第五話:偽りの白衣と、反逆の黒き産声(前編)
「あ、りがとう……ピューレル……っ。私の、赤ちゃんを……よろ、しく……」
血と汚物と羊水にまみれた分娩台の上で、フェリディア王国最強の女参謀・ティーゲルの首がガクンと横に倒れた。
極限の陣痛、直腸と産道を同時に犯される狂気の絶頂分娩、そして何より「王家に見捨てられた」という絶望的な精神的ショック。それらが限界を突破し、大量出血を起こしていた彼女の強靭な肉体をついに深い昏睡の底へと引きずり込んだのだ。
分娩室に響くのは、生命維持モニターの『ピー……、ピー……』という無機質な電子音と、ティーゲルの背後で彼女の七本の尻尾をガッチリと拘束している特殊金属『封魔の尾環』の、微かな駆動音だけであった。
ティーゲルの意識が完全に途絶えたことを確認した、その瞬間。
それまで必死の形相でガラスケース(保育器)の中に手を突っ込み、小さな子虎の心臓マッサージと魔力供給を行っていたピューレルの動きが、まるで電源を切られた機械のようにピタリと止まった。
「……」
ピューレルはガラスケースの中から両手をゆっくりと引き抜くと、傍らの滅菌ガーゼを手に取り、手袋の指先に付着した『黄色と黒の縞模様の毛』と『子虎の血』を、まるで汚物でも払うかのように忌々しげに拭き取った。
その顔からは、先ほどまでの「命を救おうとする献身的な医師」の表情が完全に抜け落ちていた。
代わりに浮かび上がったのは、爬虫類のように冷酷で、底知れぬ悪意と狂気に満ちた、白衣の悪魔の真の顔であった。
「……フフッ。よく眠りましたね、愚かな筋肉だるま。最期にこの私へ『ありがとう』だなんて……本当に、お腹の底から笑いが込み上げてきますよ」
ピューレルはティーゲルの気絶した顔を一瞥して冷笑すると、保育器のコンソールパネルを操作し、ただでさえ10%しか稼働していなかった魔道酸素の供給バルブと、保温ヒーターのスイッチを『完全にオフ』にした。
『……ミィ……っ。……カヒュ……ッ……ミ、ィ……』
冷たい金属板の上に横たわる、手のひらサイズの子虎。
王女の祝祭エネルギー独占によって電力を絶たれ、急激に温度が下がっていく密閉されたガラスケースの中で、小さな七本の尻尾をブルブルと震わせながら、未発達の肺で必死に空気を求めて口をパクパクとさせている。
「さあ、見苦しい命の足掻きは終わりです。お前はここで、母親に『王家への憎悪』を植え付けるための、美しき死骸となるのですよ」
ピューレルが冷酷に宣告した、その時であった。
「ま、待ってくださいにゃ!! ピューレル様っ!!」
分娩室の隅で、ティーゲルの凄惨な出産を見せられてガタガタと震えていた数匹の『医療キャレット』の中から、一匹の少女が弾かれたように飛び出してきた。
人間齢にして十歳ほどの、栗色のボブヘアに白いナースキャップを被った医療キャレット『ルル』であった。
ルルは恐怖で歯の根をガチガチと鳴らし、一本の尻尾の毛を逆立てて震えながらも、分娩台と保育器の間に立ちはだかるようにして、両手を広げた。
「そ、そんにゃの……そんにゃの、あんまりですにゃ! ティーゲル様は、あんにゃに血を流して……王家の人たちに酷いことを言われて、それでもピューレル様のことだけは信じて、感謝して眠りについたのに……っ! どうか、どうかお子様を助けてあげてくださいにゃあ!!」
ルルの瞳からは、大粒の涙がボロボロと溢れ落ちていた。
深層ラボで働く彼女たち医療キャレットは、ピューレルの残虐非道な実験の数々を間近で見てきた共犯者であり、逆らえば自分たちが『猫食い花』の餌や『尻尾神経直結実験』のモルモットにされることを骨の髄まで叩き込まれている。
だが、ルルには、トラ族の本邸で侍女として働いていた親友――ミントから聞かされた言葉が、胸の奥に強く残っていた。
『ティーゲル様はね、にゃーたちみたいな下賤な一本尻尾にも、すっごく優しくしてくれるんだにゃ! いつも大きな手で頭を撫でてくれて……。だからにゃーは、ティーゲル様のお腹のお子様が産まれたら、命に代えてもお守りするんだにゃ!』
あの日、医療局で姿を消したミントが、すでにピューレルの手によって地下の温室で干からびたミイラにされていることを、ルルは知っている。
親友が命を懸けて守りたかった、ティーゲルと、そのお腹の赤ちゃん。
今、目の前でガラスケースの中で息絶えようとしている小さな子虎の姿と、親友ミントの無邪気な笑顔が重なり、ルルの心の中で、恐怖よりも「ティーゲル様への敬意と、赤ん坊を救いたいという祈り」が勝ってしまったのだ。
「にゃーの……にゃーの尻尾を、全部この保育器に繋いでくださいにゃっ! 死んじゃっても構わにゃい! だから、お子様の命だけは……っ!!」
ルルが泣き叫びながら保育器のプラグへ手を伸ばそうとした、次の瞬間。
ドガァァァァンッッ!!!
「ぎ、にゃぶッ!?」
不可視の強烈な『念動力』の塊がルルの腹部を容赦なく殴りつけ、彼女の小さな身体は分娩室の分厚い鉛の壁へとボールのように叩きつけられた。
「ガハッ……! げほっ、ごほっ……!」
肺の空気をすべて吐き出し、口から胃液と血を撒き散らして床にうずくまるルル。
「……たかが一本尻尾のゴミ虫が。この私に説教を垂れるとは、随分と偉くなったものですね」
ピューレルの声は、絶対零度の氷のように冷たく、そしてドス黒い怒りに満ちていた。
眼鏡の奥の瞳が、爬虫類のそれのように縦に細く収縮している。
「て、ティーゲル様やハクレイ様は……にゃーたちを、ゴミ虫なんて呼ばにゃいにゃ……っ。心を持った、同じフェリディアの民として……うぐっ!」
「黙りなさい」
ピューレルが指を軽く上へ弾くと、ルルの身体が見えない力で首根っこを掴まれたように宙へと吊り上げられた。
「お前たち下等生物が、上級貴族の気まぐれな『優しさごっこ』に絆されて勘違いをしているようですが……。いいですか? フェリディアにおいて、一本尻尾は実験動物と同義。私が『死ね』と言えば死に、『肉片になれ』と言えば肉片になるのが、お前たちの存在意義なのですよ。……それを、私の神聖なる復讐劇の土壇場で、その安いヒロイズムで邪魔をしようとした罪。万死に値します」
ピューレルの背後で、七本のピューマの尻尾が怒りに打ち震えながらうねった。
「他の医療キャレットども。よく見ておきなさい。私に逆らうということが、どういうことかを」
ピューレルが壁のコンソールに向けて指を鳴らすと、分娩室の天井と壁面が「ウィィィィン……!」という重低音とともに開き始めた。
そこから現れたのは、通常の分娩や治療には絶対に使われることのない、巨大で鋭利な刃物やドリル、注射器を備えた無数の多関節アーム――『自動医療解剖標本化アーム(オートマティック・ディセクション・マニピュレータ)』であった。
「ひっ……!? ピ、ピューレル様、お許しを! ルルちゃんをお許しくださいにゃあ!!」
他の医療キャレットたちが、恐怖のあまりその場で失禁しながら土下座をして泣き叫んだ。
「お前もルルと一緒に標本瓶に入りたいのですか?」
ピューレルが一瞥すると、キャレットたちは「ひぃぃっ!!」と悲鳴を上げて互いに抱き合い、ガタガタと震えながら沈黙するしかなかった。
「さあ、ルル。お前には特別な罰を与えてあげましょう。麻酔もなしに生きたまま自らの内臓が取り出され、綺麗なホルマリン漬けの標本にされていく過程を、その目で最後まで見届けるという至高の罰をね」
「い、いやだ……っ! いやだにゃあ! たすけて、たすけてにゃあぁぁっ!!」
ルルの絶叫も虚しく、念動力によって彼女の身体は部屋の隅にある冷たい解剖台の上へと仰向けに叩きつけられた。
ガシャン! ガシャン! と鋼鉄の拘束具が飛び出し、ルルの両手首、両足首、そして首と『一本の尻尾の根元』を、ミリ単位たりとも動けないほど完全に固定する。
「プログラム起動。対象:一本尻尾。生体維持レベル:最大。解剖プロトコル:完全標本化」
ピューレルが冷酷に命令を下した瞬間、天井から伸びた無数の解剖アームが一斉にルルの小さな身体へと群がった。
「ア゛ア゛ア゛ッ!? いやぁぁぁぁっ! 切らにゃいで、お腹を切らにゃいでえぇぇッ!!」
『ギュイィィィィン……!!』
一本のアームの先端から、高温の魔道レーザーメスが照射された。
それはルルのナース服ごと、彼女の胸の谷間から下腹部のへその下までを、一直線に、そして完璧な深さで「ジュウゥゥゥッ」と切り裂いた!
「ぎにゃあああああああああああっっ!!? 痛いぃぃぃっ! あついいいいぃぃっ!!!」
生きたまま、麻酔なしで腹を割かれる極限の激痛。
ルルの眼球が飛び出さんばかりに見開かれ、口からは絶叫とともに血の泡が噴き出す。
だが、アームは止まらない。左右から伸びた金属の鉤爪が、切り裂かれたルルの胸部と腹部の皮膚と筋肉をガッチリと掴み、左右に「メリメリメリッ!」と強制的に押し開いたのだ。
「あガッ……!? カヒュッ……!!」
ルルの胸郭が開かれ、まだドクドクと力強く脈打っているピンク色の心臓や肺、そして蠕動運動を繰り返す生々しい腸などの内臓器官が、分娩室の冷たい空気に完全に剥き出しとなった。
「見なさい、ルル。お前の薄汚い内臓が、あんなにも元気に動いていますよ。……アーム、まずは消化器官から摘出しなさい」
『ウィィィン……、ガシュッ!』
別のアームが降りてきて、ルルの胃と腸の接合部を正確な動きでクリップし、特殊な電熱カッターで「ジュッ」と切断した。
「あ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッ!!!? いやだ! いやだにゃあ! にゃーの、にゃーのお腹の中が、引っこ抜かれるぅぅっ!!」
アームがウィーンという機械音を立てながら、ルルの腹の中から、何メートルにも及ぶ腸をズルズルズルッ! と引きずり出し始めた。
自分の内臓が、生きたまま自分の視界の端を通り過ぎて上に引き上げられていくという、発狂しそうなほどの視覚的恐怖と物理的激痛。
引きずり出された腸は、すぐ横に用意された透明な巨大シリンダー(ホルマリン標本瓶)の中へとボチャンと落とされ、防腐液の中でユラユラと漂い始めた。
「ほら、お前の腸ですよ。綺麗ですね」
「ア゛……ア゛……ッ、た、しゅけ……」
ルルの意識が激痛によるショックで途切れそうになるが、解剖台から伸びた特殊な電極が彼女の延髄に直接『強制覚醒パルス』を打ち込み続け、絶対に気絶することを許さない。
さらに、別のチューブが彼女の太い血管に直結され、内臓を失っても心臓と脳だけは動き続けるように『人工血液と生体維持魔力』を強制的に循環させているのだ。
「フフッ。さあ、次はお前の急所……『一本の尻尾』の切断標本化に移りなさい」
その声とともに、分娩台の下から、円盤状の刃を持った『超高速魔道骨断カッター』を備えたアームが、不気味な駆動音を立ててせり上がってきた。
そして、拘束バイスでピンと引っ張られているルルの尻尾の根元――骨盤と尾骨が繋がる仙骨の関節部へと、冷たい刃をピッタリと押し当てた。
「ひっ……!? あ、あああぁぁぁっ!! しっぽ、しっぽだけは、やめてえぇぇぇっ!! 切らにゃいで、切らにゃいでえぇぇッ!!」
フェリディア人にとって、尻尾は脊髄神経(馬尾神経束)がそのまま外部に剥き出しになった『第二の脳』である。そこを生きたまま、麻酔なしで切り落とされることがどれほどの絶痛をもたらすか、ルルは本能で理解して発狂したように泣き叫んだ。
「お前は先ほど、自分の尻尾をすべて保育器に繋ぐと言ったではありませんか。願い通り、綺麗に切り取ってあげますよ」
『ギュイイイイイイイイインッッ!!!』
ピューレルの無慈悲な宣告とともに、円盤カッターが凄まじい回転を始め、ルルの尻尾の根元へ真っ向から食い込んだ!
「――――――――ッッッ!!!!!!」
ルルの口から、もはや悲鳴すら声にならない、空気が喉を切り裂くような絶音だけが漏れた。
刃が毛皮を裂き、肉を断ち切り、硬い尾骨を「ガガガガガッ!!」と削り砕く悍ましい振動が、彼女の脊髄を通って脳髄へと直接響き渡る。
しかし、本当の地獄は骨が切断された直後だった。
『ブチブチブチィッ!!!』
カッターが、尾骨の中に詰まっている『神経の極太の束』を強引に巻き込み、引きちぎるように切断したのである!
「ア゛ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!!?!?!」
ルルの小さな身体が、解剖台の鋼鉄の拘束具をへし折らんばかりの凄まじい力で跳ね上がった。
千の雷が同時に脳髄へ直撃したかのような、宇宙が爆発するほどの絶対的な激痛。
両目から白目を剥き、血の涙を噴き出し、口の端からは自身の舌を噛み切った真っ赤な血の泡がカニのようにブクブクと溢れ出す。
あまりの痛みに脳の血管が何本も破裂し、本来なら瞬時にショック死しているはずの激痛。
だが、延髄に打ち込まれ続ける『強制覚醒パルス』が、彼女に失神することすら許さず、網膜が焼き切れるような神経切断の絶痛を、一から十まで100%の鮮度で強制的に味わわせ続けたのだ。
「あ゛……あ゛あ゛……ッ、あ゛ガッ……ひ、ぎぃ……ッ!!」
神経が完全に切断され、ルルのお尻から「ポトリ」と切り離された一本の尻尾。
アームはそれを丁寧に拾い上げると、ルルの視界のすぐ横にある細長い標本瓶のホルマリン液の中へと、チャポ……と落とし込んだ。
ルルは血の泡を吹きながら、焦点の合わない瞳で、つい数秒前まで自分の一部だった尻尾が、冷たい液体の中で力なく漂っているのを幻覚のような意識で見つめていた。
尻尾はもう無いのに、切断された断面から脳へと無限に送られ続ける「神経が焼かれるような幻肢痛」が、彼女の精神を粉々にすり潰していく。
「見事な切断面です。さあ、残りの臓器もすべて綺麗に瓶へ収めなさい。……ああ、心臓は最後にしなさい。この子が死んでしまいますからね」
『ズチャッ……、ジュルルッ!』
レーザーメスと吸引管が機械的かつ無慈悲にルルの体腔内を荒らし回る。
「んぎゃあぁぁぁっ! ひぃぃぃっ、ごほっ、ごほぉぉっ!!」
片肺を切り取られ、呼吸が半分しかできなくなったルルが、残されたもう片方の肺で血の泡を吐き出しながらヒューヒューと悲鳴を上げる。
摘出された臓器が、次々とホルマリンの瓶へと落とされ、並べられていく。
(て、ティーゲル様……っ。ミントちゃん……っ。ごめんね、にゃー、助けられにゃかった……っ)
腹の中が完全に空洞になり、赤い背骨が丸見えになった状態でも、強制覚醒させられているルルの脳髄は、地獄の激痛と恐怖を100%の鮮度で味わい続けていた。
彼女の視界の先では、自分を見せしめにされてガタガタと震えながら嘔吐している同僚のキャレットたちと、その奥で無慈悲に冷たくなっていく保育器の中の子虎の姿が、涙でぼやけて見えた。
「さて。これで中身は綺麗に空っぽになりました。最後は、お前の生意気な脳髄と心臓を切り取って終わりにしましょう」
ピューレルの言葉とともに、最も太く鋭い『頭蓋骨切断用・超振動丸鋸』と『心臓摘出用マジックハンド』が、ルルの顔面と胸部へとゆっくりと降下してきた。
「あ……あ……っ、いや……」
『ギュイイイイイイイイイイインッッ!!!』
凄まじいモーター音。
丸鋸がルルの額に触れ、頭蓋骨を「メギャアアアァァッ!」と削り裂きながら脳髄へと食い込んでいく。同時にマジックハンドが、肋骨の奥でドクドクと孤独に脈打っていた彼女の心臓をガシッと掴み、ブチィッ! と大動脈ごと引きちぎった。
「――――――――ッ!!」
ルルの瞳孔が限界まで開き、全身が一度だけビクン! と大きく跳ねた。
心臓と脳髄を同時に瓶の中へと放り込まれ、腹の中を完全にくり抜かれて真っ赤な空洞となった少女の骸だけが、血の海と化した解剖台の上に、ただの「肉の抜け殻」として残されたのであった。
「……フフッ。見事な標本群です。片付けなさい。少しでも粗相をすれば、お前たちもあの瓶の中へ入れてあげますよ」
「「「ひぃぃぃぃぃぃっ!! は、はいっにゃん!! すぐに、すぐに片付けますにゃあぁぁっ!!」」」
残された医療キャレットたちは、絶望と恐怖で完全に自我を破壊され、涙と鼻水と失禁の尿で顔と服をグシャグシャにしながら、親友であったルルの肉の抜け殻と臓器の瓶を、震える手で片付け始めた。
これで、この分娩室でピューレルに逆らう者は、文字通り誰一人としていなくなったのである。
「さて。くだらない余興に時間を割いてしまいました。……メインディッシュの仕上げと行きましょうか」
ピューレルは白衣の袖を直し、ゆっくりとした足取りで、部屋の隅にある保育器へと歩み寄った。
ケースの中。
黄色と黒の縞模様を持った、小さな小さな七本尻尾の子虎。
魔道酸素と保温を絶たれ、すでにその身体は氷のように冷たくなっている。心拍モニターの波形は、もはや平坦な直線になる寸前の、かすかな揺れを残すのみであった。
「……ミィ……っ。……カヒュ……っ……」
母親の温もりを一度も知ることも、力強い産声を上げることもなく、ただ暗く冷たい箱の中で、誰にも愛されずに消えていこうとしている小さな命。
ティーゲルが自らの誇りと身体をズタズタにしてまで守ろうとし、ルルが命を懸けて救おうとした、トラ族の希望の結晶。
ピューレルは、なんの感慨もない冷徹な眼差しで保育器の蓋を開けると、血まみれのゴム手袋をはめたその手で、子虎の細い首の裏を無造作に掴み、宙へとヒョイッと吊り上げた。
「ミ……ィ……?」
虚空に吊り上げられ、子虎の小さな手足が力なくダラリと垂れ下がる。
まだ目も開いていない小さな顔が、本能的に母親の乳房を探すように、ピューレルの手袋へとすり寄ろうとした。
「勘違いするな、忌々しい雑種が。私はお前の母親ではない」
ピューレルはその小さな顔を冷酷に見据え、唇を三日月型に歪めた。
「お前は、確かに奇跡の子だ。あの強力な劇症ウイルスを浴びてなお、一ヶ月の早産に耐えて生きて産まれてきた。野生のアムールトラの圧倒的な生命力と、ティーゲルの膨大な魔道力……その二つが完璧に融合したからこそ為し得た奇跡の生存。……科学者として、純粋に称賛してあげますよ」
ピューレルの右手が、子虎の細い首をギリリ……と強く締め付け始めた。
「ですが、お前が生きていると、私の『復讐のシナリオ』が完成しないのです。ティーゲルには、お前の『死産した無惨な亡骸』を抱かせて、王家を心の底から憎悪してもらわなければならない。……だから、お前はここで死になさい。私に絶対的な力を与える、最高の贄としてね」
『……ミ、ィッ……!? カヒュッ、カハッ……!』
首を絞め上げられ、子虎が苦しそうに小さな四肢をバタバタと痙攣させる。
ピューレルはためらうことなく、子虎の首を握った右手に力を込め、左手でその小さな顎を下から押さえると――。
メキッ。
ボキリッ。
分娩室に、乾いた、そしてあまりにも残酷な骨の砕ける音が響いた。
『――――』
子虎の痙攣が、ピタリと止まった。
頭と胴体を繋ぐ頸椎を完全にへし折られ、黄色と黒の縞模様の小さな首が、不自然な角度でダラリと横に折れ曲がる。
王女ライオニアの誕生祭の熱狂に包まれた地上の喧騒の真下で、トラ族の次代を担うはずだった七本尻尾の子虎の命は、白衣の悪魔の手によって、いとも容易く、そして無慈悲にその短い生涯を終えたのであった。
「……あっけないものですね。さて、ここからが時間との勝負です。医療キャレットども、急ぎなさい!」
ピューレルは子虎の死骸を分娩台の横の作業台へと放り投げると、傍らで震えているキャレットたちへ鋭く命令を下した。
「この子虎から、『七本の尻尾』をすべて根元から切断して回収しなさい。傷一つ付けず、神経の根元から綺麗に切り取るのです。これは私の『テイルクローニング(多尾化計画)』を完成させるための、最高級の研究材料。失敗は許されませんよ」
「は、はいっにゃん……っ!」
キャレットたちが涙を拭いながらレーザーメスを握り、子虎の死骸の小さなお尻から、トラ族の誇りである『七本の尻尾』を、次々と無残に切り離していく。
切り離された七本の愛らしい尻尾は、特殊な保存液が満たされたジュラルミンケースの中へと厳重に保管された。
「尻尾の回収が完了しましたにゃ……」
「よろしい。では、あらかじめ用意しておいた『ダミー』を持ってきなさい」
ピューレルの指示を受け、キャレットの一匹が冷凍保存庫から持ち出してきたのは、最下層のイエネコ族から死産で取り出されたばかりの、数本の『貧相で細い一本尻尾』の束であった。
「それを、この子虎のお尻の切断痕へ、七本縫い付けなさい。見た目が不格好でも構いません。どうせこの後、原形を留めないほどに焼き腐らせるのですから」
「……うぅっ、ひぐっ……ごめんにゃさい、ごめんにゃさい……っ」
医療キャレットは泣きながら、尻尾を奪われて無残な姿になった子虎のお尻に、キャレットの細いダミーの尻尾を七本、医療用ステープラーでバチン、バチンと粗雑に縫い付けていった。
「ダミーの接合、完了しました。……次は、偽装処理です」
ピューレルは毒々しい緑色の液体が詰まったスプレーガンを手に取った。
しかし、その銃口を作業台の子虎へ向ける直前。彼女は不快そうに鼻をひくつかせ、氷のような視線を分娩室の隅へと向けた。
「……臭いですね。誰ですか、この神聖なラボで排泄物を漏らした汚らしい豚は」
ピューレルの視線の先。先ほどのルルの生きたままの解剖処刑を目の当たりにし、恐怖のあまり完全に失禁し、あろうことか脱糞までしてしまって自らの汚物の上にへたり込んでいる一匹の幼い医療キャレットがいた。
「ひっ……!? ご、ごめんにゃさい! ごめんにゃさいピューレル様ぁっ! にゃー、怖くて、お腹の力が抜けちゃって……っ」
そのキャレットは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、床に額をこすりつけて命乞いをした。だが、白衣の悪魔の目に一片の慈悲も宿るはずがない。
「私の分娩室を汚物で汚すなど、万死に値します。……ちょうどいい、このスプレーの『試し撃ち』の的になっていただきましょうか」
「え……? にゃ、にゃあ……っ!?」
ピューレルは一切の躊躇なく、スプレーガンの銃口をその幼い医療キャレットへと向け、引き金を引いた。
シュウゥゥゥッ!!
「これは高濃度の魔道酸と、ウイルスの腐敗酵素を合成した特製溶液です。生きた肉体に浴びればどうなるか……お前たち、よく見て脳髄に刻み込みなさい」
毒々しい緑色のミストが、悲鳴を上げる間もなくキャレットの全身に降り注いだ。
直後。
ジュワァァァァァァァッッ!!!!!
肉が、骨が、魂が焦げるような悍ましい溶解音が分娩室に響き渡った。
「ア゛ギャアアアアアアアアアアアアッッ!?!? 痛いぃぃっ! あついいいいぃぃぃっ!!!」
キャレットの真っ白なナース服が一瞬にして黒く変色して溶け落ち、その下の柔肌が、まるで熱したフライパンに落とされたバターのようにドロドロのゼリー状に崩れ落ちていく。
顔面に溶液を浴びた少女は、両手で自分の顔を覆って絶叫したが、その両手の指の肉も瞬く間に溶け落ち、白い骨がむき出しになった。
「あガッ……! いやだ、いやだにゃあ! にゃーの、にゃーのお顔が、溶けるぅぅっ!!」
目蓋がドロリと溶け落ち、むき出しになった眼球が風船のように弾けて緑色の酸と混ざり合う。鼻が削げ落ち、唇が腐り落ちて、歯茎と頭蓋骨が完全に露出する。
自らの肉体がヘドロのように溶けていく絶対的な激痛の中、少女は声帯まで溶かされ、もはや悲鳴を上げることもできなくなった。
「ギ……、ゴボッ……、……ジュル、ルル……ッ」
少女は溶けた自らの肉と血の泡を喉に詰まらせながら、床の上でビクビクと凄まじい痙攣を繰り返し、やがてドス黒い汚泥の海へとズルズルと沈み込んでいく。
わずか数十秒後。そこには、先ほどまで泣いて命乞いをしていた少女の面影など微塵もなく、ただ悪臭を放つ真っ黒な炭化液の沼と、半分溶けかかった無残な頭蓋骨だけが残されていた。
残された医療キャレットたちは、同僚が生きたままドロドロに溶かされるというこの世の地獄を前に、もはや声すら出せず、ただ白目を剥いてガチガチと歯を鳴らすことしかできなかった。
「……素晴らしい効能です。細胞の腐敗と炭化が完璧に計算通りだ」
ピューレルは床の上の黒い汚泥を一瞥すると、満足げに微笑んで、再びスプレーガンを作業台の子虎へと向けた。
「さて、次はこちらの番ですね。これを吹きかけることで、毛並みは爛れ、皮膚は焼け焦げたように黒く変色し、たった数分で『ウイルスによって胎内で完全に腐敗し、死産した無惨な死骸』へと偽装されるのですよ」
ジュワァァァァッ……!!
溶液を浴びた子虎の美しい「黄色と黒の縞模様」の毛並みが、一瞬にして黒くドロドロに溶け崩れていく。
ダミーとして縫い付けられた七本の尻尾も、酸の力で焼け焦げて皮膚と癒着し、もはやそれが本物のトラの尻尾なのか、後から付けられたイエネコの尻尾なのか、素人目には(いや、最新の医療スキャンを通さなければ)全く区別がつかないほどの「真っ黒な炭化した肉塊」へと変貌してしまった。
「完璧です。どこからどう見ても、胎内でウイルスに侵され、全身が腐敗して死産した無惨な亡骸です。……さあ、これをタオルで包み、あの愚かな母親の腕の中へ抱かせてあげなさい」
ピューレルは狂気に満ちた笑みを浮かべ、真っ黒に焼け焦げた子虎の死骸(偽装体)を、清潔な白いバスタオルで包み込んだ。
そして、出血多量で昏睡状態にあるティーゲルが眠る、地下のVIP専用病室のベッドへと、その残酷な『絶望のプレゼント』をそっと配置したのである。




