特急HN三便
四〇分ほど歩き、急遽飛び込んだ駅の窓口で、グレイは夜行列車の寝台特急券を購入することに成功した。
「寝台列車に乗るのは初めて! 何か匂うね!」
「そういうもんだから、あんまデカい声で言うな」
ホームに滑り込んできた大型の列車に乗り込む。
始発駅だというのに、歴代の利用客が残していった汗とタバコの臭いがすっかり染みついていた。シーツの下のマットレスは、素手で触るのをためらう色に変わっている。
片側が通路、もう一方に向かい合わせの二段ベッドがずらりと並ぶ。個室のようでいて、実際はカーテンで仕切られただけの開放式。開けている間は、正面の乗客と常に顔を合わせることになる。
寝台に腰掛ける。互いの膝が当たりそうなほど狭い空間だったが、お嬢様であるはずのライツはそれほど苦でもないらしい。新鮮な環境に心躍らせ、下段のクロフォードのベッドに腰掛けて、興味深そうに車窓を眺めている。
参っていたのはクロフォードの方だった。発車して二〇分、心地良さとは程遠い揺れの中、背筋を伸ばしたまま呟く。
「これが……あと二八時間も続くんですか……」
「こうやって同じ寝台区分の人たちと一緒にいると楽しくていいじゃん! 本当は全然知らない人とも仲良くなりたかったけど、イーサンが四席も確保しちゃったからしょうがないね」
「気ぃ利かせてやったんだぞ。同部屋に薄汚ぇおっさんがいたら、丸一日最悪な気分だろ」
「それもまた旅の思い出だよー。身の上話なんかしてさ、缶ビール片手に盛り上がるなんて、映画みたいじゃない?」
「未成年の飲酒はダメですよ」
「ぶー、列車酔いになりかけてる人が何か言ってるー」
四席、つまり一部屋分確保した真の理由は、安全のためだ。
ライツが何者かに狙われている可能性が浮上した以上、リスクは最小限に抑えたい。馬鹿馬鹿しい想定だが、相部屋になった人物が殺し屋だった、という事態も考えられる。もっとも、廊下と区画を隔てているのは薄い水色のカーテン一枚なので、防犯も何もあったものではないのだが。
「好奇心旺盛な奴。最近のガキはもっと冷めてるもんじゃないのか」
「えー、どうだろ? 私は昔からこんな感じだよ? パパとママにはよく叱られるけどね」
「危ない目にあったことはないのか?」
「んー、別に。さっきの事故が人生最大のピンチだったかもね! イーサンのおかげで助かっちゃった、ありがと!」
ライツは屈託なく笑った。
「中学の同級生にボディガード付きのお姫様がいたけど、私にも探偵の用心棒ができるなんてね。気分はプリンセスかも!」
「人生最大のピンチの直後にしちゃ随分軽いな」
この調子では、身代金目的の誘拐などという経験もないだろう。
多くを知っているわけではないが、強い恨みを買うようなタイプにも見えない。命を狙われているかもしれない、と言われても、本人に理由が分かるはずもなかった。
となれば原因は父親か。高級自動車メーカーの社長――肩書だけでも敵は多そうだ。ダリアは、その諍いに巻き込まれようとしているのかもしれない。
グレイは考えを巡らせた。
いずれにせよ、今の段階で彼女に明かすわけにはいかない。
不必要な不安を与えるだけだ。
グレイはポケットからオイルライターを取り出し、掌の中で転がしてから、蓋を開けて閉じた。
するとクロフォードが、ハンドバッグからハンカチを取り出し、無言で差し出してきた。
「血が付いています。不衛生ですから、速やかに拭き取ってください」
目を逸らし気味に白い布を押し付けられる。
グレイは自分の右拳を見た。出血はすでに止まり、血は乾いている。
「血液が付着した手で、そこら中触られては迷惑ですので」
「そんなこと言って! 本当は心配してるんじゃないのー?」
ライツがいたずらっぽく笑い、クロフォードの頬を人差し指でぷにぷに突く。
「え、えぇ、確かに。私の護衛はダリアさんだけでなく、この男も対象でしょうから。業腹ですが、警官として一般市民に怪我をされては、私の能力が疑われますので」
クロフォードはまぶたをぴくりと動かして答えた。
「可愛くねぇ。もうちょっと言い方ってもんがあるでしょうよ」
「は。上目遣いの猫撫で声で言えば満足ですか? それともナースのように手当てでもすれば納得しますか?」
「えぇ、俺何かしたー?」
「最初に会った時、私を犯罪者扱いしましたよね? それにクラスで浮いてたタイプだの、小娘だの言いましたよね⁉ 私は失礼な態度には、それに相応しい対応を心がけていますので!」
「もういいもういい、面倒臭ぇ! これ、あんがとさん!」
不衛生だと怒鳴りながらも、ハンカチは貸してくれる。
どういう理屈だよ、と頭に疑問符を浮かべつつ、グレイはハンカチを受け取って部屋を出た。
「でも、その……先ほどは庇っていただいて、その、助かりました……」
小さな声が、かすかに鼓膜を震わせた。
(面倒な性格してんなー。律儀というかなんというか)
グレイは冗談の一つでも返そうとしたが、「はいよー」とだけ応じ、トイレへ向かう。
ふと髪をかき上げると、ぱらぱらとガラスの破片が落ちてきた。
×××
隣の車両に移り、最後方のトイレに向かうと、ちょっとした列ができていた。
廊下の窓を見る。列車は海岸を離れ内陸を進む。線路とハイウェイを分ける林が続き、たまに途切れても反対方向へ進む自動車が瞬きする間に流れていく退屈な景色が連続していた。
「……?」
すれ違う客がぎょっとしたような顔をグレイに向けていく。窓の僅かな反射を使って自分の姿を見ると、何やら顔が薄汚れていると気が付いた。
「あの、大丈夫、ですか……?」
声をかけてきたのはグレイの真後ろで、トイレの順番待ちをしていた青年だった。
恐る恐る、不審者に声をかけるように優しく慎重だった。
「あれ、もしかして額からも血が出てる? これ?」
「は、はい。何かあったんですか?」
「ちょっとしたトラブルでね。驚かせて悪いな」
どうやら追突された時、ハンドルで額を切ったらしい。出血に気が付かない自分の鈍感さと既に出血が止まっている自分の頑丈さに呆れてしまう。
「どちらへ行かれるんですか?」
「あぁ、ニューリードまで、おたくは?」
「僕もニューリードです。祖父に会いに行くところなんです」
「そりゃいい、有意義な冬休みだ」
「はは、それがそうでもないんですよ。祖父はおっかない人でして……あ、すみません。興味無いですよね」
「先頭の太っちょのクソが長そうだ、暗すぎない話なら是非聞きたいね」
存在するかどうかも分からない襲撃者に気を揉んでも仕方がないので、グレイは気まぐれに青年との雑談に付き合うことにした。
「メルヴィン・サンダースです」
「イーサン・グレイだ」
サンダースはホミア大学の学生で、夏には新聞社に入社することが内定していると言い、その前に祖父に会い、記者になることを報告するのだそうだ。
ボサボサのくせ毛に大きなメガネ、痩せ型の猫背で分かりにくいが、ピンと立てばグレイよりも大きいだろう。汚れたスニーカーに暗い色の長袖シャツを着て、ストラップ付きの高価なカメラを首から下げている。
ホミアらしくない男だな、とグレイは苦笑した。常夏の出身にしては線が細すぎる。
曰く、祖父は筋金入りの記者嫌いらしい。
夢だった仕事を反対される孫と愛する孫が大嫌いな仕事に就いてしまう祖父。
グレイにとっては笑ってしまうほど、小さくほのぼのとした話だったが、真っすぐ「くだらない」と言えるほど遠い話でもない。イライラしたクロフォードの顔が思い浮かんだ。彼女は探偵嫌いの警察官だ。
「お互い大変だな」
「お仕事は何を?」
「一応、探偵だ」
「た、探偵⁉ 僕、探偵って初めて見ました! すごいなぁ」
グレイにとっては慣れたものだ。探偵と聞くと多くの者が、まるで初めてパンダやキリンを見た子供のように興味を持ってくれる。映画やドラマのおかげだ。しかし、その実情とグレイ本人のしょうもなさを知ってがっかりするまでがセットでもある。
「それほどでもないさ、常に危険と隣り合わせだしな」
「し、渋いです! あ、あの、こうして会ったのも何かの縁ですし、これ! 今はまだアルバイトの学生ですけど、いずれ一人前の記者になるので!」
サンダースがシャツの胸ポケットから一枚の紙を取り出した。少し角にしわの寄ったそれは名刺だった。
かっこつけたのは冗談のつもりだったのに、サンダースは本気で受け取ってしまったらしい。まだ正式な社員でもないのに名刺を作る気の早さと律義さ、渡す真面目さと仕事に繋がるかもという貪欲さにグレイは破顔する。
「お前変な奴だなー」
白い歯を零し、臆病な顔つきに好奇心が滲んでいた。大人としてここは答えなければ、とグレイも名刺を渡そうとした。が、ポケットをまさぐっても小銭が鳴るだけだった。
「悪い、名刺は燃えて無くなっちまった。電話帳でグレイ探偵事務所で探してくれや」
「も、燃えた……?」
と、そこでトイレの順番が回ってきた。
グレイは名刺を受け取って個室へ入る。
「心配すんな、これでケツは拭かないから」
「あ、あはは……」
ターコイズのジャケットのポケットに名刺を入れ、ポンポンと胸を叩いて見せた。




