#08 HARD FEELINGS
四日後、私は倉庫の壁から突き出した車を眺めていた。
白い車体の半分ほどが建物の中へ入り込み、外に残った後輪が片方だけ、ゆっくり回っている。
割れた窓の下にはガラスが散り、その少し先で、警察官が作業服の男を救急隊へ引き渡していた。
「車の中には?」
「誰もいません。駐車中の車両でした。確認できた人は西側へ避難させていますが、倉庫内はまだ――」
奥で重い音がした。
搬入口から人間が転がり出てくる。
男は片肘をついて起き上がろうとして、また伏せた。
腕から肩を覆っていた灰色の硬いものが、呼吸に合わせて剥がれるように消えていく。
この人が、通報にあった能力犯罪者かしら。
「もう終わりかよ」
亜麻色の短髪の男が、倉庫から出てきた。
裂けた袖の下には擦り傷。頬にも血がついている。
「もうちょい粘れよ」
「WUTAR」
ルカ・マティヤ・ドラゴヴィッチ。
呼ぶと顔が上がり、灰青色の目が楽しそうに細まった。
「来たかRAUSCH」
「久しぶりね。今日は誰を殴ってたの?」
「お前じゃねえ奴」
伏せていた男が、這うようにこちらへ近づいてきた。
「た、助け……」
私は二人の間へ入り、警察官へ手を振った。
「この人、お願い」
両脇を支えられて離れていく男を、WUTARはもう見ていなかった。
「もういいの?」
「お前が来たからな」
あら。
それは、少し嬉しいわね。
「あの車はあなた?」
「あいつ」
「じゃあ壁は?」
「どれだよ」
背後の倉庫を見る。
壁にはいくつも穴が空き、搬入口までへこんでいた。
確かに、聞き方が悪かったわね。
通信機へ指を当てる。
「WUTARと接触。東の搬入口から離しておくわ。中の確認をお願い」
返事を聞きながら、車両を切り返すための広い舗装面へ歩いた。先には空のパレットが積んである。
「どこ行くんだよ」
「こっちよ」
顎を上げて呼ぶと、彼は笑った。
次の瞬間には、右拳が顔へ迫っていた。
左の掌で受ける。
衝撃が身体の内側へ消えた。けれど、その手首を掴もうと伸びてくる指までは止まらない。腕を抜くと、続く拳が頬のすぐ脇を通った。
「ちょっと。挨拶くらいさせてよ」
「しただろ」
そう言えばしたわね。
もう一撃受けて、相手の腕の内側へ入る。
脇腹へ右拳を当て、蓄えた衝撃を放った。
鈍い音がして、WUTARの身体が横へ飛ぶ。数メートル先で地面へ落ち、そのまま転がった。
彼の《LASTRA》は、負荷や損傷が溜まるほど力も速さも増していく。
ずいぶん重いと思いから、もう相当殴り合ったらしい。
背後で、警察官たちが搬入口へ走っていく。
「……っ、は」
WUTARが片膝をついた。脇腹に一度手を当て、唾を吐いて立ち上がる。
「それだよ」
「今ので寝てくれると、助かったんだけど」
「嘘つけ」
否定する前に笑ってしまった。
仕事の話よ、仕事の。
彼の右足が引かれる。
さっきより早く身を開いたのに、拳が髪を跳ね上げた。次の一撃を左手で受けた途端、空いていた手でその手首を掴まれる。
引く力までは吸収できない。
腕を伸ばされる前に踏み込み、距離を潰した。
額がぶつかる。
衝撃を吸収したすぐ先で、WUTARが笑っていた。
「避けんなよ」
「欲張りね」
右の掌を胸へ当て、衝撃を流す。
指は外れた。彼は二歩下がり、それだけで踏みとどまった。
手首に残った指の跡を見る。
どんな力で握ってるのよ。
『東側、確認を続けています。もう少し引きつけられますか』
「ええ」
さらに倉庫から離れる。WUTARは迷わずついてきた。
こちらは放出しても、受け止められる残りが戻るわけではない。
使った分だけまた吸収できたら、もっと付き合えるのに。
構えた彼の肘が、脇腹を庇って少し下がった。
痛いところは、庇うのね。
踏み込んで、同じ脇腹へ拳を伸ばす。
肘が落ちた。そこで拳を引き、空いた肩へ手を掛ける。横へ衝撃を流すと、彼の上体が傾いた。
けれど、倒れるより先に拳が来た。
頬に触れる。
吸収は間に合ったが、身体を引くのは、少し間に合わなかった。
「……ふふ」
「いい顔してんな」
「あなたもね」
今のは、少し悔しい。
ちゃんと崩したつもりだったのに。
続く右を避け、左を受ける。近づいてくる足へ自分の足を差し入れ、傾いた腹へ拳を当てた。
今度は、もっと強く。
WUTARがパレットへ突っ込んだ。
木が割れ、積まれていた何枚かが崩れる。
『東側、三名保護。退避させます』
「了解」
倉庫へ目を向ける。二人に支えられた人が搬入口を抜け、その後ろからも作業服の男が出てきた。
埃の向こうで、咳が聞こえた。
WUTARが腹を押さえて立ち上がる。身体が少し丸まり、吐いた息の最後に、また咳が混じった。
傷が治るわけではない。
「まだいける?」
「見りゃわかんだろ」
彼が腹から手を離す。
「そう。じゃあ、行くわ」
今度は私から距離を詰めた。
迎えにきた右拳を左手で受ける。これまでで一番大きな衝撃が、《STOVAR》へ流れ込んだ。
ああ。
まだ、上がるのね。
もう一度、受けてみたい。
そう思いながら、続く左を待たずに彼の右腕の外側へ入った。
追って身体を捻る彼の足へ、自分の足を掛ける。肩に当てた手から、斜め下へ衝撃を流した。
膝が折れ、WUTARが地面へ落ちた。
起きようとついた右手を払い、その腕を背中へ回す。持ち上げられそうになり、すぐに身体を寄せて肩と肘の角度を保った。
身体能力はかなり強くなっている。
でも、もうここから起きるのは無理よ。
「やめて。そこ、壊れるわよ」
彼はもう一度身体を起こそうとした。
私は押さえ直す。
「聞いてる?」
「聞いてるよ」
じゃあ、どうしてまだ笑うの。
「じゃあ、壊せよ」
「ちょっと――」
掌の下で、嫌な感触がした。
「っ、は……!」
WUTARの顔が痛みに歪む。
肩がずれ、止めていたはずの肘が動いた。身体を強引に捻られ、腕が抜ける。
数歩下がったWUTARの右腕は、だらりと垂れていた。
もはやまともに動いていない。
それなのに、足運びからさっきまでの鈍さが消えていた。
「ああ」
笑ってしまった。
「あなた、本当にやるのね」
「止まってやると思ったかよ」
思ったわよ。
片腕で、今度はどうするつもりなのかしら。
両手を上げ直したところで、警察官たちの足音が近づいてきた。
「動くな!」
WUTARがそちらを見て、もう一度私を見る。
通信機に声が入った。
『RAUSCH、東側奥にもう一人います! 棚の下です、意識あり!』
視線を倉庫へ向けた。
戻した時には、WUTARは走り出していた。
「あ」
一歩、踏み出す。
速い。けれど、まだ追える。
『呼吸が浅い、救急が中まで入れません!』
足が止まった。
遠ざかる背中を見る。
肩を壊してまで抜けたくせに、ここで帰るのね。
もう少し、やれそうだったのに。
「……残念」
踵を返す。
「場所は?」
『搬入口から奥へ二十メートル、右です!』
「分かった。今行くわ」
走り出したところで、背後から声が飛んできた。
「RAUSCH!」
振り返ると、随分離れたところでWUTARが笑っていた。
壊れた右腕は、下がったままだ。
「次は逃げんなよ!」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
それから笑った。
「逃げてるの、あなたでしょう!」
何か返ってきたけれど、もう聞き取れなかった。
私はそのまま倉庫へ走った。




