#09 DROP BY
ヴィクターから連絡が来たのは、WUTARを取り逃がした翌日の朝だった。
『時間があるなら顔を出せ』
相変わらず短い。
挨拶もなければ、何の用なのかも書いていない。
『午後なら空いてるわ』
『じゃあ二時』
端末を置く。
たぶん、楽しい話ではない。
約束の時間に着くと、建物の奥から、床を踏む音が聞こえていた。
靴底の擦れる音。それから、何かを打つ軽い音が二度。
まだ教えているのね。
廊下を抜け、半分開いていた扉を軽く叩く。
「入れ」
顔を出すと、ヴィクターはテーブルの前に座っていた。
後ろへ流した灰色の髪も、こちらを見る目も、相変わらずだ。
「久しぶり」
「ああ」
「これ、お土産」
紙袋を置くと、中を覗いた彼がこちらを見た。
「何か後ろめたいことでもあるのか」
「お菓子を買ってきただけで疑うの?」
「座れ」
仕方なく椅子を引く。
ヴィクター・ディーター・ハーグレイヴ。
元VORANTと言った方が、通りはいいかもしれない。引退してしばらく経つが、昔の映像は今でもよく流れてくる。
私も、若い頃はここで随分世話になった。
手合わせをして、ようやく一発入ったと思ったら、殴る前に戻っている。
彼の能力、《ZEITKEHR》は、自分に起きた直前一秒間の物理的な出来事を取り消す。
続けては使えないと聞いて、なら二度当てればいいと思ったものだ。
言うほど簡単ではなかったけれど。
「これ、どういうつもりだ」
テーブルの上でタブレットがこちらへ向けられた。
崩れた通路。梁に手を置くHAFEN。
その手前で、楽しそうに笑っている私。
『でも、そういう時の方が数字は跳ねるわよ?』
ああ。
「間違ったことは言ってないでしょう」
「正しけりゃ、どこで何を言ってもいいのか」
「そうは言ってないわ」
「じゃあ、余計なことを言うな。あそこで助けを待ってる人間に聞かせる話じゃないだろ」
ヴィクターが映像を止める。
「お前が気にしないからって、周りまで同じだと思うなよ」
「分かってるわよ」
「分かっててやるから言ってるんだ」
口を閉じる。
彼はしばらくこちらを見てから、短く息を吐いた。
「……お前に愛想よくしろとは言わん。だが、仕事中くらい口を慎め」
「気をつけるわ」
「その返事も何度目だろうな」
数えてないわね。
そう答えるのは、やめておいた。
扉が叩かれたのは、その時だった。
「失礼します」
女の子が一人、顔を覗かせる。
顎の辺りで揃えた黒髪に、暗い紫のトレーニングウェア。こちらへ目を向けた途端、扉に掛けた手が止まった。
「あ……すみません。まだ、お話し中でしたか」
「終わったところよ」
「勝手に終わらせるな」
ヴィクターに言われ、口を閉じる。
女の子の視線が、私と彼の間を一度だけ往復した。
あまり嬉しくないところを見られたわね。
「どうした」
「片づけ、終わりました。鍵はここでいいですか」
「ああ。入れ」
彼女が近づいてきて、テーブルへ鍵を置く。
それから、もう一度だけ私を見た。
「イリス。橘澪だ。最近、時々ここへ来てる」
「初めまして」
「初めまして。澪です。WIEDRAで活動しています」
「ああ、名前は見たことがあるわ。いくつだったかしら」
「十七です」
「若いわね」
ヴィクターが立ち上がり、棚からカップを出した。
「お前と違って物覚えがいい」
「何よ、私だって悪くなかったでしょう」
「この子は一度教えれば覚えるからな」
「それは、能力のおかげです」
澪が少し遠慮がちに口を挟む。
私は彼女へ顔を向けた。
「どんな能力?」
「《NABILT》です。一度見た身体の動きを、覚えて再現できます」
「へえ。一度で?」
「はい。ただ、筋力や速度まで同じにできるわけではないので、できない動きもあります」
なるほど。
それなら、ヴィクターに習うのは随分と効率がよさそうだ。
この人の動きを全部覚えられるなら、私だって少しくらい欲しい。
「便利ね」
「はい。すごく助かってます」
「そう便利でもない。覚えたあと、使えるまでは相応に努力がいる」
カップを置きながら、ヴィクターが言った。
澪は少し目を伏せ、それから小さく頷いた。
私は隣の椅子を指した。
「座ったら? お菓子もあるわよ」
「あ、ありがとうございます」
椅子を引き、彼女が腰を下ろす。
ヴィクターは私の持ってきた箱を開けていた。
「買ってきてよかったでしょう?」
「これで話を帳消しにするなよ」
「まだ言うの?」
隣で小さく息が漏れた。
澪を見ると、口元を引き締めている。
「笑っていいわよ」
「すみません」
「謝らなくていいのに」
皿へ出された菓子をひとつ取る。
澪も礼を言ってから手を伸ばした。
しばらくは、ヴィクターと最近の仕事の話をした。
WUTARに会ったこと。結局逃がしたこと。相変わらず、人の話をきかないところ。
「お前も大概だろ」
「私はちゃんと座って聞いてたじゃない」
ヴィクターは答えず、コーヒーを飲んだ。
その間にも、隣から何度か視線を感じた。
見返すと目が合う。けれど、澪は何か言いかけて、結局カップへ視線を落としてしまう。
「何か聞きたい?」
「え?」
「さっきから、こっちを見てるから」
「あ……すみません」
また謝られた。
怒っているわけではないのだけれど。
「この子、お前の映像をよく見てるぞ」
ヴィクターが言った。
澪の背筋が少し伸びる。
「そうなの?」
「はい。動きとか、勉強になるので」
「私、普通なら受けちゃ駄目なものまで受けるわよ」
「それはそうですけど、参考になる部分は多いです。避ける時の足の運びとか、掴まれた時の外し方とか」
話し始めると、言葉はすらすら出てきた。
随分よく見ているらしい。
「それで、実物はどう?」
「……え?」
「映像と違う?」
澪は私を見た。
それから、なぜかヴィクターを見る。
「怒られてるところは、あまり流れてないものね」
「いえ、そういう意味では!」
声が少し大きくなり、ヴィクターが笑う。
その時、テーブルの端でスマートフォンが短く震えた。
澪が画面へ手を伸ばす。
通知を確かめ、すぐに伏せたけれど、その一瞬に見えた写真には覚えがあった。
私とソフィア。
先日、食事へ行く途中に撮られたものだ。
「あら、それ」
澪の手が止まる。
「この前の写真よね」
「……はい」
伏せたスマートフォンへ視線を落としたまま、彼女は答えた。
「ソフィア好きなの?」
小さく頷く。
それから、少し間を置いて声が続いた。
「お二人とも、好きで……。一緒の配信も、よく見てます」
さっきまで足の運びについてはあんなに話していたのに、今度はそれだけ言うのにも時間がかかっている。
ふふ。
そういうこと。
「ありがとう。ソフィアにも伝えておくわ」
「えっ」
「駄目?」
「いえ、駄目じゃないです。あの、でも」
言葉が続かず、澪はカップを持ち直した。
ヴィクターがこちらを見る。
「そのくらいにしとけ」
「何もしてないでしょう」
まだ少し赤い顔を眺めながら、コーヒーを飲む。
彼女はようやくこちらを見て、ぎこちなく笑った。
「ありがとうございます」
今度は謝られなかった。
澪が帰ったあと、テーブルに残った菓子をもうひとつ取った。
「いい子ね」
「ああ」
「また会えるかしら」
「お前が来ればな」
ヴィクターは空いたカップを重ねた。
私は時計を確かめ、椅子から立ち上がる。
「そろそろ帰るわ」
「仕事か」
「打ち合わせ。遅刻したら大変よ」
「早く行け」
バッグを肩へ掛け、扉へ向かう。
廊下へ出ようとしたところで、名前を呼ばれた。
「イリス」
「何?」
振り返る。
ヴィクターは菓子の箱へ蓋を戻していた。
「呼ばれなくても、たまには来い」
少しだけ、口元が緩んだ。
「来たら怒るじゃない」
「怒られるようなことをするな」
「それは難しいわね」
顔が上がったので、今度こそ扉を抜けた。
「また来るわ」
背後で、短く返事がした。




