#11 RUSH HOUR / 02
車体の影が、頭上へ広がる。
バスの側面へ両手を当てた瞬間、こちらへ倒れ込んでいた勢いが消えた。
窓の中で、誰かの口が大きく開いている。
私を見ているのか、それとも、私の後ろにいる人間を見ているのか。
そこまで確かめる余裕はない。
重い。
当たり前ね。バスだもの。
止まった車体が、またこちらへ傾き始める。いつまでも支えてはいられない。
両手を離さず、蓄えた衝撃を返した。
ほんの少し、向こうへ押し戻す方向に。
浮いていた車輪が下がり、路面に触れた。その衝撃も、車体へ手を添えたまま吸収する。
運転手がブレーキを踏み続けていたらしく、バスは一度大きく揺れてから、すべての車輪を路面につけて止まった。
「レオ! 上!」
ソフィアの声に、顔を上げた。
デッキの外側に取り付けられていた細長い広告枠が、最後の金具一本でぶら下がっていた。
下には人がいる。
落ちたデッキを避けた人間が、今度はその真下へ逃げ込もうとしていた。
「そっち行かないで!」
STOSSAが叫ぶ。
スタッフからスマートフォンを受け取ると、持ち手から外して胸元の固定具へ差し込んだ。
紙のカップは、いつの間にかなくなっている。
STOSSAは低く腰を落とし、掌を地面へ向ける。
その瞬間、空気が弾けた。
周囲の粉塵が円を描くように吹き散り、STOSSAの身体が一気に跳ね上がった。
そのまま背後へ片手を向け、もう一度。
空中で進む方向を変え、広告枠の横へ回り込んでいく。
《DRUWEL》だったかしら。
撃った衝撃波に押されて、ずいぶん器用に飛んでいる。
私もあのくらいできたらよかったのだけれど、残念ながら、《STOVAR》では実現できない。
STOSSAが広告へ手を向ける。
「レオ! そっちは人いる!」
ソフィアの声が飛んだ。
彼の掌の先。バス乗り場の反対側を、何人かが走っていた。
「うわ、了解!」
撃つ直前に腕を引き、もう片方の手から短く衝撃波を放ち、身体が横へずれた。
広告の向こうへ回ったところで、今度こそ掌を突き出す。《DRUWEL》。
外れかけていた広告枠が、人のいない分離帯の方へ弾かれる。
その反動で反対側へ押し出されたSTOSSAは、商業施設の壁へ足をつき、膝を曲げた。そのまま下へ落ちる前に、もう一度跳ぶ。
空中で何度も、忙しいわね。
でも、羨ましい。
広告枠が地面へ落ち、大きな音を立て、それに反応した悲鳴がまた上がる。
私はバスへ向き直った。
「ドア、開けられる?」
運転手はすぐには答えなかった。
ハンドルを握ったまま、こちらを見ている。
額から血が流れていた。
「聞こえる?」
「あ……はい」
「ドアを開けて。動かなければ、こっちで開けるわ」
ようやく頷いた。
操作盤へ手を伸ばすと、前の扉が半分ほど開き、そこで止まった。
隙間へ指をかける。
枠が歪んでいる。無理に引いただけでは開かない。
噛み合っている金属の位置を確かめ、そこへ小さく衝撃を流すと、嫌な音とともに扉が外側へずれた。
「歩ける人から降りて。押さないでね」
乗客が動き始める。
先頭の男は、段差を降りた途端に膝を折った。肩を掴んで支えると、その手にすがりついてくる。
「死ぬかと思った……」
「そうね」
「本当に、もう駄目だと」
彼はそれだけを何度も繰り返した。
さっき窓の向こうで口を開けていた人だ。
今は私を見てもいない。ただ、自分の両足が道路についているのを、確かめるように見下ろしている。
死ぬと思った直後って、まずそこを確かめるのね。
「そこ、座ってて。車道には出ないで」
歩道側へ連れていき、次の乗客へ手を伸ばす。
後ろの方では、女の子が倒れた老人を起こそうとしていた。
そのすぐ横で、男が棚から鞄を下ろしている。
あなたは、目の前で倒れている老人より、そっちが先なの。
まあ、分からなくはない。
自分の荷物だもの。
でも――
「そっち持ってくれる?」
声をかけると、男はこちらを見た。
「俺?」
「他に誰がいるの」
一瞬だけ鞄を見て、それから老人を見る。
ふふ。
迷ってる。
そのまま持って降りる?
置いて手を貸す?
それとも、聞こえなかったことにする?
男は鞄を座席へ置いた。
「こっち? 腕?」
「脇の下。ゆっくりね」
老人を二人で運び出し、近くにいた警察官へ引き継いだ。
彼は無線に何か怒鳴りながら、私の背後を見る。
「まだ中に?」
「あと何人か。運転手も怪我してるわ」
「分かった」
その向こうで、黒い煙が立ち上っていた。
トラックの前部と、押し潰された道路脇の設備の間。何が燃え始めたのかまでは見えなかったが、炎はすでに、破れた覆いの外へ出ている。
煙に押されるように、人々が駅へ向かっていた。
「地下に下りないで!」
ソフィアの声が聞こえた。
振り返ると、彼女は東口の地下階段の前にいた。
私のバッグは近くの駅員が持っている。本人は両腕を広げ、階段へ向かおうとする人間を止めていた。
「煙が入ってる! 南側へ回って!」
「中を通れば――」
「今は通れない!」
言い返しかけた男の肩へ手を置き、横を向かせる。
そのまま駅員へ顔を向けた。
「ここ、入れないようにしてください。下から上がってくる人の分は空けて!」
駅員が頷いた。
もう一人を呼び、持ってきた柵を階段の片側へ置き始める。
ソフィアは柵が置かれるのを見届けると、もう次の人間へ声をかけていた。
私が口を挟む暇もないわね。
バスの最後の乗客を下ろした頃には、辺りは随分暗くなっていた。
日が沈んだせいだけではない。デッキの照明が消え、頭上に広がった粉塵と煙が、残っていた光まで隠している。
駅へ行こうとして戻ってくる人間。
戻ってきた人間を避け、また駅へ向かおうとする人間。
何を言われたのか分からず、ただ周りについて動いている人間もいた。
「押さないで!」
「子供が! 子供、まだ向こうに!」
声が重なる。
その足元へ、光が走った。
一本の明るい帯が、広場の南側へ伸びていく。
ソフィアが顔を上げていた。
まだ点いている街灯と商業施設の照明。バスの前照灯。その光が向きを変え、煙の薄い地面へ集まっている。
「こっち! この明るいところを通って!」
《SPEKRA》の光が、倒れた自転車を照らす。
その脇を通って、階段の手前で曲がり、広場の南側まで。
足を止めていた女性が、ようやく子供の手を引いて歩き出した。
人の流れが、少しずつそちらへ向き始める。
「イリス、その人こっちに!」
私は運転手に肩を貸したまま、ソフィアの示した方へ進んだ。
彼女自身は、子供を抱き上げていた。片方の靴がなくなっている。
近くの女性へ子供を渡すと、次には地面へ座り込んでいた老人の前へ屈んだ。
白い袖が、赤く汚れていた。
「ソフィア」
「私のじゃない!」
聞くより先に答えが返ってくる。
その頭上で、商業施設の大型ビジョンが切り替わった。
さっきと同じ広告。
煤ひとつついていないソフィアが、こちらへ笑っている。
その下で本人は老人の腕を自分の肩へ回し、顔をしかめながら立ち上がっていた。
今、写真を撮ったら、彼女は嫌がるかしら。
「イリス、笑ってる場合じゃない!」
「手伝おうと思ってたところよ」
運転手を警察官へ預け、老人の反対側へ入った。
ほどなく、サイレンが聞こえてきた。
一台ではない。
広場の北側へ消防車が止まり、隊員たちが駆け出してくる。
ソフィアは老人を引き継ぐと、今度は着地したSTOSSAへ向き直った。
「配信、まだついてる?」
「ついてます。たぶん、途中ずっと空しか映ってないけど」
「南口は通れるって流して。駅員さんが確認してる。東口には来ないでって」
「了解」
STOSSAが胸元のスマートフォンを外す。
画面を確かめた瞬間、眉が動いた。
「……え、こんなに」
「何人?」
尋ねると、彼は一度こちらを見た。
「二十七万。さっきまで二万だったのに」
「そういうものよ。ほらせっかく見てるなら使いましょう。よく聞こえるように言って」
STOSSAは頷き、レンズへ顔を向けた。
「今見てる人、駅前には来ないで。東口は事故で通れません。南口は使えるって確認取れてます。駅にいる人は、駅員さんの案内に従ってください」
さっきまで、甘い飲み物を紹介していた画面だ。
「家族探してる人も、現場に入らないで。入口が塞がると、出てくる人も出られなくなるから。場所の案内、コメントに固定できる?」
最後の言葉は、そばへ来たスタッフに向けられていた。
スタッフがすぐに自分の端末を操作する。
その時、地下階段から消防隊員が一人、上がってきた。
「下にまだいます!」
ソフィアが振り返る。
「何人?」
「数はまだ! 東側の通路は煙で戻れません。地下広場の西側も天井が落ちてる!」
彼女が地下入口を見る。
私も、同じ方を見た。
下から、また人の声が聞こえた。




