#10 RUSH HOUR / 01
「ねえ、あれ見て」
ソフィアに袖を引かれ、顔を上げた。
駅前の大型ビジョンに、ソフィアがいた。
風に揺れるハニーブロンド。頬へ触れた指先。
その横に新作の化粧品が現れ、最後に見慣れたプリズムのマークが浮かぶ。
随分と大きい。
これなら興味がなくても、一度くらいは目に入る。
その一度で名前を覚えて、次に店頭で見かけた時には「知っている商品」になる。
人間って、案外そういうもので買うのよね。
「もう流れてるのね」
「昨日からね。ここ、夕方だとすごい人数通るんだよ」
「でしょうね」
目の前を、スーツ姿の男が足早に横切っていく。後ろからは学生の集団。
その脇を大きなスーツケースを引いた旅行者が通ろうとして、うまく抜けられずに立ち止まった。
駅の東口から広場へ、広場からバス乗り場へ。
頭上の歩行者デッキにも人が絶えず行き交い、その向こうでは、商業施設の窓が夕日を反射していた。
私たちはちょうど、この商業施設での打ち合わせを終えたところだった。
ソフィアはこのあともう一本仕事がある。
「写真撮ってくれない?」
「自分の広告と?」
「そう」
渡されたスマートフォンを受け取り、画面の中に二人分のソフィアを入れる。
本人はビジョンを指差して笑った。
「目、閉じてるわよ」
「開けてるよ?」
「広告の方よ」
「あ、ちょっと待って。もう一回流れるから」
次の広告が終わるまで待つ。
ソフィアはこちらを向いたまま、通り過ぎる人へ小さく手を振った。
それだけで何人かが立ち止まり、次に私を見る。
「え、RAUMEA!」
聞こえた声に顔を向けると、女の子が二人、こちらを見ていた。
片方がもう片方の腕を叩いている。その叩かれている方は、私たちではなく広場の奥を見ていた。
「待って、STOSSAいる」
「え、どこ?」
あら。
視線を追うと、少し離れた植え込みの前に人が集まっていた。
その中心で、見覚えのある青年がカメラへ向かって紙のカップを持ち上げている。
短い巻き毛の先だけが、夕日に明るく光っていた。
「これ、甘くないって言った人、ほんと? めっちゃ甘いじゃんこれ」
声が聞こえてきた。
近くにいた若い男が何か答え、周囲から笑いが起こる。
STOSSA。レオ・フェリクス・チェン=ウェーバー。
最近は、彼が一口飲んだだけで翌日に行列ができるらしい。
「レオじゃん」
ソフィアも気づいた。
広告が戻るのを待ってもう一枚撮り、スマートフォンを返す。
彼女は写真を確かめてから、広場の奥へ軽く手を振った。
STOSSAの視線が、こちらへ来る。
一度目を丸くして、それからカップを下ろした。
「え、ちょっと待って。LUMEAとRAUSCHいる」
カメラを持ったスタッフが振り返る。
彼はレンズへ向けて何か言いかけ、先にこちらへ会釈した。
「こんにちは」
「こんにちは。配信中?」
「はい。そこの店の飲み物、買ってみたんです」
ソフィアに答えながら、カップを少し持ち上げる。
近づいた私たちの方へカメラが動きかけたが、彼は空いている手でそれを止めた。
「少し映ってもらっても大丈夫ですか?」
「私はいいよ。イリスは?」
「ええ」
レンズがこちらへ向く。
ソフィアが手を振ると、スタッフの端末を覗いていたSTOSSAが笑った。
「コメント急に速くなった。みんな、飲み物の話もういいの?」
さっきより、少し声が大きい。
カメラへ戻ると、随分話しやすそうね。
「二人とも、何かのお仕事ですか?」
「さっきまでね。もう帰るところ」
「そうなんですね。足止めしてすみません」
「別に。今、何人見てるの?」
聞くと、彼はもう一度端末へ目を落とした。
「二万ちょっとです。さっき一万八千だったんですけど」
「悪くないわね」
「イリス、すぐそれ?」
「気になるでしょう?」
ソフィアは笑ったけれど、ちゃっかり自分でも画面を覗いていた。
ほら。あなたも。
その時だった。
広場の北側から、何かを怒鳴る声が聞こえた。
最初は言葉までは分からなかった。駅前には、もともといろいろな音がある。
車のクラクション。構内放送。キャリーケースの車輪。近くで笑っている人間の声。
その中から、二度目の声だけがはっきり届いた。
「そいつら止めてくれ!」
顔を向ける。
商業施設の搬入口から、男が三人、走り出してきた。
二人は黒いケースを持っている。少し遅れた一人は、片手で自分の上着を引っ張りながら、何度も後ろを振り返っていた。
そのさらに後ろから、制服姿の警備員が追ってくる。
あまり仲のよさそうな追いかけっこではない。
「強盗だ!」
なるほど。
私も走り出すと、ソフィアが後ろで人を下がらせる声がした。
ケースを持った二人は、そのまま搬入車用の道路へ向かった。
けれど最後の男だけが、こちらを見て足を緩めた。
「うわ、マジでいる」
赤茶色の髪の男の声が聞こえた。
前を走っていた仲間が振り返る。
「何やってんだよ!」
「STOSSAだよ。さっき通知来てたけど、ほんとに――」
「早くしろ!」
「待てって!」
搬入路の先には白いバンが停まっていて、ケースを抱えた二人が、開いた横のドアへ荷物を放り込んでいる。
赤茶色の髪の男がドアへ伸ばした手を掴み、外へ引いた。
靴底が舗装を擦り、こちらを向いた男が、私の顔を見て口を開いた。
「捕まえた。そんなに急いで、どこへ行くの?」
「まじかよ、RAUSCH――」
男の肩越しに、ドアが閉まった。
男が振り向くより早くバンは走り出し、私に掴まれた腕だけが後ろへ残った。
ケースを積んだ仲間たちは、窓からこちらを見ることさえしなかった。
「おい!」
「あら、置いていかれたわね」
バンが搬入路から車道へ飛び出すと、歩道にいた人たちが身を引いた。
その向こうでクラクションが鳴り、ロータリーへ入ってきたバスの正面が、大きく横を向く。
バンの後部をかすめたバスが、隣の配送トラックへぶつかった。
押されたトラックの前輪が縁石を越え、歩行者デッキの支柱へ運転席から突っ込んでいく。
フロントガラスが白く砕け、頭上から降った砂埃に、近くの人間が一斉に顔を覆った。
私の手の中で、男の腕が強張った。
バンも、バスと歩道の間に挟まれて止まっている。
横のドアを内側から叩く音がしたけれど、先に目に入ったのは、バスの割れた窓から身を乗り出している女だった。
「開かない! 誰か、ここ!」
窓の下で、小さな手が座席の背を掴んでいた。
思わず男の腕を離し、私はバスへ向かった。
背後で靴音が遠ざかるのを聞きながら、潰れたトラックの運転席にも目を向ける。
ハンドルへ伏せていた運転手が、ゆっくり頭を上げていた。
あちらも生きている。
「窓から離れて」
呼びかけると、女が子どもを抱き寄せた。
私は窓枠に残ったガラスを避け、縁へ手を掛ける。
「その子を先に。こちらへ渡せる?」
女は頷いたものの、抱き上げようとしたところで顔をしかめた。
座席の間に挟まった足を引こうとしている。
その肩を、後ろから伸びた別の乗客の手が支えた。
「俺が持ちます。お子さん、こっちに」
子どもが母親の服を掴んだまま首を振る。
男はその手を無理に剥がさず、顔を近づけて何か言った。
それを聞き取ろうとしたとき、バンの方から怒鳴り声が上がった。
「エリック! こっち、どけろ!」
さっきの赤茶色の男が、車体の脇へ戻っていた。開ききらないドアの隙間から、仲間が折れ曲がった鉄骨を指差している。
「早くしろよ!」
置いていった相手によく言えるものね。
男も同じことを思ったのか、すぐには動かなかった。ドアの向こうを睨んでいたが、広場から駆けてくる警備員を見ると、鉄骨へ両手を当てる。
指の下で塗装が膨れ、細い煙が上がった。
その鉄骨の上には、まだ人の歩いているデッキがつながっている。
まずいわね。
「そこから手を離して!」
男がこちらを見る。私の顔を見て一度手を引きかけたところで、ドアの向こうからまた声が飛んだ。
「あとちょっとだろ!」
視線が戻った。
金属の軋む音に、窓枠を握った指まで震えた。
男の手元で鉄骨が折れ曲がり、頭上の欄干が、ゆっくり道路へせり出してくる。
デッキを歩いていた女が立ち止まった。
手にした袋が足元を滑り、その先で転んだ男にぶつかる。
後ろから来た一人は男を跨ぎ、もう一人は足を止めて腕を引いた。
落ちる。
「戻って! 駅の方へ!」
私の声に何人かが振り向いた。
その足元に亀裂が走り、欄干ごと道路側の床が抜け落ちる。
「中へ!」
窓から子どもを差し出そうとしていた乗客が、腕を引っ込めた。
落ちてきた塊がバスの屋根へ叩きつけられ、窓の上の縁が、私の目の前でひしゃげる。
砕けたガラスを浴びながら手を離すと、車体がこちらへ傾いてきた。
屋根を潰したコンクリートが側面を滑り落ちる。
それでもバスは戻らず、向こう側の車輪が路面から離れた。
歩道にいた人たちが押し合いながら逃げていく。
その中の男が、前にいた女の肩を両手で押した。
女がよろけて空いた隙間へ、身体を滑り込ませる。
私と目が合うと、男は伸ばした手を引っ込めた。
ふふ。
「イリス!」
ソフィアの声がした。
「バス!」
分かってるわよ。
私は横転しかけた車体へ向かって踏み込んだ。




