#06 ON CAMERA / 02
下へ目を向ける。
一階下の床が見えた。外壁を失った室内の端に瓦礫が散っているが、その奥には床が残っている。私たちが落ちるのは、ちょうどその縁に近い場所だった。
子供が私の服を掴んだ。
何かを言おうとしている。けれど声にならず、開いた口から細い息だけが漏れた。
抱いている腕に力を込め、頭を胸元へ寄せる。
次の瞬間、足裏が床に触れた。
足首から膝へ、背骨へと突き抜けるはずだった衝撃が、身体に届く前に消える。腕の中の子供にも、ほとんど衝撃は伝わっていない。
遅れて、周囲へコンクリート片が降り注ぐ。床を叩く乾いた音に、子供がびくりと肩を跳ねさせた。
顔を覗き込むと、目が合った。
「痛いところは?」
返事はない。
ただ、こちらを見る目が動き、それから小さく首を横に振った。
「そう。ちょっと降りてね」
崩れた縁から離れ、奥の柱の陰へ子供を下ろす。両足が床についても、服を掴んだ手だけは離れなかった。
「ここで待ってて。上から物が落ちてくるから、出てこないでね」
「……ママ」
掠れた声に、上を向く。
先ほどの女性が、通路の縁へ両腕を掛けていた。
身体の大半はすでに宙へ出ている。上から消防隊員が腕を伸ばしていたが、間に残った床にも亀裂が走っていて、それ以上近づけずにいるらしい。
子供の指を服から外し、柱の陰から出た。
「お子さんは無事よ!」
声を張ると、女性が下を向いた。
泣いているのか、粉塵が目に入ったのか、頬には黒い筋が二本ついていた。
「下を見て。私がいるでしょう?」
彼女の真下へ入り、両腕を広げる。
「受け止めるから、手を離して」
女性は首を振った。
指先は白くなるほど縁を掴んでいる。
肩は細かく震え、荒い呼吸だけがここまで聞こえてきた。
そうよね。怖いものね。
「大丈夫、私RAUSCHよ」
そう声をかけると、女性の目がわずかに見開かれた。私の顔を確かめるように見つめ、それから唇を動かす。
「……RAUSCH……」
「ええ。受け止めるわ」
恐怖が消えたわけではない。縁にしがみついた腕はまだ震えているし、呼吸も荒い。
それでも彼女は、私から目を逸らさなかった。
数秒ほどそうしてから、ぎゅっと目を閉じた。
縁を掴んでいた指が、一本ずつほどけていく。
あら。
本当に離すのね。
私の名前ひとつで、まだ掴んでいられる場所から手を離す。知らない女の言葉ではなく、RAUSCHという名前を信じて。
面白いものね。
最後の指が外れ、女性の身体が落ちてくる。
背中と腿の下へ腕を差し入れた瞬間、落下の衝撃が《STOVAR》へ流れ込んだ。
勢いに腕を弾かれることも、肩を痛めることもなく、女性の身体が腕の中へ収まる。
残った重さを受け止めて、少し膝を曲げた。
「……はい、到着」
女性はまだ目を閉じていた。私の肩を掴んだ手に力が入り、呼吸をするたびに身体が小さく震えている。
「もう大丈夫よ。足、下ろせる?」
恐る恐る目を開けた彼女が、私の顔を見た。それから足元へ視線を落とし、ようやく、小さく頷いた。
女性の足が床につくのを待って、背中に回していた腕を離した。
「お子さん、あそこよ」
柱の方を指すと、女性は弾かれたように顔を上げた。その先から小さな顔が覗き、こちらを見つけるなり声を上げる。
女性も名前を呼びながら駆け寄り、膝をついて子供を抱き締めた。小さな両腕が首へ回されるのを見届けたところで、頭上から別の声が降ってきた。
「おい! 俺も!」
見上げると、男が崩れた通路からこちらを覗いていた。後ろにいた消防隊員に肩を押さえられているが、それでも私へ向かって手を振っている。
「俺も飛んでいいか!?」
「まだ駄目」
男の動きが止まった。
その間にもう一度、頭上の床と足元を見比べる。
さっき女性を受け止めた位置には、新しく落ちてきたコンクリート片が転がっていた。靴で脇へ押しやり、上にいる男へ視線を戻す。
「HAFEN。そっち、何人残ってる?」
彼はすぐに背後へ顔を向けた。消防隊員と言葉を交わし、避難者たちを確認してから、こちらへ答える。
「六人です! 後ろの通路も崩れて、戻れません!」
「こっちへ下ろすわ。一人ずつ、私が呼んでから」
「……分かりました!」
彼が避難者たちへ声をかけると、身を乗り出していた男も大人しく一歩下がった。梁へ当てた手はそのままに、空いている方の手で待つ位置を示している。
ちゃんと話が早いじゃない。
下の階の奥からは、こちらへ走ってくる消防隊員のライトが見えた。母子を引き継いでもらい、この場所からの退路が使えることを確認してから、もう一度腕を広げる。
「じゃあ、あなたから」
「本当に大丈夫なんだよな?」
「さっき見てたでしょう?」
「見てたけど……」
男は縁へ腰を下ろし、宙に出した足の下を覗いた。こちらを見て、もう一度高さを確かめる。その後ろでは、次に誰が降りるのか相談する声が聞こえ始めていた。
さっきまで、落ちたら死ぬと思っていた場所だ。
今では、そこから降りる順番を決めている。
「俺、結構重いぞ」
「そうみたいね」
「おい」
「受け止めるから。前へ跳ばないで、そのまま下りてきて」
男が口を閉じ、私を見た。それから一度大きく息を吐くと、縁についた両手で身体を押し出した。
落ちてくる身体へ両腕を合わせる。
触れた瞬間、勢いが消えた。
残った重さは見た目どおりで、私は膝を曲げながら男の足を床へ下ろした。
「はい。奥の隊員についていって」
男は自分の足元を見て、それから私の顔を見た。
「……もう?」
「もう」
まだ何か言いたそうだったが、呼びかけた消防隊員に促されて歩き出す。
数歩進んだところで振り返り、上へ向かって手を振った。
「大丈夫だ! 全然痛くない!」
その声で、上の空気が変わった。
縁からこちらを覗く顔が増え、誰かが安堵したように笑う。「次、どうぞ」と譲る声まで聞こえてきた。
さっきまで互いの身体にしがみつくようにしていた人間が、少しずつ間を空けて立ち始めている。
ほんと面白いわ。
火が消えたわけでも、建物が直ったわけでもない。
すぐ横ではまだ煙が流れているし、上から落ちてきた小さな破片が、今も私の足元で跳ねた。
けれど彼らは、もうそんなことは気にしていない。
「次、いいですか!」
「ええ。一人ずつね」
まるでアトラクションの係員だ。
そう思うと、少し笑ってしまった。
次の女性は、縁に座るところまでは早かった。
けれど足を出した途端に動けなくなり、後ろへ首を振った。
「やっぱり無理、ちょっと待って」
「いいわよ。こっちを見て」
下から声をかけると、彼女は足元を見ないように、真っ直ぐ私へ顔を向けた。
その後ろで、さっきまで口元を緩めていた若い男まで、つられたように唇を引き結ぶ。
ふふ。
自分の番になると、やっぱり怖いのね。
「目、閉じててもいい?」
「お好きにどうぞ」
「絶対、受け止めてね」
「そのつもりよ」
彼女が目を閉じる。
私はその身体が縁を離れるのに合わせて、もう一度両腕を伸ばした。
その後も、一人を下ろしては次を呼んだ。
RAUSCHだと何度も確認してから手を離す人間もいれば、私の顔すらろくに見ず、そのまま落ちてくる人間もいる。
受け止められた途端に笑い出した男は、床へ足をつけると膝が震えて立てなくなり、消防隊員に肩を貸してもらっていた。
見た目だけでは、なかなか分からない。
怖がっていた人間が案外あっさり飛び降りたり。
平気そうにしていた人間が、終わった途端に動けなくなったり。
こういうところは、やっぱり面白い。
腕には少しずつ疲れが溜まってきたが、吸収できる量にはまだ余裕があった。
最後の一人を下ろしてから、指を開いたり閉じたりしながら上を見上げる。
「これで全員?」
「全員です!」
HAFENが答えた。
そう、よかった。
それから、上階へ戻った。
「お疲れさま」
声をかけると、HAFENがこちらを見る。梁から離した手を、もう片方の手でゆっくり揉んでいた。指を曲げるたびに、わずかに眉が動く。
「避難者たちは……」
「消防に引き継いだわ。みんな歩けてる」
「そうですか」
彼は長く息を吐いた。張っていた肩が下がり、視線が崩れた通路へ向く。その先をしばらく見つめてから、もう一度こちらを見た。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
礼は言うのね。
さっきまであんな顔をしていたのに、頭まで下げる。もっと言いづらそうにするかと思ったけれど、そこは別らしい。
「何ですか」
「別に。あなたが止めていてくれて助かったわ」
彼は揉んでいた手を止めた。それから、その手へ目を落とす。
「……子供には、届きませんでした」
「そうね、でも私が届いたわ」
顔が上がった。
「それに、あなたがいなかったら、あれごと落ちていたわ」
落ちた鉄骨を顎で示すと、彼はそちらへ視線を向けた。何か言いかけて口を開き、けれど結局、そのまま閉じる。
納得した顔ではない。
自分の指が届かなかったところを、まだ考えているのかしら。
少し離れた場所で、スタッフが私へ手を振った。こちらへ歩いてくる彼女のカメラは、今は下を向いている。
「イリスさん、腕は大丈夫ですか?」
「少し疲れたわ。明日のウェイトは軽くしようかしら」
「そのくらいにしてください」
隣でHAFENが動いた。
見ると、もう手を揉むのをやめ、近くの消防隊員へ声をかけていた。
あら。
まだ働くのね。
返事を待っている横顔を眺めながら、私もグローブの留め具を締め直した。




