
ティーゲルは自らの頭をかきむしりそうになる両手を必死に押さえつけ、ベッドの上で深く、ガタガタと震える頭を垂れた。
「どうか、どうかこれ以上は……私めのような愚か者への、もったいなきお言葉は……お控えくださいますよう……ッ。私の、私の腹から出た汚らわしい死骸が……王女殿下の神聖なる祝祭を汚しました罪……どうか、どうか、海よりも深き御心で、お許しくださいませ……ッ!!」
血を吐くような思いで絞り出した、極限の敬語と謙譲語。
ティーゲルは涙と涎で顔をぐしゃぐしゃにしながら、毛布の下で自らの太ももに爪が深く食い込んで血が滲むほど力を込め、己の怒りと絶望を必死に腹の底へ押し殺して、平伏し懇願したのである。
「ティーゲル……? い、一体どうしたというのです……? 罪だなんて、誰も貴女を責めてなど……っ」
パニックに陥るライアライア。
その背後で、壁際に控えていたピューレルが、ハンカチで目頭を押さえるフリをしながら、白衣の陰で肩を震わせて音の無い大爆笑をこらえていた。
(ククク……ッ! アハハハハハハハッ!! 傑作だ! 互いに想い合っているはずの主従が、私のたった数滴の薬で、こうも見事にすれ違い、絶望の泥沼で踊り狂っている! しかもあの筋肉だるま、我が子を嘲笑われたと思い込みながらも、身分制度の鎖に縛られて王族へ必死に頭を下げている! ああ、なんという至高の喜劇!!)
ピューレルはわざとらしく前に進み出ると、ライアライアの肩に手を置いた。
「へ、陛下。恐れながら……今のティーゲル参謀は、我が子を失った絶望と、ホルモンバランスの急激な崩壊により、極度の被害妄想と錯乱状態に陥っております。……陛下たちの神聖なる光のオーラが、今は逆に、参謀の闇に落ちた心を激しく刺激してしまっているのです。これ以上は参謀の精神が持ちません。ここはひとまず私が投薬で眠らせますので、陛下方はどうかお下がりください……っ!」
「そ、そんな……。私が、ティーゲルを苦しめているというのですか……っ」
ライアライアは悲痛な表情でティーゲルを見た。
ティーゲルはベッドの隅で小さく丸まり、顔を伏せたまま「申し訳ございません、申し訳ございません……」と、まるで壊れた機械のように謝罪の言葉を震え声で繰り返し、真っ黒な子虎の亡骸をきつく抱きしめている。
そのあまりにも痛ましい拒絶の態度に、ライアライアは心を痛め、深くうなだれた。
「……分かりました。ピューレル、ティーゲルのことを、どうか頼みます。……ティーゲル。また明日、貴女の心が少しでも落ち着いた頃に、必ず来るからね。ゆっくり休んでちょうだい」
女王は最後にそう優しく告げ、涙を拭いながらライオニアの手を引いて、病室を後にした。
バタン、と。
重厚な扉が閉まり、病室に再び静寂が戻った。
王族が立ち去ったことで、極度の緊張の糸が切れ、パラノイア・ドロップの効果も徐々に薄れていく中。
ティーゲルは、虚ろな瞳で病室の天井を見つめ、やがて視線を自分の腕の中に抱かれた「真っ黒に炭化した我が子」へと落とした。
「……あいつらが……。私を……私とこの子を……」
彼女の脳裏には、先ほどの(曲解された)ライアライアとライオニアの残酷な嘲笑の言葉が、そして、その言葉に対してひれ伏し、涙を流して『お許しください』と謝罪しなければならなかった自分自身の惨めな姿が、呪いのように幾度も幾度もリフレインしていた。
忠誠は、報われなかった。
王家にとって、トラ族とは、自分とは、ただの便利な『肉の盾』でしかなかったのだ。
身重の身体で警護に立ち、激痛の中で子供を産み落とし、その命が消えかけている時でさえ、彼らは電力を祝祭の花火に使い、死産した自分を笑いに来た。
それなのに、自分は奴らの前で怒り狂うことすら許されず、我が子を愚弄された屈辱を呑み込んで頭を下げたのだ。
プツン、と。
ティーゲルの胸の奥底で、百六十年間、彼女の精神を支え続けていた『高潔なる武人の誇り』と『王家への絶対的な忠義』が、音を立てて完全に切断された。
それと同時に。
身分の鎖によって押さえつけられていた反動が、そのポッカリと空いた心の空洞に、ドス黒く、ヘドロのように粘り気のある『底知れぬ憎悪』となって、地獄の底からマグマのように湧き上がってきたのである。
「……許さん。絶対に、許さない……ッ!!」
ティーゲルの背後で、ベッドのシーツを突き破り、力なく垂れ下がっていた『七本の尻尾』が、突如として不気味な音を立てて逆立ち始めた。
本来であれば、黄金色に輝くはずのトラ族の魔道力。
しかし今、彼女の七本の尻尾から立ち昇っているのは、インクのようにドス黒く、触れる者すべてを腐食させるような禍々しい『暗黒のオーラ』であった。
「私の赤ちゃんを……私と母上アルティグラの誇りを、ゴミのように踏みにじった黄金の獅子(王家)ども……っ! よくも、よくも私に……あんな屈辱を味わわせたな……ッ! 私からすべてを奪い、嗤った罪……その命と、黄金の血をもって、千倍にして償わせてやる……ッ!!」
ティーゲルの黄金の瞳孔が、獣のように縦に細く収縮し、その口の端からは凶悪な牙がギシリと音を立てて伸び始めた。
トラ族の極限の怒りの感情が引き起こす、突然変異――『ビーストモード(狂化暴走)』の萌芽である。
「ああ、待っていてくれ、私の赤ちゃん……。母さんが必ず、あの傲慢な獅子どもの喉笛を噛みちぎって、この無念を晴らしてやるからな。……フ、フフッ……アハハハハハハッ!!」
腕の中の黒い炭化死体を愛おしそうに撫でながら、暗黒のオーラを立ち昇らせて狂ったように笑い始めるティーゲル。
その背中を、ピューレルは病室の隅の暗がりから、まるで自らが作り上げた『最高傑作の怪物』を鑑賞するかのように、恍惚の表情で見つめていた。
(素晴らしい……! これです、これこそが私の望んだ姿! 王家最強の盾が、自らの手で王家の喉笛を食い破る、最強最悪の狂犬へと堕ちた瞬間!!)
ピューレルは、自らの謀略がすべて完璧に、それも予想を遥かに超える極上の形で実を結んだことに、歓喜で体が震えるのを抑えきれなかった。
女王ライアライアの真実の優しさも、侍女ミントの命を懸けた忠義も、医療キャレット・ルルの涙の懇願も、そして七本尻尾の子虎の本当の死因も。
ティーゲルは、その真実のすべてを永遠に知ることなく、白衣の悪魔の手のひらの上で完全に踊らされ、洗脳され、ただ王族への凄まじい復讐心を燃やすだけの『暗黒の暗殺兵器』へと成り果てたのである。
王宮の頂に君臨する黄金の獅子と、地獄の底から牙を剥く反逆の黒虎。
フェリディア王国を血の海に沈める、最悪の復讐劇の幕が、今ここに切って落とされた。




