#04 BETWEEN CALLS / 02
「じゃ、私はまだ撮影残ってるから」
そう言ってスタジオに戻るソフィアと別れ、道路脇でタクシーを拾った。
流れる景色を横目に見ながら、ほとんど手癖のようにスマートフォンを開く。
さっきの子が投稿した写真は、もう四十万表示を超えていた。
本人でも、事務所でもない。
ファンがただ道端で撮った1枚の写真だが、私とソフィアが並んでいるというだけで、何十万もの人間がそれを見る。
大したものね。
二十分ほど走った頃、スマートフォンを閉じて窓の外に目をやると、見慣れた建物が見えてきた。
今日も屋上にはヘリが一台停まっている。
タクシーを降りエントランスに入ると、ちょうど昼休憩を終えた様子のスタッフが出迎えてくれた。
「おかえりなさい、イリスさん」
「ただいま」
「これからトレーニングですか?」
「もちろん」
荷物を預け、そのままエレベーターでトレーニング区画へ向かう。
「さて、と」
更衣室でトレーニングウェアに着替え、まずは軽く走って体を温める。
それからウェイトへ移り、懸垂を挟んで、格闘の動きを一通り。
ヒーローだって人間だ。放っておけば衰える。
階段を駆け上がっただけで息切れしてるヒーローなんて、情けないでしょう?
人間を瓦礫の下から引っ張り出すこともあれば、自分より身体の大きな男を担ぐこともある。
相手が能力犯罪者なら戦うことだってある。
体力、バネ、体幹、戦闘技術
必要なものをあげるとキリがない。
そして、いちばん欠かせないのがーー
能力訓練。
壁際の端末を操作し、メニューから《Car》を選ぶ。
想定されているのは、時速六十キロで走る乗用車との衝突。
中央の所定の位置へ立つと、正面の大型装置が低い駆動音を響かせながら動き始めた。
短い警告音の直後、衝撃板が凄まじい勢いで射出される。
何もせずに受ければ、ただでは済まない。
でも逃げる必要はない。腰を落とし、両腕を前へ構える。
激突。
腕に触れた瞬間、あれほどの勢いで迫っていた衝撃板が、不自然なほどあっさりと止まる。
衝突によって生じるはずだった力だけが、身体の内側へ蓄えられる。
停止した衝撃板から腕を離し、少し離れた標的に向き直る。
「はっ!」
一歩踏み込み、正面の標的へ拳を打ち込むと、今度こそ、重い衝撃音が室内に響いた。
拳が触れた一点から標的全体が激しく揺れ、固定された台座まで軋む。
悪くない、だが少し出しすぎた。
端末に表示された数値を確認し、もう一度構える。
《STOVAR》でやっていること自体は単純だ。
受けた衝撃を溜めて、それを別の場所へ返す。それだけのこと。
難しいのは、自分の中にどれだけ残っているのかを把握して、それを必要なだけ正確に放出することだった。
昔はそれが上手く出来なくて随分と苦労した。
それに、私が一日に吸収できる衝撃には限界がある。
放った分だけまた吸収できるなら楽だが、残念ながらそんな便利には出来ていない。
使えば減る。減った分は身体を休めなければ戻らない。
だからこそ管理を間違えるわけにはいかなかった。
それこそトレーニングで使い切った後に事件が起きて、その場にWUTARでもいたらさすがにもったいない。
彼との戦闘は楽しいもの。
「今日はこの辺ね」
予定していたメニューを終えて、端末を閉じた。
汗で張りついた髪を指で払って、そのままシャワールームへ向かう。
服を脱ぐと、冷えた空気が肌に触れた。
鏡の中では、髪を上げた拍子に首元から脇腹へ薄く汗が流れていく。
指先で温度を確かめ、湯の下へ入ると額に張りついていた髪がほどけ、頬を伝った湯が顎から落ちた。
首筋から鎖骨を撫で、胸元を流れていく温かさに、思わず息が漏れる。
「……はぁ」
少し熱めにして、肩へ当てる。
さっきまで力を入れていた背中が、ゆっくり緩んでいく。片手を壁につき、顔を伏せたまま、しばらくそうしていた。
これで今日はもう何もしなくていいのなら、言うことはないのだけれど。
濡れた髪を両手で後ろへ流し、シャンプーを手に取る。
指を通すたびに泡が立ち、浴室に馴染みのある香りが広がった。目を閉じて洗っていると、肘を伝った泡が脇腹へ落ちる。
髪をすすぎ、身体を洗い終えたところで、もう一度だけ背中に湯を当てた。
温かい。
しばらくそのまま浴びていると、喉の渇きが気になってきた。
そういえば昼にコーヒーを飲んだきり、何も飲んでいない。
シャワーを止め髪の先から落ちる雫を軽く絞り、扉の向こうへ手を伸ばしてタオルを取る。
鏡はすっかり曇っていて、自分の姿もぼんやりとしか見えない。
シャワーを終え、着替えてから上の階へ戻る。
自宅のドアを開けると、窓から差し込む日差しがリビングの床を明るく照らしていた。
朝、出るときに開けたカーテンはそのまま。テーブルの上には、読みかけの雑誌が伏せてある。
棚から水を取り出し、立ったまま口をつける。
乾いていた喉に水が落ちていく感覚が心地よくて、そのまま半分ほど飲んでしまった。
それからソファへ向かいかけて、まだ湿っている髪が首に触れた。
先に乾かさないと。
洗面所へ引き返し、ドライヤーを手に取る。
片手で髪を持ち上げながら温風を当てていると、脇に置いたスマートフォンが震えた。画面にはソフィアの名前が出ている。
『終わったー』
続けて写真が届いた。
スタジオの鏡越しに撮ったらしく、彼女の後ろには照明と、何かを片づけているスタッフが映っている。
頬に乗っている色は、昼に見たものより少し濃い。
『こっちとさっきの、どっちがいい?』
ドライヤーを止めて、写真を拡大する。
『昼の方』
『即答じゃん。色には興味ないんじゃなかった?』
『あなたに似合うかくらいは見るわよ』
送ってから、もう一度ドライヤーのスイッチを入れた。
髪を乾かし終え、リビングへ戻る。
今度こそソファに腰を下ろし、そのまま深く背もたれへ沈んだ。
「……疲れた」
特に言おうと思ったわけではないが、勝手に口からこぼれていた。
まあ、あれだけ動けば当然か。
そのまま数秒、何もせず天井を眺める。
下の階ではまだスタッフが働いているし、建物のどこかでは端末が鳴ったり、人が行き来したりしているのだろう。外へ出れば、ほんの少し歩くだけでも誰かに気づかれる。
今日だってそうだった。
けれど、この空間はプライベート。
聞こえるのは空調の低い音と、遠くからかすかに伝わってくる建物の振動くらいだった。
テーブルへ置いたスマートフォンを手に取る。
さっきソフィアと撮られた写真は、いつの間にか百二十万表示を超えていた。
「……伸びたわね」
別に、それで何かが変わるわけでもない。
百二十万人に見られたからといって、私が百二十万倍価値のある人間になるわけでもないし、明日になれば別の何かが話題になって、この数字だってそのうち誰も気にしなくなる。
それでも、増えている数字を見ると少し嬉しい。
くだらない。でも、悪くない。
画面を閉じ、スマートフォンを腹の上へ置いた。
何か動画でも見るつもりだった気もするし、ニュースくらい確認しておこうと思っていた気もする。
けれど、わざわざもう一度画面を点ける気にはならなかった。
窓から差し込む午後の日差しが、リビングの床を斜めに照らしている。
さっきシャワーを浴びたばかりだからか、身体の内側にはまだ薄く熱が残っていた。乾かした髪も完全に冷えてはいなくて、首筋へ触れるたびにほんのり温かい。
背もたれへもう少し深く沈む。
脚を伸ばして、力を抜いた。
トレーニングのあとに張っていた太腿や背中が、今になって重さを思い出したようにソファへ沈んでいく。
少し、休もう。
空調の音は一定で、遠くから伝わっていた建物の振動も、意識して聞かなければ気にならない程度だった。
身体の力が、ひとつずつ抜けていく。
あと五分くらい。
それくらい休んだら起きればいい。
たぶん。
そう考えたところで、意識が一度ふっと浅く沈んだ。
――ピピピピピピッ!
鋭い電子音が、静かなリビングを切り裂いた。
目が開く。
腹の上に置いていたスマートフォンが激しく震え、画面いっぱいに赤い通知が表示されている。
通知を開きながら立ち上がり、テーブルに置いていた水を掴む。残っていた分を一気に飲み干したところで、そのままスタッフから着信が入った。
『イリスさん、緊急です。現場から応援要請が入りました』
スマートフォンを耳に当てたまま、自宅を出る。
「場所は?」
『中央区。高層複合施設で火災と一部崩落。現在、消防が避難誘導中です』
エレベーターのボタンを押す。
「取り残されてる人数は?」
『確認中です。少なくとも十数名。現場から瓦礫除去と落下救助を想定した応援要請が来ています』
「分かった。ヘリ出せるわね?」
『はい』
「じゃあ上で」
扉が開く。
乗り込んだところで、さっきまで残っていた眠気はもうなかった。




